第10話紅鴉(こうあ)の宴
王都を包む風には、どこか鉄の匂いがあった。
北の国からの使節を迎える晩餐の夜。
天井の燭台は幾千の灯を掲げ、宮殿の大広間には金と絹と陶の輝きが満ちている。
だが、その華やかさは仮面にすぎなかった。
皇帝は玉座の背にもたれかかっていた。やつれた頬、目の下の深いクマ。
長年の酒と女に溺れたその顔には、もう精気というものがほとんど感じられない。
第一皇子、黎翔の兄が、恭しく杯を差し出す。
「父上、北の王子からの祝杯です。健やかなることを祈って」
老いた皇帝は、その声の裏に潜む毒を嗅ぎ分けることができない。
一口、酒を飲んだ瞬間、喉を押さえ、激しく咳き込む。
重臣たちが駆け寄るより早く、第一皇子が叫んだ。
「陛下が倒れられた! 今こそ後継を定める刻だ!」
場が凍りつく。
王妃がゆるりと立ち上がった。
その顔には涙ではなく、長年の怨嗟が貼りついている。
「……ようやくね。毎晩あなたの弛んだ皮を見ながら“感じてるふり”をしなければならなかった日々がようやく終わるわ。」
「わたくしがどんな気持ちで醜いあなたの下で耐えてきたか」
皇帝を見下ろすその瞳は、もはや妻のものではなかった。
「老いさらばえた王など、早く終わればいいのに……ずっとそう思っていたの」
重臣のひとりが叫ぶ。
「王妃様、それは!」
だが声が届く前に、第一皇子が手を振り下ろした。
刃が閃き、血が絨毯を染める。
「父上の遺志を汚す者は、すべて処刑する」
静かな声だったが、その瞳には狂気が宿っていた。
誰もが悟る。この国は、もはや第一皇子の暴威を止められぬと。
「遺言書を!」
第一皇子は玉座に近づき、震える皇帝の手に筆を握らせる。
「俺を後継に指名せよ。そうすれば、苦しまずに済む」
王妃が薄く笑う。
「いずれわたくしの子が王になるのだから、いいじゃない……」
第一皇子はその言葉に口角を上げ、にやりと刃を抜いた。
その時、轟音が大広間を揺らした。
炎とともに扉が吹き飛ぶ。
夜風が血の匂いをかき混ぜ、黒い影が雪崩れ込む。
「黒燕!」
闇を裂き、黒装束の精鋭たちが駆ける。
一瞬で第一皇子の近衛たちを制圧し、王宮の空気が一変した。
その先頭に立つのは黎翔。第三皇子。
冷たい光を宿した瞳。
その背後には、全身を血に塗られた北の国の精鋭部隊がいた。
どうやら外にいた第一皇子の兵も制圧されたようだ。
「兄上。宴は終わりだ」
第一皇子が剣を構える。
「死んだふりして反逆するつもりだったのか!」
「違う。腐った根を断つ、そのためだ」
刹那、空気が裂けた
黎翔の剣が抜かれる音は、まるで風のようだった。
一閃。黒い燕が空を駆けたかのように。
北の国の第一王子が狼狽し、逃げようとした瞬間、その首が宙を舞った。
王子を庇おうとした側近2人の首も落ちた。
誰も、その剣筋を見た者はいない。
彼の密約が、いま果たされた。
静寂。
「黎翔様が……剣を……」
重臣たちは息を呑み、その光景をただ見つめるしかなかった。
やがて、黒燕の旗が掲げられる。
王宮はまるで新たな夜明けを迎えたように、静かに息を吹き返す。
そのころ。
遠くの屋敷では、梅がちゃぶ台に突っ伏していた。
「……あれ? 殿下が…血……」
夢の中で、黎翔が矢に貫かれる。
目が覚めても、その痛みが胸に残っていた。
「ダメです、寝てなんていられません!」
梅は上着を羽織り、真夜中の王都へと駆け出した。
宮殿にたどり着くと、門は閉まっていた。
壁をよじ登り、大広間に飛び込むとそこには、血にまみれながらも敵をなぎ倒す黎翔の姿があった。
「…殿下、病弱なんじゃ……」
「梅。お前、やっと来たのか。みんなにいじめられてへとへとだ。早く助けてくれ」
黎翔の切羽詰った声に、梅は目を丸くする。
「い、いじめ!? 誰がそんなことを!」
「全員だ。今にも倒れそうだ。助けてくれ」
黎翔の背後では、無数の敵兵が倒れている。
梅はその異様な光景に気づかぬまま、彼の袖を引いた。
「殿下、私が来たからにはもう大丈夫です!」
その瞬間、外から矢が飛んできた。
黎翔の背へ、一直線に。
梅は反射的に身を投げ出す。
「殿下!」
鈍い音が響いた。
黎翔が振り返ると、梅の背に一本の矢が突き刺さっていた。
「おい、梅……!」
彼女は震える体で、それでも笑った。
「殿下……矢が刺さる夢を見たんです! だから来ました!」
「夢の中で、殿下が“いててて”って言ってて……!」
黎翔の喉から、声にならぬ音が漏れた。
剣が床に落ちる。
静寂の夜に、ただ一つの声が裂けるように響いた。
「梅――!」
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