夜の暗殺者

小熊猫はにわ

第1章「空白願望」

僕はあの日、出逢ったんだ。

惰性で過ぎていた日常を、

退屈な人生を歩んでいた日々で。

2010年代の終わり。

月明かりが差し込む冷えた夜。

街を見下ろせる坂道で。

雪が浅く積もったコンクリートの道の上。

そこに居たのは純白の着物を着た美しい後ろ姿。


「こんばんは」


声をかけたら君は首を傾げて、

哀しそうに、愛おしそうに、

こちらに微笑みかけてきた。

その表情は今でも鮮明に覚えている。

思えば、これが最初の出会いだったのだ。

雅屋与一と鐘祇四季の始まり。

君はきっと忘れているだろうけど。

その晩は夜明けまで話し込んだ。

明るさを取り戻し始めた空を見て、

彼女は悲しそうに呟いた。


"名残惜しいけれどもうお終い。

そんな顔しないで。そうね。

約束をしましょう。

私と貴方の2人だけの約束。

その時が来たのなら

また、ここで逢いましょう。"


僕はその約束を生涯忘れはしない。

また君に必ず会えると信じているから。



第1章 空白願望

2019年 7月


玄関から扉の開く音が聞こえた。

鍵はかけてはいないが、

ノックくらいするのが

常識ではないのだろうか。


「なんだ、起きてたのか四季」


まだまだ眠気が襲う

気怠い午後、

私のアパートの部屋に

侵入してきたこの人間は、

雅屋与一という大層な名前の男だ。

4月の初めに知り合ってから、

毎日といってもいいほど

図々しいくらい関わってくる

彼にもいい加減呆れた。

もう随分前からの

古い知り合いのような

距離感ではあるが、

どうしてこうなったのかは

私にもわからない。

別に嫌ではないから、

追い出したりはしないが、

最近は少し、かなりうざい。


「四季、学校来ないなら連絡しろよな。

今日はずっとベットの上にいたの?」


「なんでお前に

逐一連絡しなければいけないんだ。

それに昼には起きてた」


「部屋にはずっといたんだな。

全く、月曜からサボりだなんて。」


「あぁもうわかったって。

明日は行くよ。」


「それは安心だ。

あ、そうだ。

これ、坂野からの預かり物。」


渡された封筒の中には、数枚の資料。

今日の仕事内容が正確に記載されている。

相変わらず細かい男だ。

まぁ調べたのは雅屋とだろう。

夜の予定も決まったので、

午睡を取ろうとしたら雅屋に止められた。


「こら、また寝ようとしてるだろ。

今日はアーキスターに行く約束しただろ?」


「悪いが、仕事が入った。

明日にでも回してくれ。」


「おいおい、全くひどいなぁ。

という事は、僕も事務所行きじゃないか!!

