禁足地の境界線

多田羅 和成

初めての仕事

第1話 見えない境界線

 夏の湿気を帯びた生暖かい風が、黒を纏う男の頬を掠める。


「ここか」


 男の視界に映るのは、真っ赤な鳥居と無造作に生えた竹藪。


 奥から酸化が進んだ血とカビた匂いが漂い、肺の中を穢そうとする。


 周りにある住宅街の灯りですら、二十メートル四方もないその土地を避けていた。


『はい、八雲やくもさんにしか頼めない禁足地きんそくちとなっております』


 スマホ越しに聞こえる低い声は現場にいないというのに、緊張が滲んでいる。


 対する八雲は焦りはなく、突き刺さる無数の見えない視線すら感じていない様子だった。


 世界のルールすら歪まされた場所であり、人が立ち入ってはならない場所だと、空気自体が圧をかけている。


「今から境界を敷くから、後はよろしく頼むよ。佐々木ささきさん」


『ご武運を』


「いつもありがとう。それじゃ」


 佐々木の無事を祈る言葉を聞いたのは、これが初めてではない。


 未だ自分が人との境界を誤らずにいるのは、彼のさりげない優しさのお陰だと理解をしていた。


 命綱であるスマホを切ると八雲の青い瞳は、より一層光を増す。


 八雲は鳥居の先に一歩踏み出した。その瞬間、身体にかかる重力が増し、酸素が薄くなる。


 竹藪の間から見えるのは、昔この地で朽ちた首のない落武者達だ。憑ける隙がないか様子を伺いながらも、近づこうとはしない。


 落武者達など目をくれず、八雲は奥へと進んでいく。


 たどり着いたのは苔の生えた小さな祠だ。その祠に置かれている空の皿に饅頭と、濁り酒が入った瓶を置く。


 八雲はここにいる土地神と落武者達が安らげるように祈りを込め、静かに手を合わせた。


 すると敵意を剥き出しにしていた土地は、僅かに鋭さを隠す。


 肌身で境界線が敷かれた事を感じると八雲は、何事もなかったかのように鳥居の外に出る。


「ここマジでヤバい心霊スポットらしいぜ」


「えー? 全然見えなーい!」


 八雲が佐々木に電話をかける為、スマホを取り出そうとした時、少し離れたところで男女の声が響く。


 女ははしゃぎながら、態とらしく怖がるフリをして男の腕に抱きついている。


「ここまで来たなら中に入ろうぜ?」


「何かあったらどうするのー?」


「そんなの得意なボクシングで、誰だろうとボッコボコにしてやんよ!」


「きゃー! まっくんカッコいい!」


 女の前でカッコつけたい男は、自慢げに言う。その様子を八雲は冷ややかに見ながらも止める事はせず、二人とすれ違った。


「どうせ幽霊なんかいないし」


「だよねー! せっかくだから写真とか撮って載せちゃおう」


 楽しそうに笑いながら、鳥居の先に入っていく男女。


「ご愁傷様」


 届かないと分かりながらも、八雲は呆れ混じりに呟いた。


「仕事終わったよ佐々木さん」


『お疲れ様です八雲さん。そういえば良い知らせがあります』


 電話越しの佐々木は嬉しそうだが、八雲は嫌な予感が働き、眉間に皺を寄せる。


 佐々木が良い知らせと言う時は、大体同じ話題を持ちかけられるからだ。


『貴方のビジネスパートナーが見つかりました。前みたいに一日で解消はしないようにしてくださいね』


「ずっと言っているだろ。俺はビジネスパートナーはいらない。一人で出来る」


伝統文化保護署でんとうぶんかほごしょとして、優秀な貴方を失うわけにはいかないのです。決定事項ですから一週間後、署に来てくださいね』


「あっ、おいっ!」


 拒否をしようとする前に、電話を切られてしまった八雲は頭を乱暴に掻いた。


 深いため息を吐き、まだ見ぬビジネスパートナーに期待などしておらず、冷え切った闇を宿している。


「どうせソイツも辞めるのにな」


 街中へと紛れる八雲の背中は悲しく孤独な色に染まっていた。


 後日、行方不明になった男女のニュースが流れる。ネットでは『禁足地に入ったらしいぜ』と賑わったが、三日もしない内に別の話題へと移っていく。


 これは誰に知られず、人の世と禁足地の線を引く仕事に就いた者達の記録。


 そして、まだ出会っていない二人がお互いの境界を超える物語である。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る