白シャツの下の白い肌

白菊

告白

「あっ、これうまい」

 ストローから口を離して佐藤がいった。

「まじ?」

「うん。ちょっと甘いし、もうちょっと炭酸強くていいけど」

「え、それほんとに気に入ってる?」

「うん」


 佐藤はいつも長袖を着てる。花の匂いを含んだあったかい風の中で、真夏の晴天の下で、じめじめした傘の下で、燃えるように色づいたあざやかな落ち葉の上で、雪が立てるぎゅっぎゅっという足音の中で。——ようは一年中だ。


 家電屋でもらった、日本庭園の写真が載ったカレンダーは八月。窓の外では蝉が鳴いてる。帰ってきてすぐにつけた冷房はまだ部屋を冷やしきってない。おれは汗で湿った半袖のシャツの腹のあたりをつまんで空気をとりこんだ。佐藤は真っ白な長袖のシャツを着てる。袖口も襟も、まるで黄ばんだりしてない。こいつは、汗をかかない、精妙な人形なのかもしれない。顔も、肌も……全部クッソ綺麗だし。


「はあ、あっつい……。おまえさ、なんでいっつも長袖なの? 死ぬよ、まじで」

 佐藤はフライドポテトを口に押しこんで、ふいと目をそらした。「半袖は着たくない」

「いや着たほうがいいって。死ぬよ?」

「大丈夫」

「ああそう。このクソあつい中、頑なに長袖を着続けるおまえのせいでおれがぶっ倒れても?」

 佐藤は少し困った顔をして、また目をそらした。「うん」

「うわひっど。泣いていい?」

「うん」

「ああそうかよ」

 おれは苦笑して、フライドポテトを三本、口に押しこんだ。味なんてわからない。あつくて死にそうなんだ、それどころじゃない。

「それ」

「うん?」

 おれはテーブルの上で大汗をかいてる、ファストフード店のロゴの入った紙コップをあごで示した。「それ……」

 佐藤はなんでもないようにそれを掴んで、差し出した。「飲む?」

 心臓がおかしくなったみたいだった。息が少し苦しくなった。おれは苦笑した。「いや、……やっぱいい」

 やっぱりだめだ。友達のふりして、佐藤のくちびるがふれたところに口をあててみようと思ったけど、だめだ。いざ意識するともう、体の中でなにかが爆発して死にそうだ。

 佐藤はなんでもないように「ふうん」といって、ストローを吸った。クソかわいい口元を見せつけるみたいに。こっちは体が変になるわ、あっちはまるで自覚がないわで、なんかもう、いらいらする。今までどうやって一緒にいたっけ? 今まで、こいつのかわいさからどうやって逃げてたっけ? ああもう……クソあっついせいで全然頭が働かない。


 おれは佐藤がストローを離すまで見入ってたその口元から視線を引き剥がして、佐藤の目のほうを見た。「ねえ、なんでいっつも長袖なの」

「なんでそんなこと訊くの」

 今度はおれが目をそらした。そして自分の分の、赤いストローのささった紙コップを弄んだ。表面はびしょ濡れで、中の氷はほとんど溶けてる。「……別に」

 こっちはあつくて死にそうなのに、なんでおまえは長袖なんか着てるくせに涼しい顔してるんだよ、とか、そんなばかみたいな、なんか嫉妬してるみたいなことはいえない。

「藤原」

 すっと腕になにかふれて、反射的に腕を引っこめた。心臓がばくばくしてる。見れば、直前までおれの腕のあったところに佐藤の手があった。

「なんだよ、急に」

「綺麗だと、思って」

「はあ……?」

「おまえの腕は、すごい……綺麗だと思って」

「なに、は? なに?」

「おれの腕は、そうじゃないから」

 ようやく、意味がわかってきた。「なんか、あったの」

「大したことじゃないよ」

 佐藤は薄っすらとでも笑ってるのに、なんか、見てて苦しくなった。

「小学校の修学旅行で、焼きそば作るとかってなって、鉄板使ってたんだよ」佐藤は小さく笑った。「で、そば通るときに足くじいて——」それ以上はいわないで、彼はただ「ばかだろ?」と笑った。


 ああクソ、苦しい……。


 今度はおれが、佐藤の腕に手を伸ばした。自然と、彼自身の左腕へ伸ばすのに、彼にふれられた左腕を選んでいた。右腕のほうが、届きやすいのに。

 臆病に引っこもうとする腕をそっと掴んだ。

「藤原、」

 引っこみそうになる腕を掴む手に、少し力をこめる。「大丈夫。隠さないで」

「やだ、離せ……!」

 左手で引き寄せて、右手で袖を押しあげた。

 はっと、佐藤の呼吸が鳴った。

 内側の真っ白な肌に、茶色っぽい痕があった。佐藤はおれの手を振りほどいて袖をおろした。それがまた悲しそうで、ますます苦しくなる。体の熱が、最悪なほど頭を働かせなくしてる。あんなことで、慰めてやれるような気になった。そんなわけはないと、あと少しでも頭がまわればわかったのに。

