第11話切れぬ縁

 梅の体が、音もなく黎翔の腕の中へ崩れ落ちた。


 カラカラと音を立ててたくさんの小瓶が梅の袖から出てきた。

「殿下に矢が刺さる夢を見たから、たくさんの薬を持ってきました。でも使わなくてよさそうですね。」

 唇が震え、名を呼ぼうとしても声にならない。

 その胸から溢れた生温かい血が、黎翔の指の隙間を流れていく。


「梅!」

 黎翔の叫びは、掠れていた。

 あの矢は彼に向かって放たれたものだった。

 彼女は、迷いもなく飛び込んできたのだ。

 戦乱の喧噪が遠のき、時間が止まったかのようだった。

 梅の呼吸が、細く、細く、遠のいていく。

 黎翔は外套を裂いて傷口を押さえたが、血は止まらない。

 唇を噛み、何度も名を呼ぶ。

 その声に応えるように風が揺れた。


 ふと、空気が変わる。

 炎の匂いの奥から、ひどく静かな気配が近づいてきた。


 白髪の老人。

 あの夜と同じ姿。月のような髪、氷のような瞳。

 老いた指が、そっと梅の額に触れる。

 途端に、血の流れがぴたりと止まった。

 黎翔の掌に、温もりが戻ってくる。


「…なぜだ」

 黎翔が低く問う。

「お前は何者だ」

 老人は答えずに冷ややかに言った。

「気づいているはずだろう、その娘は、生きていてはならぬ一族だ」


「……」


「未来を見る者は、世界の均衡を崩す。ひとたび“定め”を覗けば、人は己の命を軽んじ、国は秩序を失う。ゆえに、彼らは滅ぼされた。あの娘が生き続ければ、再び災いが呼ばれる。」


 その声は淡々としていた。

 まるで雪が降るように冷たく、哀しかった。


 黎翔は、梅の手を離さなかった。

 その小さな指が、かすかに彼の指を握り返す。

 それだけで、十分だった。


「…どうしても梅を生かすと言ったら?」

 黎翔は静かに言った。

「運命だろうと理だろうと、俺は従わない。」

「梅はもう、夢など見なくていい。俺が見たい景色を見せる。食べて、笑って、眠って、それだけして生きればいい。俺がそう生かす。」


 沈黙のあと、老人はため息のように目を閉じた。

 そして小さく呟く。

「……切れぬ縁もあるもんだ。黎翔。お前ならこの子を救えるかもしれぬ」

 言い残し、老人の姿は霧のように消えた。


 直後、梅が微かに息を吸い込む。

 黎翔は抱き締めたまま、安堵の息を漏らした。


 彼女の瞳がゆっくりと開く。

「でんか?」

「おう。俺だ。」

 黎翔は笑った。

「みんなに苛められて、へとへとなんだ。早くけがを治して助けに来てくれ。」

 軽く言いながら、彼は梅の髪を撫でた。

 梅はその手の温もりに身を委ね、やがて瞼を閉じる。

 黎翔はそのまま彼女を抱いて、夜を越えた。


 夜明け。

 白い布の天蓋が揺れていた。

 薄い光が射しこみ、木の香と花の匂いが混ざる。


 梅はゆっくりと目を開け、身を起こす。

 馬車に引かれた後のように全身が重くだるい。

 思い出す。

 あの夜の戦。

 飛んできた矢。黎翔の背をかばった自分の体。

 笑うと胸がまだ痛む感じがする。

 だが、胸には傷の跡がない。

 確かに矢は当たったはずなのに。


 そのとき、戸の向こうから足音がした。

「起きたか」

 黎翔の声。

 振り向くと、彼は薄衣のまま、静かに近づいてきた。

 頬にはかすかに疲労の色があるが、目の奥は柔らかかった。

「おはようございます、殿下。元気そうで良かったです。」

「また梅に助けられた。ありがとう。でも、もう危ない真似はしないと約束しろ。」

「はい……なんだか長い夢を見たような気がします。でも、起きたら何も覚えていません。」

「それでいい。」

「でもなんだか胸がもやもやします。」

「なら、起きてから見ればいい。」

「それただの妄想じゃないですか?」

 黎翔は穏やかに笑い、彼女の額に唇を落とした。

 その瞬間、梅の心拍が一拍跳ねた。

 今まで感じたことのない鼓動だった。


 外では、風が黒燕の旗を揺らしていた。

 その音は、どこまでも遠く、澄んでいた。

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