天上デンシロック

第8話 ボーン・トゥ・ラヴュー(前編)

　真夏の日差しが、青い海面をエメラルド色に輝かせている。自然の作り出したグラデーションは、白波（しらなみ）を立てて砂浜を彩（いろど）っていく。行き交う人々は誰もが楽しげに笑い合い、各々（おのおの）が色とりどりの水着や装飾を身に纏（まと）っている。

　八月のサンビーチは、観光地に相応（ふさわ）しい賑やかな世界だった。

　その煌（きら）びやかで眩しい世界から、サンデッキ広場とホテル街を挟んだ向かい側。喫茶店の裏庭の陰で、詩貴はひっそりと膝（ひざ）を抱えていた。観光地の飲食店のアルバイトが──それもただ、手伝いに来ただけの身の自分が──こんなにも大変だとは思っていなかったのだ。

　ボトルクレート（いわゆる、瓶飲料を入れるプラスチック製の箱のことだ）を抱えながら、彼は明るい観光地には似つかわしくない、物憂（ものう）げなため息をついた。

　今朝、コンビニへと立ち寄った後。二人は早朝の空いた時間を使い、迂回（うかい）しながら海辺の親水（しんすい）公園へと訪（おとず）れていた。夏休みシーズンいえど早朝のムーンテラスは静かで、アーチ状のモニュメント越しに熱海の海を一望（いちぼう）することができた。

　ヤシの木に囲（かこ）われた石造りのテラスを渡り、深い青色の海を緩（ゆる）やかに望（のぞ）みながらデッキの階段を降り、路地へと向かう。ホテル街の裏を通ると、やがてアルバイト先の飲食店にたどり着いた。

　出発が早朝だったので、早く着きすぎないようにとわざわざ回り道までしたのだが、道中の傾斜（けいしゃ）や階段の上り下りで思いの外（ほか）歩き疲れてしまった。結局二人共、指定された時刻よりも二時間も早く店に着くことになった。

　初日は仕込みの前に色々と説明を受けるため、少し早い時間に来て欲しいと事前連絡を受けていた。だが、それにしても彼らの到着は早すぎた。

　しかし、喫茶店“10-9BOX（ジュークボックス）”の店長の徳野一（とくのはじめ）は、そんな彼らを叱ることなく、むしろ「すごい張り切りようだね」と笑って迎え入れてくれた。電話で話した時の印象と変わらず、彼は朗（ほが）らかで気さくな雰囲気の青年だった。

　奏鳥は沢根から、徳野さんのことを『伯父さんの知人』としか聞いていなかったので、彼が思っていたより若い容姿（ようし）をしていたことに驚いた。しかし本人いわく、徳野さんは沢根の伯父さんの甥（おい）っ子なのだと聞き、納得した。

　徳野さんは亡くなった祖父が経営していた喫茶店を、友人と共に二人で継いだのだという。店の所有者（オーナー）は徳野さんの友人で、徳野さん自身はあくまでも店長という立場らしい。色々と疑問が湧いたが、どうやらそこには複雑な背景があるそうだ。

　店の事情はともかく。これからアルバイト初日だというのに既に疲れ始めている二人を、徳野さんはバックヤードの休憩室へと入れて休ませてくれた。素朴（そぼく）な木製の椅子には紐（ひも）のついた座布団が括（くく）られており、奏鳥にとってはどこか懐かしく、詩貴にとっては物珍しく感じた。

　しばらく座って休みながら、彼らは徳野さんからアルバイト内容の詳しい説明を受けることになった。調理は主にオーナーや徳野さんが担当し、会計は徳野さんの妻が担（にな）うことになっている。

　奏鳥は徳野さんと一緒に接客に入り、テーブル番号を覚えて注文を受ける係だ。詩貴の方は賃金（ちんぎん）の発生しないただの手伝いという名目（めいもく）なので、ゴミ捨てなどの簡単な裏作業を休みながら適当にやるだけで良い、とのことだった。

　奏鳥はよほどやる気に溢（あふ）れているのか、開店一時間前からテーブル番号とメニューの暗記を始め、詩貴を実際の客に見立てて練習をし始めた。

　うっかり慌てることも多いが、物覚えはよく詩貴より体力もある彼のことだ。これだけ元気があるのなら、それなりにやっていけるだろう。詩貴は真剣にメモを取る奏鳥を眺めながら安堵した。