ほんと坂野といい、四季といい、

事前に連絡をくれないよな。」


男は頭を抱えながら困り顔をする。

私は彼の困った表情が割と嫌いではない。

人が悪いかもしれないが、

私は善人ぶるつもりもない。


「ー続きまして、新たなニュースです。

昨夜、笛田病院跡にて、

新たな遺体が発見されました。

身元は制服から

都内の高等学校の女子生徒であるとされ、

警察は自殺と推定し、

捜査を進めています。

これで笛田病院での遺体発見は

7件目となりました。ー」


「また女子生徒の自殺、、物騒な世の中だね。

7人目か、まだ増えるのかな。」


「どうだろうな。

これが伝染するなら、

まだまだ増えていくと思う」


ここ最近のニュースは

この話題で持ちきりだ。

女子生徒の謎の連続自殺。

今月に入って7人も飛び降りれば、

きっと警察は混乱状態だ。

最も、この街の住人たちは、

他人との繋がりを

忘れてしまった哀れな人間たちだ。

一般市民は特に関心もなく、

この悲劇的事件もすぐに忘れるだろう。


「それじゃ四季、

先に事務所に行くから、

何かあったら連絡してね、、しなよ?」


「わかったって。

とっとと行け」


彼は安心した様な顔で、家から出ていった。

私はそれを見届けつつ、

ベットから重い腰をあげ、

冷蔵庫から取り出した

ペットボトルの水を飲みながら、

壁の時計を見つめる。

16時50分。

そろそろ頃合いだ。

ジャケットを羽織り、

ホルダーを腰に固定する。

ハイカットの靴を履き、

私も家を後にした。


数分歩くと、

太陽は夕陽に変わり始めた。

繁華街に出ると、

平日にもかかわらず、

街には人が溢れている。

街灯の明かりも徐々に輝き始める。

高速道路が真上に通る橋を渡り、

繁華街を少し離れると、

目的地が見えてきた。

都市部の中に巣食う、忘れ去られた空間。

バブル時代の遺跡である、

集合住宅群。

都市計画が為されたこの一帯は、

弾けた泡と共に、

廃墟とかしている。

その中に、

異質な空気感を放つ廃病院。

病院の駐車場に着いてから辺りを見渡す。

まだ夕陽が照らす7階建ての建物は、

あちこちにひび割れができていた。

塗装も剥がれ剥き出しのコンクリート。

蔦が絡む壁には穴も空いている。

入り口近くの駐車場には、

カラーコーンで囲まれた

血の跡がべっとりと染み付いている。

加えて嗅ぎ慣れた腐敗臭。

これは完全に当たりを引いた。

そう思った瞬間だった。


ードンッッ!!!!ー


「なっ!!?」


落下と地面との衝突による

グチャりとした不協和音。

じっくりと観察をしていたら、

いきなり人が降ってきたのだ。

7階から落下したそれは、

ギリギリ人の形を保てていない

人であったもの。

破けた制服は血で染まっている。

潰れた頭部、折れ曲がった関節、胴体。

飛び出した眼球、内臓と脳の一部が

足元まで飛び散っていた。

一瞬でつくられた血の池地獄には、

流石の私も動揺してしまった。

建物の上部を見上げると、

屋上に複数の影が見える。

睨みつけるとその影は笑い出した。


「あははは、ははははは」


甲高く響く複数の少女の笑い声。

こちらを嘲笑うような嘲笑。

私は完全に煽られている。

怒りではなく、不快だ。

非常に不快だ。


迷う事なく、病院に入口に向かう。

警告を表すテープをナイフで切り、

壊れて開いたままの自動ドアから屋内に入る。

エントランスは驚くほど静かだ。

内部にも蔦が絡み付いている。

所々に亀裂と植物。

水漏れもひどい。

階段を上がり始めたら、

また笑い声が聞こえてきた。

頭に直接響く不快音に、

顔を顰めながら、笑い声が強く響く

7階の廊下を進む。

夕日に照らされた病室。

ナイフを構えながら、じっくりと歩く。

この病院の特徴的な

広いウッドデッキまで到着すると、

嘲笑は止んでいた。

無音の世界が広がる。

私の歩く音だけしか聞こえない。

対象は見つからない。

ウッドデッキの柵は壊れていて、

自殺者達はあそこから

飛び降りたことが窺える。

現場を確認しようと、柵の方に近づくと、

それは唐突に起こった。


「ぐっ!!?」


再開した笑い声と共に

ナイフを握った自身の右手が勝手に動きだす。

まるで意思を持ったかのように、

ナイフを喉元に突き刺そうとしてきた。

必死に左手で押さえようとするが、

いうことを聞かない。


「ちっ!」


右手を地面に押さえつけて、

体で覆い被さる。

寝そべるような形をとってから、

ようやく右手の主導権が戻り、

ナイフを手放す。

安堵の息をしたその瞬間。


「っ!!!」


またしても右腕は暴れだした。

押さえつけても、

腕は動き続け、

首を締め付けてくる。

気がつけば、

柵の目の前まで引きずられていた。

どうやら私も悲劇の飛び降りの

仲間入りをさせたいらしい。

鼓動が鳴り止まない。

全身の細胞が危険を察知する。

上半身が乗り出し、

地面が視界に映る。

より一層、笑い声は甲高く、大きくなり、

私を迎えるかの如く嘲笑う。


「調子に、乗るな!!!!!」


眼球に力を込め、眼を発動させる。

翠玉色に輝くその瞳は、

右腕に絡みついた

白い無数の手を捉える。

先ほど左手に握り直したナイフを

この白い物体に

自身の右腕ごと

真っ直ぐに突き刺した。


物体は霧になって消え、

右腕の痛みが脳に訴えかけてくる。

取り敢えずは命拾いしたので、

私はその場から撤退することにした。

負傷した右腕を庇いながら、

病院を後にするまで

不快な嘲笑はこだましていた。



「まったく、お前という奴は。

もう少し体を労わるとか、

大切に扱うとかさ、

知らないかもしれないけれど、

私は医者ではないからね?」


「お前がよこした仕事だろ?

責任もって治療しろよな」


笛田病院から撤退した後、

負傷した右腕を治すために

事務所まで足を運んだ。

この場所は坂野綴とか言う

胡散臭い男が表向きは

建築設計事務所として使っている

寂れた廃ビルだ。

ここに来た時には

右腕の感覚の麻痺が

より酷くなっていた。

眼を使って腕を刺したので、

通常の治療では治らない。

最悪の場合壊死してしまう。

こういう場合は素直に綴を頼るしかない。


「それにしても見事な返り討ちだねー。

そんなに手強かった?

