第7話 熱海へ(後編)


 しかし、翌日の早朝「今何時⁉︎」というけたたましい声に叩き起こされた際には、流石の詩貴も奏鳥に同行したことを後悔しかけた。


 隣で慌てふためいている奏鳥を横目に、詩貴は冷静に枕元のスマートフォンを見て、その時刻に大きくため息をついた。


「……朝の三時だよ」


「え、朝なの? なーんだ」


 あれだけ大騒ぎをしておきながら、奏鳥は時刻を知るや否や呑気そうに安堵あんどした。外がまだ暗いので、てっきり夜まで寝てしまったのだと勘違いしたようだ。


「いくら疲れているからって、夜まで寝過ごすなんてあり得ないよ。僕たち昨日はだいぶ早寝だったじゃないか」


 詩貴は不機嫌なのを隠す余裕すらなく、顔も声もすっかり曇りがかっていた。彼の憂鬱そうな様子に対し、良くも悪くも素直な奏鳥は急に反省したらしい。布団の上に小さく座り込んで、「……ごめん」と謝罪を述べた。


 詩貴には思わず奏鳥のその格好が、実家で飼っている大型犬が叱られているときの姿に重なって見えてしまった。しょんぼりとこうべを垂れている奏鳥に向けて、詩貴はほんのりと口角を上げてみせた。


「いいよ。もう、せわしないんだから」


 仕方なさそうに微笑む詩貴の顔を見て、奏鳥の表情はぱっと明るさを取り戻した。詩貴にとっては彼のそんな慌ただしい反応もまた、実家の大型犬が尻尾を振って喜ぶときの姿と、重なって見えてしまうのだった。


 詩貴はうっかり笑いを漏らしてしまいそうになり、なんとか堪えた。幸い奏鳥には気づかれていないようだった。


「ありがとう、詩貴。ええと、早すぎたならもう一回寝るか?」


「ううん。今ので眠気なんか覚めちゃったよ。出発まであと三時間くらいだし、このまま起きてよう」


 詩貴は言うが早いか、何やらスマートフォンを覗き込み始めた。アルバイト初日で、まだ行き先までの道のりもよくわかっていないため、今朝は早めに出発しようと決めていたのだ。朝食も移動中に手短に済ませたい。


 詩貴は地図アプリを見て、道中の商店街沿いにあるコンビニエンスストアの位置を確認した。少し行儀が悪いが、アルバイト先までの道を観光がてらに、おにぎりでも買って食べながら歩いていこうと考えていた。


「三時間かぁ、微妙に暇だなあ。俺もぐっすり寝たからもうじゅうぶんだし」


 奏鳥は布団を畳み始めた。布団やシーツの扱いは彼の方が手慣れているらしい。カバーまで外そうとし始めたので、詩貴は慌てて彼を止めた。


「待って奏鳥。旅館の布団は畳まなくていいんだよ」


「えっ、そうなのか?」


「うん。毎日スタッフが部屋ごと掃除をするから、布団はそのままにしておいた方がいいんだって」


 詩貴は小声で「まあ、今の話は父さんの受け売りなんだけど」と付け加えた。


 奏鳥は畳みかけた布団を元に戻して、その上へごろんと寝転がった。


「なるほど。ならあと三時間、本当に何もすることがないなぁ」


「うん。それもだいぶ早く見積もってるから……暇になっちゃったね」


 確認も終えて手持ち無沙汰になった詩貴は、なんだか気まずいような気がして、自分も布団に寝転がった。


 よく考えたら、奏鳥とこれほどの長い時間を、何の予定もなく過ごすのは初めてだった。やはりもう一度寝るべきだろうか。横になり、珪藻土けいそうどの壁を眺めながらそう思っていると、ふと奏鳥の方が話を始めた。


「そういやさ、詩貴の親父さんってどんな人なんだ?」


「えっ?」


 困惑した詩貴に、奏鳥は「いや、さっき父さんの受け売りとか言ってたから。世間話でもって思ったんだけど」と、何気なさそうにそう述べた。


「ううんと……どんなって、普通の人……ではないかな。一応、立派な会社の代表取締役だし」


「えっ、社長なのか⁉︎」


 早朝から大声で反応した奏鳥に、詩貴は口に指を当てて「しーっ」をした。奏鳥は、はっと口をつぐんだ。


「でも、すげえな。社長って。どうりで詩貴も御坊おぼっちゃまな雰囲気あると思ったぜ」


「なに、御坊ちゃまって。嫌味?」


 苦笑いする詩貴に、奏鳥は慌ててかぶりを振った。


「そうじゃなくて。なんかこう、初めて会ったときから気品がある感じがしたんだよ。社長令息しゃちょうれいそくなら納得いくなあって」


 奏鳥はにこやかにそう言って、あくまでも純粋に褒めているつもりのようだった。しかし自分に自信のない詩貴にとっては、父が立派な社長であるということは、むしろ後ろめたい事実だった。