　しかし、実際に店が開くと状況は一変した。開店の十一時、まだ昼食には早い時間だというのに、客足（きゃくあし）は次々と伸びていき、テーブルはあっという間に全て埋まってしまった。

　客席と厨房（ちゅうぼう）の間を忙（せわ）しなく行き交う奏鳥と、厨房で調理に没頭する徳野さん達に、詩貴は話しかける暇もなく、彼はただ店の裏側をあたふたとうろつくばかりだった。

　時折徳野さんの方から声がかかり、詩貴は彼の指示に従（したが）って外にゴミを出しに行ったり、洗い物の手伝いをしようとした。

　しかし非力な上に、慣れない仕事の手伝いは上手くいかなかった。洗い場に詩貴がいるとむしろ食器が溜（た）まっていってしまうため、結局彼はゴミ出し担当ということになり、ゴミが増えるまでは何もしなくて良い、ということになった。

　バックヤードから暖簾（のれん）越しに店内を覗くと、やはり奏鳥達は忙（いそが）しそうに駆け回っており、そうして懸命（けんめい）に働く彼らを見ていると、詩貴は仕事のできない自身の無力さを痛感してしまうのだった。

　いつだったか、小学校でクラスメイトとひどい口論になった後。父に叱られたことを思い出す。

『お前は賢いし能（のう）もある。常に正しいことを判断し主張できる。けれどそれだけで人生が上手くいくと思ってはだめだよ』──父の言う通りだった。何が正しいのかわかっていても、それが上手くいかなければまるで意味はない。正論は、所詮（しょせん）は論でしかないのである。

　詩貴は店の裏庭にゴミ袋やボトルクレートを運び、積んでいくだけの作業を繰り返した。それもすぐに終わって暇になってしまうので、そのたびに休憩室の窓からビーチの方の空を眺めるなどして、ひっそりと待つことになった。

　何もできることがないまま、ただぼんやりと待つのはひどく苦痛だ。空いたボトルクレートを一つ運んでから、詩貴は人気（ひとけ）のない裏口の玄関に一人座り込んだ。

　店内では奏鳥の他に、徳野さんと彼の妻、そして徳野さんと古い付き合いの友人らしいオーナーの、計四名が店を回している。

　かなりの少数精鋭（せいえい）だが、奏鳥以外の三人はこの忙しさに慣れているらしく、彼をフォローしながら臨機応変（りんきおうへん）に仕事をこなしていた。しかし、それに懸命についていく奏鳥の根気もなかなかのものだ。

　反面、自分の方はどうだろう。ただの手伝いといえど──むしろ手伝いのはずなのに、ゴミを運ぶ程度のことしかできず、店長の徳野さんには却（かえ）って気を遣（つか）わせてしまった。果てにこうして暗がりでうずくまって、時間が経つのを待ってばかりいる。

　これでは手伝いどころか足手纏（あしでまと）いだ。自分から手伝うなどと意気込んでおいて、このざまだなんて。詩貴の頭の中では、まるでもう一人自分がいて、彼自身を責め立てているようだった。

　かといって、こんな風に一人でひっそりと落ち込んでいたところで、現状はどうにもならない。詩貴はそう理解こそしていたが、無闇に自分を責め立てるもう一人の自分は、なかなか頭の中から離れてくれそうになかった。

　その上少し顔を上げれば、そこは賑やかな観光地だ。詩貴はまるで自分が影になってしまったかのような心持ちだった。眩（まばゆ）い日差しはビーチへ向かって坂道を下って行く観光客を、より楽しげに輝かしく照らしている。その光が、ますます詩貴の影を色濃く暗くしてしまうのだ。

　自分なんかが、ここまでついてくるべきではなかった。明日からは、旅館で一日中じっとして過ごそう。思わず詩貴がそう考え始めた時だった。

「あぁ、詩貴。やっぱりここにいたんだな」

　顔を上げると、陽の光を遮（さえぎ）るように奏鳥が立っていた。逆光を背に浴びながら、彼は微塵（みじん）も疲れを感じさせないほど、眩しい笑みをたたえていた。

「奏鳥……仕事は？」

「今休憩入ったとこ。本当に死ぬほど忙しくてびっくりしたぜ。つーか暑っちーなあ」

　言うや否や、奏鳥はポロシャツの首元を開け始めた。暗がりでじっとしていた詩貴でさえ、暑さを感じるほどだ。店内であくせく働いていた彼は、もっと暑かったに違いない。

　しかし奏鳥の表情は暑さに曇（くも）るどころか、却って晴れ晴れとしていた。

「お疲れ様、奏鳥。暑いのにすごく頑張ってたよね」

　詩貴が笑みを作って労（いたわ）ると、奏鳥はにっこりと笑って応えた。

「おう！　結構間違ったり慌てたりもしちまったけど、徳野さん的には大丈夫だってさ。瓶ラムネ一本割っちまったときはヒヤッとしたぜ」

　詩貴は思わず苦笑した。道理（どうり）で先ほどから何度か、店の中から奏鳥の大きな声が聞こえてきたと思っていた。彼の方も、完全に順風満帆（じゅんぷうまんぱん）とは言い難（がた）い状況のようだ。