それとも、まだ眼が慣れなかったのかな?」


事務所の地下2階。

建築設計事務所には在るまじき

曰く品が数多く転がっている倉庫で、

私の腕を診察しながら問いかけてくる。

こいつはいつも鋭い。

的確に相手の心理を読み解いてくる。


「別に。

今日はただ観察するだけのつもりだった。

この怪我は偶然だよ。」


「そうかい。

私はもっと別の理由があると思うけどね。」


「.......」


「いいかい四季。

持てる力を使わない人間は

いつか後悔するよ。

特に君のその眼。

経緯はどうであれ、

それはもう君のものだ。

君の力だ。

その眼は持て余すと

すぐにでも君の身を滅ぼすよ。

最初の頃に

それ程強い異覚だと説明した筈だけど。」


「わかってるよ。

次は殺す。」


私の目、眼球は普通じゃない。

ある出来事をきっかけに、

常人とは異なる器官となってしまった。

本来見えざるものを捉え、

殺すことができる。

始まりと終わり。

表裏一体。

始まった点があるから

終わる場所も等しく存在する。

殺す、というのは便宜上であり、

私は眼で見た物体には極点が見え、

それを切り裂くことによって

いつかくる終焉の時を即座にもたらす。

綴はこの眼をエリーゼの瞳だと教えてくれた。

太古の昔に存在した

月から来た異星人に因んでいるらしい。

どうにも胡散臭い話だが。


「四季、四季!」


「なんだよ」


「治療は終わった。

元通りにはしたが、あまり無理をするなよ」


気がつくと、右腕は元通り、

何事もなかったように治っていた。

力を入れてみる。

完璧な仕上がりだ。


「状況からして、

今回のはかなり強力な異覚だな。

ゴーストにしちゃ、現世への干渉力が強い。

重症化する前に片付けろよ四季」


「わかったっての。

あいつの声、直接脳内に聞こえてきた。」


「呼びかけによる共感、共鳴か。

脳内の神経系に働きかけて、

対象者の精神を掌握する。

まぁ厄介だな。

この手の力は防ぐのが困難で

生きた人間ではなおさら相性が悪い。」


「対処法はないのか?」


「…自我を強く保つ、

他人に影響されない屈強な精神力で

正面から打破はできる。

が、普通の人間には無理だな。耐性がない。

最もこれは一般論だ。

異覚は前提として

より強い異覚には勝てない。

四季、君の瞳はね、その辺の雑魚幽霊ぐらい

秒で駆逐できる超強力かつ

希少価値の高すぎる骨董品だよ?

助言としては、とにかく“見る“ことだ。

その眼ならきっと正面から

相手の異覚を無効化できる。

終極点を見つけ出せれば君は無敵だ。

本体に限らずとも、ね」


「要はあいつの異覚の

絡れを見えるようにしろってんだろ。

簡単に出来たら、とっくにやってるよ。」


「出来なければお前は

奴の駒になるだけだ。

勘弁してくれよ?