 詩貴は、話を変えようと思った。


「ええと……そうなら良いんだけど。奏鳥の方はどうなの? お父さん、どんな人?」


「あっ……」


 聞き返した瞬間、詩貴にもはっきりわかるほど、奏鳥は表情を強張こわばらせた。詩貴は直感で、まずいことをいてしまったと感じ取った。


「ごめん、奏鳥。答えづらいなら答えなくて……」


「いや、いいんだ。詩貴の親父さんの話を聞いたの、俺の方だし」


 二人同時に場を取りつくろおうとしたせいか、却って空気はますます冷え切ってしまったように感じた。そのまま二人共、いっぺんに黙りこくってしまい、途端に何を話せば良いのかわからなくなってしまった。


 十じょうほどの客室の中を、短いようで長い沈黙が満たしていく。詩貴はもう、奏鳥から顔を背けるようにして俯いた。


 自分は今、彼に酷いことを尋ねてしまったのかもしれない。そう思うと、自分からは何も言い出せないし、奏鳥の顔を見るのも怖くなってしまった。


 スマートフォンを見ると、時刻はまもなく四時に差し掛かろうとしている。これからまだ、二時間以上は暇な時間が続く。この重い空気を変えるすべがないまま、こんなに長い時間をどう過ごせば良いのだろうか。


 逃げ出したい。いっそ便所にでも行くふりをして、一旦部屋を抜け出そうか。そう思ったときだった。


「なあ詩貴。暗い話だし、こんなの聞いたら嫌な気分になると思うけど……聞いてくれるか?」


 奏鳥がわずかに震える声でそう言ったので、詩貴は振り向いた。彼もまた、詩貴からは目を逸らしており、その瞳はどこか、違う世界でも見ているかのように仄暗ほのぐら彷徨さまよっていた。


「この話、ホントはあんまりしたくないんだ。家族の嫌な話なんて、聞いても絶対面白くないし、引かれるかもしれないだろ。けど、詩貴には……詩貴は俺の“仲間”だから、やっぱりちゃんと説明しておくべきだって思ってさ」


 奏鳥は不安そうな顔をしながらも、拳をしっかりと握りしめた。詩貴も彼の緊迫きんぱくした面持おももちにつられるように、思わず背筋を伸ばして頷いた。


 仲間だから──奏鳥が覚悟を決めた理由が、詩貴にとっては喜ばしくもあり、恐ろしくもあった。


「うちの親、中学の頃に離婚したんだ。親父が不倫した」


 奏鳥の口から出た事実に、詩貴は何も反応することができなかった。恐らくそういった事情だろうと予想はしていたが、実際に彼の言葉で聞くと、その重みは増すように感じられた。


「小学校の高学年までは、多分……普通の家族だったんだ。二人とも仲が良かったし、“あいつ”は俺ともよく遊んでくれた。追いかけっこしたり、キャッチボールとかもした」


 楽しかった頃の思い出を話しているはずなのに、奏鳥の表情は強張ったまま、少しも緩むことがなかった。


 詩貴には彼の過去が、想像もつかない世界のように思えた。詩貴の家族はずっと仲睦なかむつまじく、彼は家族のことにおいては、苦い記憶や辛い過去を持っていないのだ。


 詩貴はただ黙ったまま頷いて、奏鳥の話を受け止めた。奏鳥も話を続けた。


「中学の夏休みのときだ。俺、今でもあの日のことはよく覚えてる。俺の誕生日だったから。あいつ、俺の誕生日だから『早く帰ってくる』って言ってたくせに、結局夜遅くまで帰ってこなかったんだ。母さんが不思議に思って、あいつの勤務先に連絡したら、もうとっくに帰宅したはずだって返ってきた。その後は……ええと……ごめん。よく思い出せなくなってきた」