　それでもこんな陰でうじうじと落ち込んでいる自分とは違い、奏鳥は笑顔を見せてさらに頑張ろうと意気込んでいる。詩貴は奏鳥の逞（たくま）しさが羨ましくなった。

　すると彼は、苦い笑みを浮かべる詩貴の肩を、茶化（ちゃか）すように軽く叩いた。

「人の失敗を笑うなよぉ。というか、笑えるくらいには大丈夫なんだな。もしかして体調でも悪いのかって、徳野さん達が心配してたぜ」

「えっ？」

　奏鳥の話を聞くに、どうやら詩貴は炎天下の海辺の暑さのせいで、調子を崩していると思われていたらしい。詩貴は彼らに再び心配をかけてしまったことが、尚のこと申し訳なくなってしまった。

「ううん。体の調子は大丈夫。ただちょっと……考え事してて」

「考え事？」

　詩貴の返事に、奏鳥は心配そうに眉を下げた。不安げな彼の表情を見て、詩貴は思わず口をつぐむ。

　しかし、このままこんな所で一人悩み続けていても、悩んでいることでさらに迷惑をかけてしまうだろう。そう考えた詩貴は、やはり奏鳥に気持ちを打ち明けることにした。何故か彼には遠慮することなく、悩みを打ち明けても良いと思えたのだ。

「僕……手伝いに来たはずなのに、足を引っ張ってばかりだから。これなら来ない方がマシだと思うし、明日からは手伝いを断って、一人で過ごすべきかなって……」

「ちょ、ちょっと待てよ詩貴」

　深刻そうに打ち明けられた詩貴の悩みを、奏鳥は慌てて遮（さえぎ）る。

「足引っ張ってるなんて、徳野さんそんなこと全然言ってなかったぜ？　俺なんか詩貴よりもっと失敗してると思うけど、だんだん慣れてきてるって褒められたくらいだし。そんなに気にすることないんじゃないか？」

　やや矢継（やつ）ぎ早（ばや）に言い終えてから、奏鳥は「まあ、詩貴が疲れて辛くなってるなら、無理はしないでほしいけど……」と付け加えた。

　詩貴は、彼の素直さゆえに右往左往（うおうさおう）する言葉に対し、優しさを噛み締めて立ち上がった。それは正しい論による判断というよりは、目の前の友人に心配をかけたくない一心の行動だった。

「そうだね。ちょっと悪い方向に考えすぎてたよ。疲れてるわけでも、辛くなってるわけでもないから、もう少し頑張ってみるね」

　奏鳥だって、何度も間違えたり、失敗をしながら頑張り続けているのだ。自分だけが逃げるわけにはいかない。

　休憩の終わりに店内へと戻る奏鳥と共に、詩貴も足を踏み出した。

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「初日なんて、ミスしたり上手くできないのが当たり前だよ。あれだけ忙しいのに、辞めずについて来てくれただけでもじゅうぶんさ」

　夕方、店じまいを終えた徳野さんは、二人へ向けて快活に笑ってみせた。

　日が傾く頃には、奏鳥も詩貴も旅館への帰り道すら億劫（おっくう）になるほど、すっかりくたびれてしまっていた。

　奏鳥はあまりの客の多さに、何度か注文を間違えたり、慌てて料理をこぼしたりしてしまったし、詩貴は相変わらず何をすればいいかわからず、バックヤードの人気のない場所を、ひたすら雑巾（ぞうきん）で拭いて周ったりなどしていた。

　そんな彼らの仕事ぶりはとても良いとは言い難いものだったが、それでも今日の仕事を最後まで終えたことを、徳野さんは笑顔で褒め称えてくれた。奏鳥も詩貴も、ほぼ同時に安堵（あんど）のため息をついた。

