第12話白蓮の空

 春を告げる風が、静かに王都の屋根瓦を撫でていた。


 皇位争いは終わったが、王城の奥は、まだその影を引きずっている。  


 皇帝は、静かに息を引き取った。  

 最期まで言葉を発することなく、

 ただ黎翔の手を握り何かを託すように目を閉じた。  


 第一王子の死と、その謀反の真相が明らかになるまで時間はかからなかった。 

 北の国との裏取引、毒殺の計画、裏金の流れ。すべての証拠が露わになり、廷臣たちは証人となり誰もが第一皇子を反逆者と認めた。

 第一皇子と王妃は幽閉となった。


 謀反の罪としては、あまりにも軽い処分。

 だが王妃は黎翔の実母である。

 ――死刑囚の母をもつ皇帝など、ありえない。

 それが朝廷の、そして黎翔自身の決断だった。


 事件のあと、黎翔は独りで王妃の幽閉された離宮を訪れた。


 月明かりだけが差し込む部屋で、王妃は白髪混じりの髪を梳きながら静かに彼を見た。


「俺を産んだことを、後悔しているのか?」

 黎翔が低く問うと、王妃は一瞬の沈黙ののち、笑みともため息ともつかぬ声で答えた。

「そうね…。手加減したのが失敗だった。もっと早く、あなたを毒殺しておけばよかったわ」

 その声に、黎翔の拳がわずかに震えた。


「俺を“子”として愛したことはある? 未来の帝王の予備ではなく――“あなたの息子”として」

 問い詰める声には怒りよりも、哀しみが滲んでいた。


 王妃はきょとんとした顔をした。

 その無垢な無理解こそ、黎翔には何よりも残酷だった。


「俺は、あなたに愛されたくて必死だった。なんでも兄を優先するあなたに見てもらいたくて、勉強も武も、乗馬も、絵も、琴も、全部、兄より優れてみせた。褒められると思った。けど……もらうのはいつも毒入りの菓子だった。どうしてだ」


 王妃は無表情だった。

 まるでそれが、何の罪にもならないことのように。

「だって、私もそう育てられたもの。兄の出世のため、家の繁栄のために皇后にならなくてはいけなかった。妹たちがいい家に嫁ぐために、私は“母”ではなく、この国一番の女性、“皇后”でいなければならなかったの」


 黎翔は、しばらく何も言わなかった。

 唇を噛み、冷えきった空気の中でただ立ち尽くす。

 その眼差しには、深い絶望に似た静けさが宿っていた。


 やがて彼は小さく息を吐き、背を向ける。

「……母上。あなたの人生は――哀れだ」

 その声は低く、氷のように冷たかった。


 扉が閉まると、王妃の小さな笑い声が、かすかに響いた。

「ふふ……あなたは、私に似ていないね」


 黎翔は振り返らなかった。

 長い廊下を一歩ずつ進み、外に出る。

 月光が彼の横顔を静かに照らした。



 この腐った時代を、終わらせねばならない。



 そして王国は、新たな主を迎える。 


「第三皇子・黎翔殿下、推戴を!」


 王城では、黎翔の即位の儀が行われた。  

 香が焚かれ、金の冠が掲げられる。

 重々しい声が謁見の間に響き渡った。  

 幾百もの目が、その一人の青年に注がれる。 


 金糸で丹念に刺繍された上り龍が、天子の象徴たる衣装に躍る。それを身にまとった黎翔は、わずかに視線を伏せ、深く息を吸い込んだ。

 背後には、黒燕の旗が立つ。

 闇を翔けるその鳥は、黎翔そのもの。

 もとは陰の盗賊団。  

 だが今や王国直属の影の軍“黒燕こくえん”として正式に組織された。 

 黎翔が築き上げた、もうひとつの王国の牙。  


「……我が命、国に捧ぐ。 誰一人、無為に死なせはしない」  


 黎翔の声は、静かに、遠くに響くように澄んでいた。 

 臣下たちは膝をまずき深く頭を垂れた。  


「黎翔陛下、万歳!」 


 無数の声が響く中、黎翔はゆっくりと玉座に腰を下ろした。 


 ふと、群衆の中に一人の女の姿を見つける。

 ただその一人だけが、黎翔の視界を満たしていた  


 ーー梅

  

 白い衣を纏い、仙女のような穏やかな笑みを浮かべて立っている。 


 黎翔と視線が交わった瞬間、彼女は唇を動かした。  

「おめでとうございます、陛下」

 黎翔は小さく頷く。  

 ほんの一瞬、国王ではなく、ただの青年の顔に戻った。


 その夜。  

 王の私室には灯がひとつ。 

 梅は湯呑を持って入ってきた。 


「陛下になっても、夜食は忘れてはいけませんよ」 

「お前が勝手に作ってくるしな」 

「陛下のために今日もお豆腐持ってきました」  


 黎翔は思わず噴き出した。 

「国中の豆腐をお前のものにしてやろうか?」 

「そんなにいらないです。食べきれません」 


 二人の笑い声が、静かな夜に溶けていく。 

 黎翔はふと窓の外を見上げた。 

 春の空に、淡い月が浮かんでいる。 

 梅が黎翔の横顔を見ながらつぶやく。  


「きれいですね、陛下」

「月が?俺が?」

「陛下が。」

 あまりに真剣な梅の眼差しに黎翔は瞳孔を収縮させた。


「わたし陛下のことを見たり思ったりすると胸がちくちく痛むんです。これってけがの後遺症ですか?」


 抑えきれぬ笑みが、黎翔の唇に浮かぶ 。

「……あぁ一緒に治していこう」



 黎翔はそっと梅の手を取って指を絡ませた。 

 風が吹き、灯が揺れる。  

 二人の影が、ゆっくりと重なってひとつになった。

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