「いいよ、奏鳥。無理しないで」


 目眩めまいを抑えるように額に手をやった奏鳥を見て、詩貴は思わず彼の肩を抱えた。


 奏鳥は震えているようだった。それが不安のためなのか、悲しみなのか、怒りなのか、詩貴には彼の気持ちがわからない。けれども、わからないなりに彼に何かをしてやりたい、という想いだけはあった。


 詩貴は、奏鳥の誕生日が八月初旬だということを知っていた。四月の半ば、まだ彼の隣の席がザネリだった頃に、あいつが奏鳥の誕生日を聞き出していたのを、盗み聞いていたのだ。


 もちろん詩貴は、彼の誕生日を祝うつもりで覚えていた。しかし、誕生日にそんな苦い思い出があっただなんて。詩貴も不意に眉根を寄せた。


「ありがとう、詩貴。……そうだ、あいつの方から母さんに言い出したんだ。『お前より好きな人がいるから、別れて欲しい』って。その後のことは俺もよくわからない。それから俺は、母さんと二人で暮らしてるんだ」


 口早くちばやにそう言い終えてから、奏鳥はふうと深く息を吐いた。


 今まで彼は、あれだけ明朗快活めいろうかいかつな振る舞いをして、その内側にこれだけの重い記憶をしまい込んでいたのだ。かすかに瞳を潤ませている奏鳥の肩を、詩貴はしっかり握ってやった。


 なんと返事をすれば良いか、相変わらず何もわからなかったが、詩貴の想いは言葉にせずとも奏鳥に届いたようだ。奏鳥は、肩を握る詩貴の手にそっと触れて、微笑んだ。


「な、返事に困るだろ、こんな話。だからこの話をしたの、詩貴が初めてだ。聞いてくれてありがとな」


 にっこりと、わざとらしく歯を見せてまで笑う奏鳥が、詩貴には何故か切なく感じてたまらなかった。むしろ詩貴の方こそ泣き出しそうに目頭が熱くなったので、彼は奏鳥から顔をそむけて答えた。


「話してくれて、ありがとう。……聞けて良かったよ」


 今の詩貴には、これが精一杯の答えだった。それでも良かったのだろう。詩貴は、自身の手に重ねられた奏鳥の指先に、力が込められるのを感じた。


「湿っぽい話ばっかじゃ何だしさ、気分転換しようぜ。まだ朝早いけど、外に散歩でもどうだ?」


 顔を上げると、奏鳥は先程とは打って変わって、自然と楽しげな笑みを浮かべ始めていた。声色こわいろもずいぶんと明るくなったようだ。彼が顔色を良くしたのを見て、詩貴も頷いて笑った。


「うん。フロントはまだ開いてないから、裏口から出入りすることになると思うけど。外の空気を吸ってきた方がいいかも」




 早朝の銀座商店街の空気はほどよく冷えており、夏場には爽快に感じられる涼しさだった。まだ殆どの店が開いておらず、静けさに包まれている商店街の坂道を下りながら、奏鳥は息を大きく吸った。


 ついさっきまでばくばくと脈を上げていた心臓が、徐々に落ち着きを取り戻していくのを感じる。先程は、今まで誰にも言ってこなかったあの話を、勢いで詩貴に打ち明け──もとい、ぶち撒けてしまった。


 しかし、詩貴は引くどころか、ただ頷いて自分の話を聞いてくれた。奏鳥は安堵から、深く息を吐いた。


「どうしたの、そんなに大きなため息ついて。これからバイトなのに幸せが逃げちゃうよ」


 前方を歩いていた詩貴が振り向いた。昨晩の浴場で見たような、悪戯いたずらっぽい不敵な笑みだ。


 どうやら冗談で揶揄からかわれているらしい。詩貴の機微きびはわかりづらかったが、奏鳥は最近、彼が思いのほかひょうきんな一面を持っていることに慣れつつあった。


「ため息なんかじゃねーよ。ただ、人が少ない観光地の空気って、珍しいなって思ってさ。せっかくだからいっぱい吸っておこうと思ったんだ」


 奏鳥なりに、冗談には冗談で返したつもりだった。しかし詩貴は間に受けてしまったらしい。彼はさも可笑おかしそうに「空気に珍しさなんかないし、吸ったところで何もないよ」と笑い始めてしまった。