　ほっと心を弛（ゆる）ませた詩貴に向けて、徳野さんは話を続ける。

「それより、椀田くんだっけ？　厨房の裏、綺麗にしてくれてありがとうね。忙しくて掃除なんか全然できてなかったから、助かったよ」

「えっ」

　詩貴は思わず驚きの声をあげた。自分なんか、ただ店の後ろの方をうろつくか、隅の方で掃除をするくらいしかしておらず、まさか褒められるとは微塵も思っていなかった。

「うち、お爺ちゃんから継いだ店だから、色んなところが古かったり汚いんだよね。客席の方はあれでもマシになったけど、バックヤードなんて飲食店のくせにひどい有様だよ。だから掃除をしてくれるのは本当に有り難いんだ」

　徳野さんからの感謝の言葉に、詩貴は胸の内がぽかぽかと温まってくるのを感じた。

　夏の夕方は昼から残った暑さがひどく、肌に生ぬるい気（け）だるさを浴びせてくるが、この胸中（きょうちゅう）に湧いた暖かさは、そんな暑さと違う心地よい熱に思えた。

　詩貴は拳（こぶし）をぎゅっと握った。「良かったです、お役に立てて」──相変わらず簡素な言葉しか返せなかったが、徳野さんはそんな彼ににこにこと喜色（きしょく）を浮かべながら、テーブルの下から紙袋を取り出した。

「君はお手伝いさんだから、給料は出しちゃ駄目なんだろう？　けれどせっかくだから、これをお駄賃（だちん）だと思って持って行ってくれよ。日持ちもするし、お土産にもいいと思うんだ」

　差し出された紙袋に、詩貴は戸惑った。昼食に無料（ただ）でまかないを食べさせてもらったのに、お礼まで貰えるとは思っていなかった。

　すると横にいた奏鳥が、彼に小声で耳打ちした。

「詩貴。こういうのは素直に貰った方が、あげる方も嬉しいんだぜ」

　詩貴は狼狽（うろた）えながら紙袋を受け取ると、少し間を空けてから、慌てて「ありがとうございます」と頭を下げた。

「いいよいいよ、頭なんて下げなくて。無賃（むちん）で清掃なんかしてもらえるだけで、むしろこっちの方がずっと助かってるんだ。欲しいものがあったら他にもあげられるから、何でも遠慮なく言ってくれよ」

　徳野さんが爽やかな笑みを見せたことで、詩貴の心の曇りはすっと晴れていくようだった。詩貴にはお土産をもらえたことよりも、彼に『助かった』と言ってもらえたことのほうが、よほど嬉しく感じていた。

　紙袋の中身は、スルメや骨せんべいといった地元の魚介の乾物（かんぶつ）と、紙封筒に入れられた深蒸し茶だった。

　乾物はお茶のお供というよりは、どちらかというと酒の肴（さかな）のような様相（ようそう）だ。徳野さんは詩貴がまだ未成年であることを考慮して、土産にお茶を選んだのだろう。

　旅館に戻った後、二人は早速一口サイズの鯵（あじ）の骨せんべいを一つづつ口に入れてみた。パッケージに自家製と書かれているそれは、魚の旨（うま）みとほどよい苦味が詰まっており、海の風味がした。

「こういうのをつまみに、日本酒とかをグイッといくのが大人なのかなぁ」

　骨せんべいをポリポリと噛み締めながら、何気なくそんなことを言った奏鳥に、詩貴は「それは大人というよりオジサンっぽいよ」とくすくす笑いながら述べた。

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　二日目のアルバイトは、初日と比べると幾分（いくぶん）か上手くいっていた。接客に慣れてきた奏鳥は、注文をとるだけでなく厨房の作業にも加わるようになっていた。

　奏鳥は思いの外、調理器具の扱いや食器洗いの手捌（てさば）きがよく、徳野さんもその奥さん達も驚いていた。彼は普段から単身の母の手伝いをすることが多く、家事には慣れているのだという。

　一方詩貴は、相変わらず清掃に専念（せんねん）していた。掃除はすればするほど終わりが見えず、却って小さな汚れも目についてくるものだ。

　スマートフォンで調べた効率の良い掃除の情報を頼りに、詩貴は床や壁にこびり付いたシミをとり、見逃しやすい家具の隙間や窓のサッシの汚れもとり、一日中掃除に耽（ふけ）っていた。