俺はただの研究家なんだから」


胡散臭い男は薄笑いしながら呟く。

私もこいつには世話になっている。

そうならないことを願うばかりだ。


「…

それじゃ行ってくるけど、

与一は?」


「そこにいるだろう?」


後ろに振り向くと、

部屋の隅、

散乱した物の間に置かれた

年代物のソファに

物音を一切立てずに座る人間がいた。

いつも喧しいくらいの男が

こんなにも静かなのは不気味だった。

私は急いで駆け寄って男の肩をさする。


「雅…屋、」


男は力のない人形のように椅子から崩れた。

その瞼は開くことがない。

視界が白黒交差する。


「…廃病院に行ったんだ。

全く、どうしようもない奴だよ。」


見ればわかる。

意識を全て奪られたんだ。

私は右腕だけだったが、

こいつはそうはいかなかった。

…気持ちよさそうに寝やがって。

お前以外、誰も変わりはいないのに。


事務所を急ぎ出て、数十分が経過し、

血生臭い廃病院に着いた。

駐車場には

まだ夕方の飛び降り死体が残っていた。

この程度では私の衝動は動かない。

建物上空に視線を動かす。

屋上にはこちらをじっとりと

見つめている影がいた。

よく見なくても、

その影が笑みを貼り付けている事はわかる。

私は迷わず廃病院に侵入した。

建物に入ってからは嘲笑がこだましている。

くすくす、クスクス、

笑い声は響き続ける。

エントランスには夕方には無かった

血糊の跡がある。

その跡はエレベーターまで続いていた。

ナイフを構えながら、

エレベーターに乗って屋上のボタンを押す。

錆びついた機械音と共に、

私を乗せた箱は上昇する。

右手でナイフの感触を確かめながら、

意識を集中する。

音が鳴り、扉が開いた。

屋上は水たまりが張っている。

そして、私を取り囲むように

人であった者たちが待ち構えていた。

肌に血色はなく、

血と腐敗の匂いで充満している。

10体ほどの群れの奥には

長髪の髪を靡かせて浮遊する

喪服の女性のゴースト。

影で見えなかった姿形が、

今は鮮明に捉えられている。

ゴーストが微笑むと同時に、

死者たちは私の存在を認識して、

徐々に、

徐々にとスピードを上げながら

正面から突進してきた。


髪をかき上げて脱力する。

目を数秒閉じ、耳を澄ませる。

死者の呻き声が目前に迫り来る音を聞き、

瞼を開いて開眼する。

ナイフを突き出し、

先頭の死者を

右腰から左肩にかけて切り裂く。

1秒かからずに動く死体は

再度その活動を停止した。

生きてようが死んでようが関係はない。

私の瞳は等しく極点を見る。

それを裂けば、

例え死者であろうと終わりを迎える。

ゴーストからはようやく笑みが消えた。

対照に私は笑みを浮かべる。


「そうか、お前も恐怖を感じるんだな!!!!」


エメラルドグリーンの瞳は

夜の暗闇の中でも

霞む事なく光り輝き、

向かいくる死者たちの極点を捉える。

奴らが向かってくるスピードよりも

速く駆け出し、

一体、また一体と

隙を与えず解体していく。

首、胴体、心臓、腹、脊髄。

突いて、刺して、切り裂いて。

流れるように、弧を描くように。

呼吸を乱す事なくナイフを運ぶ。

残すは一体。

ただ唖然と解体作業の惨劇を

見つめていたゴーストは

苦々しく口を歪ませながら

最後の死者に命令する。


「殺せぇっっっっっっっ!!!!!!!!!!」


振り絞られた怒号により、

死者は足を止め、うめきだす。

腕が異様に発達し、

その姿はより異形へと変貌を遂げる、、、

、、はずだった。

死者が動きを止め、

体を歪め始めた瞬間に

私は即座にナイフを投擲、

凶器は空気抵抗を受けながらも

平行運動し、

死者の心臓、極点に突き刺さった。

変形は中途半端に止まり、

ようやく終わりを遂げた死体は

断末魔を上げることなく

糸が切れたように倒れた。


「あぁ…ぁ…ァ…」


明らかに動揺を隠せていない

ゴーストを睨みつけながら、

ナイフを回収する。


「ようやく見えたな。」


今までで最も近距離、

ゴーストと正面から対峙した。


「なんで、人間如きが…」


「化物のくせに随分な態度だな。

私たちはこの星で生きる連鎖の一部さ。

ここ最近はそうでもないが、、

お前たちは違うだろ?