 けらけらと顔をほころばせながら歩みを進める詩貴を眺めていると、奏鳥は涼しい空気で満たされたはずの胸の内が、ほのかに暖まるように思えた。


 本当なら、誰だって他人の不幸話なんか聞かされたくはないはずだ。中学の頃、夏休み明けから学校に行けなくなってしまったことを思い出す。


『父さんに裏切られた』──ひどい悲哀ひあい鬱憤うっぷんは、誰にも明かさずとも奏鳥の身にまとわりついていた。中学の友人たちは皆、口を揃えて奏鳥の心身を案じてくれた。


 しかし、そうして案じられれば案じられるほど、奏鳥は友人達に負担をかけているようで、却って苦心が増してしまうのだった。悪いのはあの親父だ。それなのに自分の苦しみで、友人まで苦しめてしまう。それが辛くてたまらなかった。


 今思えば、そんな周りくどいことを考えていたあの頃の自分は、ただ幼かったのだろうと思う。たった今目の前で、明けていく空に夢中になって歩く友人は、奏鳥の不幸を負担に感じるどころか、ありのまま受け入れてくれている。奏鳥も彼を追って、脚を踏み出した。


 二人が向かっているのは、この商店街を通り抜けた先にある、有名チェーンのコンビニエンスストアだった。何しろまだ朝の四時だ。早めの朝食をとるにしても、コンビニくらいしか空いている店はないだろう。


 詩貴の方はどうやら、コンビニの場所は知っていても、品ぞろえには詳しくないらしい。これまでは彼に教わることだらけだったが、コンビニに着いたら美味しいホットスナックを勧めようと思った。奏鳥は、揚げたての骨なしフライドチキンが大好きだった。


 ここだけの話、ホットスナックは店頭の保温庫に在庫があっても、店員に頼めば新しく揚げてもらうこともできるのだ。数分は待つことになるが、そのぶん揚げたての美味しさは格別だ。中学の頃、まだ仲の良かったクラスメイトから教わった話だった。


 最近はフライドチキンなんかめっきり食べなくなってしまったが、今はせっかく詩貴と遠出とおでをしているのだ。これからアルバイトで収入も得られることだし、たまには贅沢をしよう。奏鳥の足取りは、前の詩貴を追い越す勢いで軽くなっていった。




 コンビニに着く頃には、時刻は五時に差し掛かろうとしていた。


 出勤したばかりの朝勤なのだろう、品出し途中の気だるそうな店員にホットスナックの注文をするのは少し気が引けたが、フライドチキンが揚がるまでの間、二人は店内を見て回っていた。


 最近のコンビニの品揃えは、豊富すぎるほど多種多様だ。食品だけでなく化粧品や下着、筆記用具に携帯周辺機器に至るまで、大抵の必要なものは揃っている。


 そうして通路をうろついていると、ふと雑誌棚のコーナーが目に入ったので、奏鳥は慌てて目を背けた。


「どうしたの、奏鳥?」


 無邪気に尋ねてくる詩貴に、奏鳥は咄嗟とっさに視線の先にあった、アニメグッズを指差してみせた。


「いや、えーとあれ。何だっけあのキャラ……」


「ああ、アニメだね。流行ってるらしいけど、僕はああいうのには詳しくないな」


 勘のいい詩貴は、奏鳥が明らかに不自然な行動をとっていることに気がついていた。奏鳥が指差した方とは逆の方向へと目を向けて、さとい彼は納得した。


「……ねえ奏鳥。あんなの露骨に意識してる方が“そう見える”よ?」


 振り向いた奏鳥は、詩貴が呆れ顔で雑誌棚のグラビア誌を凝視していることに驚いた。扇情せんじょう的なポーズをとる水着の女性の写真に対し、彼は驚くほど冷ややかな目を向けている。


「や、でも……あれって、子供が見ちゃダメなやつじゃ……」


 狼狽ろうばいする奏鳥に、詩貴は苦笑いしながら答えた。


「あれはただの水着写真集だよ。成人誌なんか、コンビニではもうとっくに取り扱ってないよ」


「せーじんし……」


 奏鳥は呆気あっけにとられていた。詩貴はてっきりそういった──いわゆる性的な物事にはうとい方だろうと勝手に想像していたが、どうやら思い違いだったらしい。またも詩貴に先を行かれてしまい、奏鳥は耳の先まで赤くなってしまいそうだった。