　そうして二人共に仕事に集中していると、客の入りが緩くなったところを見計（みはか）らって、徳野さんから二人一緒に休憩に入るように声が掛かった。

　奏鳥と詩貴は、まかないの海鮮焼きそばを受け取ると、二人でビーチ沿いのサンデッキへと赴（おもむ）いた。

「汗水流して食うメシって、なんかいつもよりウマいよなぁ」

　隣で麺をかき込んでいる奏鳥がそう言ったので、詩貴は笑みをこぼしながら「そうだね」と頷（うなず）いた。

　初日とは打って変わって、今日の詩貴は自信に満ちていた。昨日は鬱陶（うっとう）しいとすら感じていた眩しい太陽が、今は輝かしく見えている。きらめく水平線をぼんやり眺めていると、隣の奏鳥は早くも焼きそばを食べ終えてしまい、手持ち無沙汰（ぶさた）になったようだった。

　自分も麺が冷めてしまう前に、早く昼食を終えてしまおう。ほのかにオイスターソースが香る焼きそばは、浜辺に似合う海鮮の芳醇（ほうじゅん）な味わいがした。

　そうして気分良く食事をとっていた、その時だった。

「おーい、成谷！」

　奏鳥にとっては聞き慣れた──詩貴にとっては忌々（いまいま）しくも忘れがたい声が、遠方から奏鳥の名を呼ぶのが聞こえた。詩貴は聞こえていないフリをしようと決め込んで、そのまま焼きそばを口に詰め込み続けた。

「沢根！　お前来てたのか！？」

　隣の奏鳥は詩貴の心境（しんきょう）を知ってか知らでか、久々に顔を合わせた友人に手を振り返した。

　詩貴がちらりと横目に見やると、どうやら沢根の方も詩貴が隣に居ることに気がついたらしい。彼のことは黙って一瞥（いちべつ）してから奏鳥の方へと向き直った。

　その一瞬の視線がひどく冷（ひ）ややかだったことに、奏鳥は気がついていないのだろうか。詩貴はたった今音を立てないように咀嚼（そしゃく）している麺が、途端（とたん）に味をなくしていくように感じた。

「言ったろ、親戚の店だからさ。ちょっとだけ買い足しの手伝いに来たんだよ。あと、ついでに部長達とバカンスだ」

　沢根は奏鳥に向けてわざとらしくウインクすると、親指でビーチの方を指さした。部長や神絵師達も遊びに来ているらしい。奏鳥は彼らの方にも顔を見せに行きたいと思ったが、休憩時間が残り少ないことを考えて思い直した。

「良いなぁ、ちゃっかり遊びに来てんじゃねーか。こっちは仕事でてんてこまいだぜ？」

「それも前に言ったじゃねえか、死ぬほど忙しいってよ。けど、その調子なら上手く行ってそうだな」

　安堵の笑みを浮かべる沢根に、奏鳥は首を傾げた。

「うーん。上手くいってんのかな、俺？　あぁでも、厨房の手伝いの方は褒められたぜ。こう見えて元々、料理には結構自信があったんだ」

「ほう、幸先（さいさき）良いじゃねえか。それなら後で俺にも食わしてくれよ」

　沢根は感心そうに笑ってみせた。奏鳥は「流石に店のメニューまでは作れないぜ！？」と真面目に答えたが、すぐに「冗談だよ」とかわされてしまった。

「けど、いつかプライベートで何か食わせてくれよ。勿論タダとは言わないぜ。……ああそうだ、成谷。俺、お前に渡したいもんがあったんだよ」

　奏鳥の休憩時間の終わりを察したのか、沢根は早々に話を切り上げ始めた。

「渡したいもん？」

「おう。買い足しついでに今から店に行くから、休憩終わる前に取りに来てくれよ」

「おっ、なんかくれるのか？」

　奏鳥が尋（たず）ねる間に、沢根はそそくさとその場を後にして、「店の方で見せっから！　店だけにな！」などと、夏場には冷ややかなジョークを残してデッキの階段を降りていった。

　一体何を渡されるのだろうか。思い当たる節を考えるよりも先に──奏鳥は、隣で空（から）になった紙皿を抱えて、静かに俯（うつむ）いている友人の存在に気がついた。詩貴はやはり、気配を消す技術を持っているようだ。

「……えっと、詩貴……」

　気まずそうに名前を呼ぶと、詩貴は小さくかぶりを振った。

「わかってるよ。僕は友達の交友関係に口を挟むほど、子供じゃないから」

　明らかに表情を曇らせて、彼は何かに耐え忍んでいるような様子だった。

　そんな詩貴の返しを、奏鳥は『どこかで聞いたことのある台詞だ』と思った。