理から逸脱した異形、

幽霊如き。」


その言葉が癇に障ったのか、

今までで1番の殺気を肌で感じ取る。


「自害しろっ!!!!!!」


ゴーストの言葉は

現世に生きるものたちを惑わせる。

その意識を塗り潰す強力な力。

例え四季であろうと、例外はない。


ナイフを持つ右腕が動き出す。

首元を狙って突き刺された刃先は

喉元の寸前のところで停止した。


「無駄だ。

お前のそれはもう見えた。

この眼で見えて

脳が認識さえできれば、

その異覚もただの奇声でしかない。」


全ての終わりを司る瞳の前では、

どんな現象もねじ伏せられる。


一歩、また一歩と足を運ぶ。

両者の距離は縮まる。


「…死ね…はやく、

はやくはやくはやくはやく、

速く死ねぇっ!!!!」


悲痛な少女の憎しみの声は

エメラルドグリーンの光に阻まれる。


「私の瞳に映るな。


消えろ」


黒服のゴーストに

ナイフを真っ直ぐ、胸の中心に刺す。

力を込める必要はない。

ただ己の眼に従って終極点を切り裂くだけ。

ゴーストは恐怖した。

自分の存在の消失よりも、

自身を滅ぼした人間の顔は

一切の感情がなく、

黒く、深く、異様な表情は、

ただ、恐ろしかった。


声を上げることもなく、

少女の霊は消滅した。

周りを漂う

質量のある何かが

天へと昇っていく気がした。

この眼には見えないものはないが…

私はそれを見送った後、

何事もなかったようにその場を後にした。



「あれ、今何時だ…」


目が覚める。どうやら

いつの間にか寝ていたらしい。

事務所の部屋ならまだしも、

地下倉庫の方で寝ていたことに

若干の疑念があるが、

寝ぼけていた頭は思考を放棄する。

事務所が構えている階の扉を開ける。

そこにはいつもと変わらず

坂野が書類を纏めていた。


「坂野、今…何時ですか…?」


「おはよう寝坊助くん。

只今の時刻は午前2時20分。

残業代は出さないぞ」


「え…」


自分でも驚きの時刻だが、

本格的に眠りこけていたらしい。


「起こしてくれても良かったのに。」


「起こしたさ。何度もね。

もういい、帰りたまえ。

暗いから帰り道には気をつけてね。」


「はい、そうしますよ。

四季は来ましたか?」


「何時間か前にね。

この様子だとお仕事は済ませたみたいだ。」


「……あぇ?」


どうやら寝ている間に

何もかも終わっていたようだ。

明日の学校で文句を言われる未来しかない。


「ふふっ、

まだ起きているかもしれん。

礼ぐらい言っておけ。」


「時間的にはあれですけど…

とにかく失礼しますね。」


明日も学校ではあるが、

今は何も考えずに部屋を飛び出した。


「…お疲れさん。」


タバコを吹かす男は

若者たちを労い、書類に目を通す。

笛田病院連続飛び降り自殺怪異事件。

ファイリングし、

整理した書類を再度確認する。

笛田病院には精神疾患を持った

患者の受け持ちが多く、

その特徴的なバルコニーの作りから、

飛び降り事故、自殺が頻繁に起きた。

バブルの崩壊経営悪化と共に、

閉院、街もろとも廃墟化。

経営者家族は無理心中。

最後の飛び降りは院長の1人娘、

笛田未来。

何の皮肉かは知らんが、

夢と希望を込めた名を持った少女は

短い一生をあの場所で終えた。

いや、終えきれなかったのだ。

その不完全さが歪な形として、

あの廃墟に縛りつけた。

人々に忘れ去られた亡霊。

少女は今度こそ

その人生を終えることができたのだ。

ならば弔いよりも、祝福を送らねば。

タバコを吸い終え

ファイルを閉じる。

寝坊助も帰ったので、

他の書類の山を放棄して寝むりについた。


小雨の雨が降る真夜中。

所々、雲の裂け目から星と月明かりがのぞく。

部屋の明かりをつけることなく、

窓から差し込む明かりだけが

薄暗い室内を照らす。

カーテンというものはない。

家具という家具はベットだけ。

服はメタルラックに積まれているものだけだ。

壁にはワインレッドのジャケットが

ハンガーで吊るされている。

ミニマリストではないが、

執着がないのだ。

物にも、人にも。


この眼は全ての終わりが見える。

物体はもとより、1個体の生物に留まらず、

見えるのは、バラバラに崩壊した世界。

意味を失った無数の死。

一欠片の希望すら見出せない世界を

常に見ていたこの身だからこそ、

何の感傷も湧かないのである。


ベットに寝そべりながら壁に手を触れる。

打ち放しのコンクリートの壁は冷たい。

うっかり眼を使ってしまったが最後、

私の寝床は瓦礫とかす。

この力との折り合いをつけるのは、

本当に苦労を味わった物だ。

生まれた家、環境、境遇。

悪態をついたところで

変わることはない。

私は外れてしまった。

ただその事実が、

私の孤独を一層強める。


時刻は3時をまわろうとしている。

無駄に時間を浪費しても仕方がない。

もう寝てしまうかと思い、

瞼を閉じた辺りで足音が聞こえた。

ノックの音と共に扉が開く。

私は目を開けて訪問者を

この目で見つめた。

寝癖で髪をボサボサにした、

覇気のない優男。

彼は走ってきたのか、

息を切らしていた。

ほのかに期待していた自分を殺したくなる。

お互い沈黙して見つめ合った後、

男は口を開いた。


「四季…

珈琲買ってきたよ!」


満面の笑みで缶コーヒーを見せつけられる。


「…ふっ」


予想もしなかった第一声を

深夜に浴びせられた為、

自然と笑いが出てしまった。

こいつは天然な所が多々ある。

全くもって困ったやつだ。

この瞳を手に入れてから

無意味にしか感じない人生に

少しだけ、

ほんの少しだけの僅かな心。

すっかり気が抜けてしまい、

私は眠気に従って意識を飛ばした。


2019年7月 空白願望 

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