第2話 斜陽の放課後(前編)
外からは
その日の沢根は部長や神絵師達と遊ぶ予定があったらしい。奏鳥がようやく帰り支度を済ませる頃には先に帰宅していた。
奏鳥は沢根に、六尺Pという人物についてもう少し話を聞きたかった。しかし彼の予定を崩してまで急ぐ用事でもないと思い、ひとまず飲み込んだ。
藪も小骨も一旦置いておいて、先に今日の授業の遅れた部分を取り戻すべきだ。それならさっさと帰るべきだろう。奏鳥はやや乱雑に教科書やノートを詰め込んだ、学生鞄を手に取った。ちょうどその時だった。
「君、成谷くんだよね。ちょっといい?」
聞き慣れない声に振り向くと、同じクラスの生徒だろうか、どこか見覚えのあるおさげの髪型をした少女が立っていた。
彼女は顔こそ笑みを浮かべているものの、両手には
「昨日は遅刻の罰掃除、さぼって帰っちゃったでしょ。今日の帰り、掃除してから帰ってね」
「ええっ?」
遅刻の罰掃除だなんて、そんなものあっただろうか。そういえば登校初日の朝に、担任からホームルームの直後にそんな校則があると声をかけられたような──気がしなくもない。少なくとも、全く心当たりがないわけではなかった。
奏鳥はあの日、昼から後は音楽のことで頭がいっぱいになっていて、罰掃除があったなんてことはそのまますっかり忘れてしまっていたのだ。
渡された箒とちりとりを握ったまま呆然とする奏鳥に、おさげの少女は改めて微笑んだ。ただし、どちらかというと苦笑している様子だった。
「先生、怒ってはいなかったけど心配してたよ。成谷くんうっかり屋さんみたいだし」
悲しいことに、奏鳥は登校二日目にして既にうっかり屋さんという印象で認知されているらしい。それも、まだこちらは名前すら覚えていない教師やクラスメイトからだ。泣きっ面に蜂とはこのことだろう。
おさげの少女からは「黒板掃除くらいは手伝うよ」と提案されたが、奏鳥は「罰掃除なんだから一人でやるよ」と拒否した。うっかり屋な上に、人に失態を拭ってもらうような人物とまでは思われたくなかった。
奏鳥はこういうとき、案外意地を張る性格だった。
こうして奏鳥は、夕日が差し込む静かな校舎の中、一人虚しく居残り掃除をすることになってしまったのである。
まずは七限目の数学教師が雑に字を消したため、却って跡がついた黒板を、丁寧に消し直す。黒板消しを窓辺で叩いて綺麗にしてから、今度は黒板下のチョークボックスに溜まった粉を雑巾で拭き、その雑巾も洗い直す。
黒板を掃除するだけで随分と時間がかかってしまったので、奏鳥は洗った雑巾を物干しスタンドにかけながら『やっぱり手伝って貰えば良かった』と後悔していた。
あのおさげの少女は、奏鳥が手伝いを断るとそのまま先に帰ってしまっていた。時すでに遅しだ。
罰掃除は、黒板と机の拭き掃除と、それから床の
奏鳥は雑巾を手に取って、廊下の水道で濡らしてから水を絞ると、また教室へと戻り、廊下側の机から後ろへと順番に拭こうとした。
そうして教室の後方を見渡して、ようやく気がついた。とっくに下校時刻を迎えた後だというのに、自分以外にも未だに教室に残っている人物がいたのだ。
廊下側、一番後ろの席で、少年は一人で読書をしている。彼はよほど本に夢中になっているのか、気配すら感じないほど静かに読み
少年は目立つ
その上整った顔立ちもあり、静かに本に目を落とす少年の姿は、さながら衣装人形のようだ。逆に言えば、その感情の見えない
奏鳥はそんな少年の姿を見ただけで、まずは近寄り難いという印象を抱いていた。できれば話しかけることがないよう、こちらの掃除よりも先に、彼の読書が終わってほしい。そう思いながら机を拭いていったが、やはり少年は本を読み終える気配がなかった。
結局、少年の座る一番後ろの隅の席以外は全て拭き終わってしまい、仕方がないので彼に話しかけることになった。
「ごめん、そこ拭きたいんだけど」
少年は奏鳥を
