第8話ぬくもりの朝

 朝。

 遠くの森から鳥の声が聞こえる。

 薄いカーテンの隙間から差し込む光が、ゆっくりと寝室を染めていった。


 エドガーは、いつものように静かに目を開けた。

 辺境の冷えた空気にも慣れた体は、夜明けと同時に自然と目を覚ます。


 だが、その朝――

 彼の胸の上には、見慣れぬ重みがあった。


「……ん?」


 視線を下げると、そこにはフィオナがいた。

 銀の髪が彼の胸の上にふわりと広がり、アメジスト色のまつげが小さく揺れている。

 小さな唇が微かに動き、寝息が彼の胸元に触れた。


 まるで子猫のように、すっかり彼の腕の中におさまっている。


「……またか」


 低く呟いて、エドガーは軽くため息をついた。

 けれどその表情は、どこか楽しげでもあった。


 最初に同じ寝室で眠った夜は、互いにぎこちなく、端と端で寝た。

 だが数日後、気づけばフィオナはいつも彼の方へと転がってきている。


 最初は偶然だと思った。

 次の夜も、そうだと思っていた。

 けれど三度目の夜からは――確信に変わった。


 どうやらフィオナは、寝相が悪い。

 しかも、温もりのある方へと無意識に寄ってしまう癖があるようだ。


 彼女は貴族の娘として、ずっと一人で眠ってきた。

 だから自分の寝相など、気づくはずもない。


「……無防備すぎる」


 エドガーは苦笑しながらも、腕の中の彼女を起こすことができなかった。

 銀の髪が頬に触れ、体温がゆっくりと伝わってくる。

 その温かさは、魔獣の冷たい血や戦場の空気とはまるで違う。


 ふと、彼女が小さく動いた。

「ん……エドガー様……? あったかい……」

 寝ぼけ声で、まるで夢の中のように囁く。

 そして再び、彼の胸に顔を埋めた。


 心臓が跳ねた。

 彼女がそんなことを言うつもりではないと分かっていながら、妙に意識してしまう。


「……フィオナ。起きろ」

 声をかけても、返事はない。

 代わりに彼女はさらにぴたりとくっついてくる。


 エドガーは天井を見上げ、困ったように息を吐いた。

「……これでは離れられんな」


 静かな寝室に、微かな笑いが漏れる。

 戦場では常に緊張に満ちていた彼の表情が、今は不思議と柔らかい。


 彼はしばらくそのまま、フィオナの髪を指先で梳いた。

 その髪は絹のように滑らかで、触れるたびに冷えた空気が和らいでいく。


 どれほどそうしていたか、やがてフィオナがゆっくりと目を開けた。

 眠そうに瞬きをし、やがて自分の体勢に気づく。


「……っ!? あのっ……え、え、え!?」

 あまりの近さに、彼女の顔がみるみる赤く染まっていく。

 慌てて体を起こそうとして、エドガーの腕の中でバランスを崩し、再び彼の胸に倒れ込んだ。


 どさっ。


「い、今のは違うんです! あのっ、わ、私……っ!」

「落ち着け。別に怒ってはいない」

「で、でも……その……!」

 耳まで真っ赤になって言葉を詰まらせるフィオナに、エドガーは小さく笑う。


「寝相が悪いのは、罪ではない」

「……え?」

「昨夜も、見事に俺のほうへ転がってきた」

「そ、そんなはずはっ……!」

「三日連続だ」

「み、三日……!?」


 エドガーの声音は穏やかで、からかい半分、優しさ半分。

 フィオナは耳まで真っ赤にしながら俯いた。


「……恥ずかしいです」

「そう思うなら、今夜から気をつけることだな」

「無理です……寝てる時のことなんて、覚えていませんもの……」

「なら、俺が見張るしかないな」

「そ、そんな必要ありません!」


 思わず声を張り上げた彼女に、エドガーはわずかに笑った。

 その表情はどこか楽しそうで、いつもの冷静な辺境伯とは違って見える。


「……君といると、退屈しない」

「それは……褒め言葉、でしょうか」

「どうだろうな」


 そのやり取りのあと、二人の間に静かな間が落ちた。

 差し込む朝の光が、ゆっくりと彼女の髪を照らす。

 フィオナはそっと手を伸ばし、自分の髪がエドガーの服に絡まっているのを見つけ、慌ててほどこうとした。


 その手を、エドガーが軽く押さえた。

「慌てるな。……痛む」

「……っ、ありがとうございます」


 言葉を交わすたびに、心臓が少しずつ速くなる。

 不思議と、この沈黙が心地よかった。


 窓の外で、朝の風が鳴る。

 新しい一日が始まる気配の中、

 二人の間には、まだほんのりと眠気と温もりが残っていた。


「……エドガー様」

「なんだ」

「私……寝相、直せるように努力します」

「ふむ。では、どうやって?」

「その……なるべく、真ん中で寝るようにします!」

「はは……そうか。なら、今夜も観察してやろう」

「も、もう観察しないでください……!」


 彼の笑い声が、朝の空気に溶けていった。

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