第02話 堕天

ギギィ――。


「ただいま。」


家の軋む扉をゆっくり開けて、僕は小さく、ただいまと言う。


すると、待っていたかのように、大きな足音をたて、揺れながら、奥の部屋から人が出てきた。


兄だ。


「よぉ…おかえり……グレイ。」


ニタニタと笑う顔。


僕は分かっている。

これから何をされるのか分かっている。


兄はニヤついたまま、僕に近づく。

ゆらゆら歩いて僕に近づく。


近づく。近づく。近づく。近づく。


ほんのすぐ側まで近づく。


その瞬間、僕は頭を思い切り殴られる。

僕の体は、少し浮いて、壁の方に倒れ込む。


「帰って来るのがおせぇんだよ…なぁ!?」


兄は突然、狂ったように怒り散らす。


いや、突然の出来事ではあるが、いつもの事だから、驚きはない。


ただいつもと変わらぬ恐怖だけがある。


「ごめんなさい……ごめんなさい。」


僕は、壁に倒れ込んだまま、壁に身を寄せ、謝罪の言葉を連呼する。


なぜ謝るのかは分からない。

ただ、そうするしか、できない。


「ガキはな?すぐ帰ってくるもんなんだよ!」


兄はしゃがんで、僕に目線を合わせ、とてつもない形相でそう言った。


早く帰ってきたって、別の理由を付けて殴られるのは、もう分かっていた。


だから少しでも遅く、この家に帰るんだ。

ふざけるな。


そんなことを思うが、僕はただ、壁にもたれこんで、ただブルブルと震え、小さく泣くことしかできない。


「ピーピーうるせぇんだよ!」


兄はそう言って、また一発、僕の頭を殴る。


「あぁぁ…マジで腹たってきたわ。」


兄は、作ったかのような怒りの表情を浮かべ、続ける。


「よし…。今日も"教えて"やっからな、こっち来い。」


僕は動けない。

震えて力が入らなかった。


「こっち来いって言ってんだろ!?ガキぃ!」


兄は叫んで、僕の髪を引っ張り、奥の部屋へ僕を引きずる。


「痛い…痛い……っ!……痛いよ!……ごめんなさい…っ!」


僕は泣きわめいてそう言うが、そんなこと兄には関係なかった。


そして、僕はそのまま引っ張られ、いつものように部屋へ連れていかれ、更に暴力を振るわれる。


兄はただ僕を殴るんだ。


唯一の親である母も、泣き叫ぶ僕の声を、聞かぬフリをして見捨てる。


きっと母も兄が怖いのだ。


――あぁ、助けてくれよ、お母さん。



――――――――――――――――――――



1時間ほど経って、やっと全てが終わった。


兄は大きないびきをかきながら寝ている。きっと満足したのだろう。


部屋の隅で泣いている僕を見ないまま、僕をあんなに痛めつけたって言うのに、兄はのんきに寝ているのだ。


それがあまりに憎らしくて、僕は何度も、寝ている兄の喉元に、刃を向けようとした。


けれど、そんなことは、昨日も今日も明日だってできはしない。


なんで僕は、優しさなんて、無駄なものを持って、生まれてきてしまったんだろう。


そんなことを考え、にぶい痛みの中、この家の誰より遅く眠りに就く。


この家の誰より眠るのが遅い僕は、この家の誰よりも早く起きるんだ。


そうして、盗むように昨夜の残り物を漁って食べ、兄が寝ているうちに家を出る。


まだ薄暗いこの町の、あの路地裏に向かうんだ。


僕はうさぎのようにただ走った。

ただひたすらに走ったんだ。

少し肌寒い早朝の、薄暗いこの街を。


そうして、僕はまた、暗い路地裏の奥へと進み、安心して、腰を下ろす。


「はぁ……一旦、寝よう。」


路地裏に着くと、僕はやはり安心する。

だからもう一度ここで睡眠をとるんだ。


やはり生ゴミのにおいが、鼻をかすめる。


だがそんなことは関係がなく、あの家から少しでも離れられた事が嬉しくて、ただ眠りにつく。


救いってものが、あんなに突然に現れるとも、知らぬまま。



――――――――――――――――――――



「……ねん………しょうねん……少年!」


「………っ!?……」


目が覚めると、町は明るくなっていて、知らない人が、そこにいて、僕を呼んでいるようだった。


僕はただ恐れて、壁に身を引く。


「……え…あ、…あの…。」


一瞬にして、その意味不明な状況を理解しようと、目が覚める。


白く長い髪の女性だ。


誰も寄り付かないはずの、

この路地裏に、だ。


なんだ。なんだ。

何を、一体僕は、何をされるんだ。


「大丈夫では…無さそうだね、その感じ。」


怯えて震える僕に、その人は、白く輝く朝日より、いや、この世界のなにより、優しい笑顔で僕に語り掛けた。


「え…っと。」


頭が追いつかない。


なのに、何故か…少しだけ安心感が、僕を包んだ。


「一応聞こう……君は…大丈夫なのかい?」


小さく息を吸って、まだ戸惑う僕に、白い髪のその人は問う。


その言葉は、僕がずっとかけて欲しかった言葉だった。だから、僕は答えるんだ。


「大丈夫……じゃ、ないです。」


大丈夫です。


と言おうとしたけど、この期を逃したらいけない気がして、そう返したんだ。


「そうか。なら、私は君のことを、助けなきゃな…………私は、"大人"だから。」


人生で初めて息を吸ったような感覚が、息が詰まるほど、僕を強引に包み込んだ。


"大人"という言葉が、こんなにも頼もしく、こんなにも優しい言葉だったなんて、僕は知らなかったし、この時初めてそれを知った。


何にも知らない、強引なその人に、僕はなぜだかひどく安心してしまって、突然、涙が止まらなくなってしまった。


「辛かったな、少年………今まで、見つけてあげられなくて……本当に、ごめんな。」


白い髪のその人も、何故か少し泣いていて、寄ってきて、僕を優しく抱きしめた。


僕は、生まれて初めて赤子のようにただ泣いて、白い髪のその人の服を、ギュッと握って、ただただずっと、泣いたんだ。


そうして僕は、抱かれたまんま、安心しきって深い眠りに落ちた。


それまでの、浅い眠りを、癒すように。

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