失礼なやつだな、と奏鳥は口にしかけて堪えた。こういう手合いの人物に、余計なことを言って良かった試しがない。不服だが、我慢するべきだ。
相変わらずの仏頂面で、今度は教室の隅で立ったまま読書を始めた人形少年を横目に、拭き掃除を終えた奏鳥は箒を手に取った。
後は床を適当に掃いて、こんな人形少年のことは忘れてさっさと帰ろう。そう意気込む奏鳥の足どりは、むしろ軽くなっていくようだった。
何しろ奏鳥は母に似たのか、嫌な出来事があると
奏鳥は早くも帰宅後のことと、明日からのことを考え始めていた。まずは勉強だ。それから音楽だ。
電子音楽の世界は、確かに魅力的ではあった。しかしどちらにせよ、電子音楽を作るためには、コンピュータとソフトウェアが必要になる。やはりまずはお金が欲しい。沢根の言っていたアルバイトは、コンピュータを買えるほどの金額を稼げるのだろうか。
様々な計画、または予定という名の妄想が、奏鳥の頭の中を巡り始めた。
気づけば人形少年のことなんかは頭からすっぽり抜けていき、奏鳥は自らの手に握られた自在箒の長い柄が、まるで英雄の持っていたスタンドマイクのように思えてきた。
これからの自分の人生は、絶対にうまくいくはずだ。いや、絶対にそうしてみせる。俺たちの戦いはこれからなのだ。そんな想いが胸に込み上げてきて、奏鳥は反射的に息を深く吸った。
“俺たちは皆が勝者、負け犬なんかに構う暇はない”──
「ずいぶん古い曲を知ってるんだね」
「えっ⁉︎」
後ろの方から声が聞こえ、とっさに振り向いた。衣装人形が喋ったのだ。
自分でも気づかないうちに、無意識にあの歌を口ずさんでいたことに気づき、奏鳥は慌てて口を塞いだ。そんな部分まで母に似ていた、という事実はさておき、奏鳥は人形少年の言葉にも驚きを感じていた。
先ほどまでは喋り方を知らないかのように黙っていた彼が、急に話しかけてきたことも意外だった。しかし何より奏鳥は、この少年が自分たちの英雄のことを知っている口ぶりをしたことに驚いたのだ。
「……知ってるのか?」
そのとき、魂すらなさそうだった人形の顔に、わずかに好奇の色が灯ったのが見えた。
「主に七十年代後期を
本当によく知っている、と奏鳥は感心した。
あのロックバンドは、メンバーの全員が作曲をし、それぞれがヒット曲を生み出している。それも、自分たちが生まれるより何十年も前の音楽だ。どの曲を、誰が作曲を担当したかまで把握しているのは珍しい。奏鳥は無意識に頷いていた。
首を縦に振る奏鳥を見て、青灰色の髪の少年は気を良くしたようだった。彼の口角がわずかに上がったのを見て、奏鳥はやっと少年が人形ではなく、
「僕は
奏鳥はまたも
「まあ、僕はどちらかというと“放浪者の狂詩曲”のほうが好きだけどね」
聞かれてもいないのに、ついさっきまで人形だった少年は、
放浪者の狂詩曲は、英雄の代表曲の中でも転調が激しく、ピアノの伴奏が目立つ幻想的な楽曲だ。
この少年は、あの狂詩曲の難解な歌詞を理解しているのだろうか。“スカラムーシュよ、ファンダンゴを踊ってくれ”──彼を英雄として尊敬している奏鳥にすら、スカラムーシュが誰なのか、ファンダンゴが何なのかすらわからないのだ。
奏鳥は次第に青灰色の髪の少年に興味を持ち始めていた。彼が纒う雰囲気は、放浪者の狂詩曲の歌詞のごとくミステリアスで、思わず興味を惹かれる何かを
「なあ、スカラムーシュって何かわかるか?」
奏鳥は単刀直入に尋ねてみた。
「十七世紀イタリアの、臆病者の道化役のことだよ。ちなみに、ファンダンゴはスペインの陽気な踊りのことだ」
こちらが聞きたいことを見透かされているかのような返答だった。あまりの博識ぶりに奏鳥は驚いた。
奏鳥はさらに有名な“ガリレオ”と“フィガロ”のフレーズについても尋ねた。少年は脳みそに辞書がそのまま入っているのかのように、すんなりと答えてみせた。
「恐らくガリレオは地動説の
しかし、流暢な説明を述べていた少年は、何故か唐突に表情を曇らせ始めた。その後ややあって、彼はほんの少し苦々しい顔でかぶりを振った。
