第13話番外編 神様と夢がなくなった
季節が、ひとつ巡った。
王都の庭には、春の風が吹く。
政は安定し、北の国との同盟も堅く、そして新しい帝王は、穏やかに国を見つめていた。
黎翔。
かつて病弱で表舞台に出て来れなかった男。
今は玉座にありながら、王なる権威を纏っている。
そして、彼の隣に笑う者がいる。
「陛下、今日の朝ごはんは豆腐と、それから…」
「また豆腐か」
「はい! 豆腐は裏切りません」
「お前がそれを裏切ってくれれば、王都の豆腐屋が少しは休めるだろうな」
「そんな! 豆腐に罪はありません!」
梅は、今日も元気だった。
「陛下、今日の予定は?」
「朝議、政務、北境の報告の確認、それと……」
「それと?」
「お前と昼寝だ」
「えっ、それ、正式な政務ですか!?」
「いや。帝王の特権だ」
「ずるい!」
廊下を歩くふたりを、侍女たちが微笑みながら見送った。
梅は相変わらず、食べて、寝て、笑って、未来など見ない。
黎翔はその姿を見るたびに思う。
ああ、きっとこれが“平和”というものなのだと。
日が暮れる。
宵の空に、白い雲がふたつ重なって浮かんでいた。
梅が見上げて指を差す。
「見てください、陛下。蓮が、二つ咲いてますよ」
「……ああ」
黎翔はその横顔を見つめる。
「梅」
「はい?」
「この国に、何が起きようともお前はただ、食べて、遊んで、寝ていろ」
「……え、それでいいんですか?」
「それが、お前の務めだ」
「はい、ちゃんと毎日頑張ります!」
「……頑張るという言葉の意味を、いずれ教えねばな」
「えへへ」
梅が笑うと、春風が通り抜け、白い花弁がふたりの肩に舞い落ちた。
黎翔はそっと梅の髪を撫で、空を見上げる。
そこには、夢で見た“二つの蓮”が、確かに浮かんでいた。
「予知ではなく、願いとして未来を、見よう」
そう呟く声は、春の風に紛れ、静かに空へと消えていった。
※※※
反乱騒動のあと、王都は再建のために昼夜を問わず動き、黒燕の兵たちは城の警護にあたっている。
その中心にいるはずの新帝は、静かに歩いていた。
目的地は、後宮の一番奥、梅が眠る部屋だ。
あの戦の日、矢を受けて倒れたあとも、不思議なほど傷は早く回復した。
あのとき白髪の老人が現れ、梅を救う手を差し伸べた。だが今だ意識は戻らない。
黎翔が部屋に入ると、香の淡い煙が漂っていた。
梅は寝台の上で静かに眠り、額には汗がにじんでいる。
その枕元に、白髪の老人が座っていた。
あの不思議な男だ。
「……また、おまえか」
「また、わしだ」
老人は笑いもせず、梅の顔を見つめていた。
「覚悟せねばならんぞ」
「何の覚悟だ」
「この娘は、生き残ってはいけない一族、九幽族の末裔だ。予知を継ぐ血筋……かつていくつもの王国を滅ぼした血脈だ。見る者がいる限り、世は定まらぬ。だからこそ、彼らは滅んだ。お前は知っているはずだ、皇子。生きるということは、知らぬまま歩むことでもある」
黎翔の手が無意識に梅の指を握る。
老人は続ける。
「未来を見通す者が現れると、国は争う。
皆がその力を奪い合う。
――だから、あの一族は滅ぼされたのだ。」
黎翔はじっと老人を見つめた。
灯の揺れる部屋の中で、風が壁をなでる音だけが聞こえる。
「ならば、俺が守る。」
その言葉に、老人は眉をわずかに動かした。
深い皺の奥に、かすかな憐れみの色が浮かぶ。
「守る、とな。
陛下、あなたが守れば――また争いの種となる。」
黎翔はしばし黙し、低く息を吐いた。
「誰かを犠牲にしてまで保つ平和など、長くは続かない。罪の上に築いた秩序は、いずれ崩れる。」
老人は静かに頷き、そして言った。
「ならば――予知の力を封じるがよい。
生きながら、眠りの中に閉じ込めるのだ。」
黎翔は目を細めた。
「…封じる?」
「この娘は眠りの中で世界の形を覗き見る。
ならば夢を奪えばよい。
食べ、笑い、遊び、そして深く眠る。
それだけで予知の回路は閉ざされる。」
その言葉に、黎翔はしばらく沈黙した。
炎の明かりが、彼の横顔を赤く照らす。
そしてゆっくりと、頷いた。
「それで、いい。」
老人は少し驚いたように眉を上げる。
「それで本当に、よいのかね?」
黎翔は静かに答えた。
「俺は俺の力で、この国を守る。
予知の力に頼るつもりはない。
梅には、夢よりもーー現を生きてほしい。」
その声は、決意と優しさが入り混じっていた。
老人は袖の中から一粒の小さな丸薬を取り出した。
「これを香に混ぜよ。夢を閉じる薬だ。効きすぎれば永遠に目を覚まさぬ」
「信じよう。……お前は、梅を殺そうとしていないから」
「それと『蓮が二つ咲く日、この国は選ばれる』という予言はどういう意味だ、何に選ばれるのだ?」
老人は蜂でも潰せそうなほどに眉間にしわを寄せて、深く黎翔の顔を見てからポツリと言った。
「…うむ…予言というものは曖昧である…」
「………」
どこまで老人の話を信じたらいいのか不安になってきた。
夜が明けるころ、黎翔は梅の枕元で香炉に火を灯した。
柔らかな香りが部屋を包み、梅の呼吸が少しずつ力強くなっていく。
やがて彼女が目を開いた。
「……殿下?」
「起きたか。もう何も考えるな。食べて、遊んで、寝る。それだけしていればいい」
「……それだけ?」
「ああ。それだけでいい」
梅は不思議そうに笑い、目を閉じた。
黎翔はその髪を撫でながら、静かに呟いた。
梅の身分はあまりに低すぎたため王妃になれず愛妾のまま。黎翔は政に尽くした王として歴史に残った。
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