「……ごめん」

「最悪」

 ほんとにな、と笑いそうになる。

 佐藤の、袖に隠れた左腕を見る。あの中に、古い痕がある。その事実でまた、息苦しくなる。

「あついだろ、長袖」

「別に……」

「もういいんじゃない? あつい思いしなくて」

「やだよ。こんな汚い腕、出すの」

「汚いとは思わないけど」

 佐藤はあつそうに赤くした顔を左の下のほうに向けた。「ばかじゃないの」

「佐藤は全部、綺麗だから」

「はあ?」

 苦笑いするみたいな声で、はっとした。あれ、おれ今なんつった? まじでなんつった?

「ちがう、ちが……違う! 今の噓!」いや、それじゃ佐藤が汚いみたいだ! 「え?」なにいってんだ、おれ。どうすんだ、これ。「違う、噓じゃないけど! えっと、だからその……」

 佐藤がくすりと笑った。それでなんか、ちょっと落ち着いた。佐藤の目はちょっと濡れてる。「わかったよ、もういい。おまえが嫌じゃないなら、半袖も着る。クソあついし。この部屋、一ミリも冷房きかないし」

「はあ?」といいながら、本当に意味がわからなくて笑ってしまった。「なんでおれが基準みたいになってんだよ。あつけりゃ好きなもん着ろよ」

「うるさい」

「はあ?」

「おまえ黙れ、ほんと……」

 佐藤が拗ねた子供みたいに顔を背けるから、おもしろくなってくる。

「なにちょっとキレてんだよ」

「黙れよ。もうやだ、おまえ嫌い」

「うーわ、ひっど。泣くよ?」

「泣けよ」佐藤は膝を抱えた腕に顔を隠した。「……こっちは、おまえに気持ち悪がられないように、……クッソあつい中隠してたのに。勝手に見るし、全然気にしてないし……」

 また意味がわからなくなってきた。ぼけっと口を開けたまま考えても、結局わからない。「だから、なんでおれが基準みたいになってんだよ」

 佐藤は顔を隠したままぶんぶん首を振る。「黙れほんと……」くぐもった声は震えてるみたいに聞こえた。「おまえ、ほんとそういうとこ、ずるい……。嫌い……!」

「佐藤、」

 おれは彼に手を伸ばして、遠かったから隣にいって、袖に隠れた腕に手をあてた。

 ああ、もうだめだ……。

 おれは佐藤の腕をそっとさすった。「おれは、好きだよ。おまえのこと」

 佐藤は泣いてるんだか笑ってるんだかわからない声をあげて肩を震わせる。でもたまに洟をすするから、泣いてるのかもしれない。

「ほんとやだ、おまえ……ほんと、最悪……」

「なんだよ。なに?」

「黙れ……」

「佐藤、」

「やだ」

「顔あげて」

「やだ」

「お願い」

「やだ、おまえほんと最低……!」

 おれはたまらなくなって、彼の赤い耳に口をあてた。彼はびくりとしてあげた顔の前に、抵抗するように腕をやった。

 おれはその腕を掴んで横にやって、倒れこんだ泣きっ面にキスした。くちびるがちょっと濡れた。「やだ」とか「ばか」とか声がするけど、全部やわやわしてて、怯えたふうでもないから、口にキスした。意味わかんないくらいやわらかくて、なんかちょっと甘い。二枚の服越しにふれあった体は、ばかみたいにあつい。

 離れると、水面に水が落ちるみたいな、でももっとねちっこいような音がした。佐藤の顔と、首をなでる。めちゃくちゃあつくて、汗で湿ってる。こんなふうにさわったことなかったからわかんなかったけど、こいつは人形なんかじゃない。信じられないくらいかわいくて、信じられないくらい綺麗な、人間だ。

「ああやっばい……好き……」

 彼は顔を真っ赤にして、かわいい目に新しい涙を浮かべて、顔を背けた。

「おまえ、ほんっと最低……」

「ねえ、佐藤」

「やだ……」

「今日、あっついな」

「おまえのせいだ」

「でもおれがあついのは佐藤のせいだよ」

「知らない!」

「おれ、あつくて死にそう」

「知らないよ」

 おれはシャツの上から、佐藤の腹を指先でなでた。

 佐藤がくすぐったそうに震える。

 この服の中が、見たい。

「服、脱いじゃおうか」

 佐藤はようやく、ほんのちょっとだけ笑った。でもかわいい笑い顔は、すぐにかわいい泣きっ面に変わる。

「おまえほんと、最悪。……もうずっと前から、全部……自分から、いいたかったのに」

 おれはたまんなくなって笑った。「じゃあ、いってよ」

「うるさいよ……」

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