 そうこうしているうちに、店員から「フライドチキンのお客様」と声がかかったので、二人はカウンターへと向かった。


 その言われ方だと、まるで自分たちがフライドチキンになってしまったみたいだ。そんなどうでもいいことを考えながら会計を済ませ、二人は揚げたてのチキンと店内で選んだ飲み物を手に、店の外へと向かった。




「フライドチキンのお客様、だって。僕たち揚げられちゃったみたい」


 車が一台も停まっていないのをいいことに、二人並んで駐車場の車止くるまどめに腰をかけたときだった。詩貴が不意にそう言ったので、奏鳥は口に含んだコーラを吹き出しかけた。


「っはは。それ、さっき俺も思ったよ」


 他愛のない会話をしながら、奏鳥は買ったばかりのチキンが冷めないうちにかぶりついた。チキンは思いの外熱かったので、奏鳥ははくはくと口を開けながら噛むことになってしまった。


「行儀が悪いよ、奏鳥」


「ハフハフ……駐車場に座っといて、今更だろ?」


 あくまでも品行方正ひんこうほうせいな社長令息に、奏鳥はいかにも悪どい笑みを作ってみせた。


 詩貴は微笑びしょうしながら、「僕たち凄く悪いことしてるみたいだ」とお茶のペットボトルに口をつけた。


「こんなの全然ワルのうちに入んないって。不良ってあれだろ。ドアの前でウンコ座りとかするやつだろ?」


「やめてよ、今僕ら食事中なのに」


 苦笑いをしながら、詩貴もチキンを食べ始めた。少しかじって、やはり熱かったらしく、彼はチキンへふうふうと息をかけ始めた。


「これ、熱いけど美味しいね。僕初めて食べたよ」


 美味しそうに笑みをこぼす詩貴の表情に、奏鳥は心も胃袋も充足じゅうそく感で満たされていくのを感じた。友達と食べる食事はやはり格別だ。


 昨晩の豪勢な夕食も食べたことがないほどの美味しさだったが、慣れ親しんだ味もこうして会話を挟むと、ますます美味しくなるのだ。


「だろ? 揚げたては特にころもが全然違うんだ。サクサクだし、すっげー美味え」


 隣の詩貴も、頷きながらチキンを噛み締めた。


 手のひらサイズのチキンはあっという間になくなってしまったので、奏鳥は残ったコーラを飲み干しながら朝日を眺めた。


 なんだか今日は、始まったばかりの一日がとても長く感じる。起きた時刻が早かったのだから、それは当然のことなのだが。空いたペットボトルとチキンの包み紙を持て余しながら、奏鳥は詩貴の方を見た。どうやら彼は、まだ熱いチキンに悪戦苦闘し続けているようだ。


 詩貴の方も奏鳥の視線に気づき、ふと目が合った。奏鳥の目線がチキンに向いていることに気づいた詩貴は、また笑いが込み上げてきてしまった。


「ふふ、ふ……」


「っちょ、おい! なんで笑うんだよ!」


「ううん。もしかしてチキン、まだ食べたかったのかなって。食べかけでも良かったらあげようか? 僕あんまり食べられない方だから、大丈夫だよ」


 どうやらチキンを欲しがっていると思われたらしい。心外だ。そう思う一方で、奏鳥の胃袋はちゃっかり詩貴のぶんのチキンもほっしていた。頭はいらないと言うべきだと思っているのに、心は欲しいと言いたい。


 奏鳥が答えられずにいると、詩貴は何がおかしいのか、余計に笑い始めてしまった。


「あはは、ごめん。笑っちゃって食べられないや。あげるよ、食べて」


「……じゃあ、貰う」


 一体何がそんなにおかしいのだろうか。奏鳥は不服に感じながらも、差し出されたチキンを受け取った。人のぶんのチキンも、やはり美味しいことに変わりはなかった。


 奏鳥がチキンを食べている間も、詩貴はしばらく笑い続けていた。「何がおかしいんだよ?」と尋ねても、彼は「ごめん、ごめんって」と適当に謝るばかりで、その理由は説明してくれなかった。


 それもそのはずだ。まさか奏鳥のことが、『家で飼っている犬が、人間の食べ物をねだる姿に重なって見えた』なんて理由で笑っていただなんて、本人に言えるわけがなかった。


 詩貴にとって奏鳥は、幼少期から心を通わせ続けてきた、愛らしい家族にそっくりだったのだ。

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