「多分、彼はこうやって解説されることは、望んでいないと思うな」
彼、とは作詞をした英雄本人のことだろう。奏鳥は思わず口をつぐんでしまった。
この少年は、下手をすれば自分よりも、英雄のことをよく知っている。奏鳥が幼い頃からずっと憧れていた彼のことを、この少年はその博識さで、自分よりも深く理解しているのだ。
その事実が、奏鳥の心の中に
話を変えよう、と奏鳥は思った。このまま英雄についてこの少年と語らうと、彼の知識量に対して、こちらの熱意が負けてしまう気がしたのだ。
奏鳥が返答に迷って言葉を詰まらせていると、少年はまたも奏鳥を無視するかのように本に目を落とし始めた。やっぱり失礼なやつだ! 奏鳥は再び怒りを感じた。
それとも少年の読み耽っている本は、自分との会話なんかを無視したくなるほど魅力的な内容なのだろうか。奏鳥は気になってちらりと表紙を覗き見た。
表紙には“人間失格”と書かれている。題名だけなら奏鳥も知っていた。明治生まれの文豪、
「その本、そんなに面白いのかよ?」
奏鳥は
「別に、面白くはないかな」
「じゃあ、なんでそんなに一生懸命読んでるんだよ。もう下校時刻過ぎてるぞ」
奏鳥の言う通り、時刻は午後六時に差し掛かろうとしていた。窓辺を見やると、日は既に暮れており、部活動を終えた先輩たちが帰宅していくのが見えた。
「もう少しで読み終わるから。
それでもやはり、少年の返答は簡素なままだった。奏鳥はもうたまらなくなって、思わず嫌味を直球に口にした。
「放課後に太宰なんか読んでるなんて、お前変なやつだな」
その時、少年が
「『太宰なんか』って、君は太宰治の何を知っているの?」
どうやら少年が怒りを感じた点は、『変なやつ』のところではなく、『太宰なんか』の部分らしい。想定とは少し違ったが、奏鳥はとにかく少年の鼻をあかしたい一心で
「太宰治くらい俺だって知ってるぜ。国語の授業で習ったからな。心中するフリをして女の人を何人も殺した、ろくでなしだろ」
少年の表情がますます険しくなった。『それ見たことか』と思いかけた奏鳥に返ってきたのは、またも不意をつく返答だった。
「君、“津軽”は読んだことある? “パンドラの
「なんだよ急に。話を変えんなよ」
「話は変わってないよ」
どこがだ。こちらは太宰の人間性の話を挙げたのに、作品名を
ならば、と言わんばかりに少年は話を続けた。
「もっとわかりやすく言えばいい? それを言うなら君の憧れのボーカリストは、婚約者がいるのに浮気をして、その後も性に溺れて乱交を繰り返した淫らな人物だ」
「それとこれとは関係ないだろ!」
思わず怒りが口をついて出た。少年はあろうことか、奏鳥の英雄の人間性を引き合いに出したのだ。
しかし声を張り上げた奏鳥に対し、少年はあくまでも冷静に答えを
「僕が言いたいのはそういうことだよ」
痛いところを突かれるとは、まさにこのことだった。少年は初めから、奏鳥が太宰治の作品ではなく、人間性を引き合いにして『変だ』と述べたことを
負けず嫌いの奏鳥はそれでも何かを言い返したくて、しばらく口をもごもごとさせたり、手を握ったり開いたりなどをしていたが、そうしているうちにも少年は、またも本へと目を
悔しい。今度は奏鳥の心の中で、はっきりとした苛立ちが煮えたぎっていた。しかし、今はこの少年を打ち負かす
奏鳥はため息をつきながら箒を手にとり直し、そのまま掃き掃除に戻ることにした。向こうだって、挨拶すらしないようなやつだ。こちらも挨拶なんかせずに、黙って離れれば良いだけだ。
そうわかっていながらも、彼の頭の中には後ろ暗い
その感情が口喧嘩に負けて悔しかったせいだとわかったのは、帰宅後にシャワーを浴びて、文字通り頭を冷やした後のことだった。
薮も小骨も灰になるほどの屈辱感は、代わりに奏鳥の心に火傷の痕を残すこととなった。
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