第9話北の風、密約の夜

 黎翔は夜明け前の空を仰いでいた。

 灰色の雲が北へ流れ、風は冷たく、山脈の向こうに北の国、長年、王国と緊張関係を続ける隣国の影が見えた。


「今日も、凍えるほど静かだな」

 誰にともなく呟いた息が白く散る。

 北境の砦を抜け、さらに奥へ。

 黎翔は十人の近衛だけを連れ、極秘の旅を続けていた。

 目的は一つ、北の国の第七王子と会うこと。


 今、南北両国の宮廷は腐りきっている。

 権力者は宴と金に溺れ、兄弟同士が玉座を奪い合う。

 黎翔はその腐敗の連鎖を断ち切るため、動き始めていた。


 北の第七王子・ユリウス。

 聡明で、民の信を集める人物だ。

 だが、第一王子には“目障りな理想主義者”と見なされ、策略で霧族の住む国境へ追放された。


 霧族。

 白い霧に包まれた山岳地帯に根を下ろす少数民族。

 彼らは王都から“野蛮”と蔑まれてきた。

 だが王家が軽んじないのには、確かな理由があった。


 ──彼らは、毒を使う。


 かつて、王都で統制の声が上がり、使節団を送り込んだことがある。

 結果、戻った者はいなかった。

 それでも王は諦めず、次に討伐軍を出した。

 五千の兵を霧族へと送り、山々に火を放ち、村を焼いた。

 だが、霧の中で見たのは許しを乞う姿ではなく、息を呑むほど静かな死だった。

 翌朝、王都に戻ったのは報告書ではなく――風に乗った臭気だけ。

 兵は全滅。残された野営地では、毒虫が人骨を喰い荒らしていたという。

 死体は蟲毒のえさに使われ、命ある者は“毒の器”として生かされた。


 それ以来、王都は霧族を避けた。

 誰も踏み込まない。

 そこは“帰らぬ地”と呼ばれるようになった。


 そんな地にユリウスは躊躇なく土足で踏み入れ、彼らに農作物と建築の知恵を渡した。

 彼の大胆な行動と誠実さは、やがて霧族の心を溶かしていった。


 黎翔はそんな彼と「互いの毒を除く」密約を交わすため、北の国の古城へ向かった。

 月光の滲む石壁の下、黎翔を迎えたのは銀髪に氷の瞳を持つ青年だった。


「久しいな、南の“病弱皇子”殿」

「久しいな、北の乞食王子殿」


 二人は微笑み合うが、その笑顔の奥には計算が潜んでいた。

 卓上に広げられた地図には、赤線で戦火の予兆が描かれている。


 ユリウスが静かに言った。

「第一王子は我が国の毒だ。民を犠牲にしてでも他国との開戦を望む。」

地図には、国境線近くの霧族の集落がいくつも記されていた。

ユリウスはその一つを指でなぞりながら、重く息を吐く。


「霧族を……南の国、そちらにぶつけるつもりらしい。“人間兵器”としてな。」

「霧族は、決して侮れない。彼らは代々、毒を操り生きる民だ。王都は“野蛮”と呼んで軽んじてきたが、それでも誰も手を出さないのは理由がある。」


 彼の瞳には、かつての惨状が映るようだった。


「霧族は、いざという時、一族まるごと敵を道連れにする覚悟を持っている。」

「私は……戦を避けたい。刃を交えるより、畑を耕し、病を癒やし、明日を笑って生きる暮らしを与えたい。武力ではなく、心で結ばれた絆を作りたい。」


 一瞬、遠い夜風が吹き込む。

 揺れる燭火に、ユリウスの横顔が照らされた。


 黎翔は頷いた。

「我が国も同じだ。毒は“第一皇子”。……互いに除こう」

 盃が交わされた。

 中身は酒と硬い決意。


「北の軍を貸せ。代わりに、晩餐会で第一王子を葬る」

「取引成立だ。必ず、首を取ってこい」


 外では風が唸り、黎翔は馬に戻る。

 政権交代とはいつも血の儀式だ。悲しいが、変わらない歴史だ。

 杯をあおったとき、黎翔の胸に浮かんだのは一人の女の顔だった。


 梅。

 愚直で、まっすぐで、あまりにも人間らしい女。


 その夜、黎翔は北境にある野営地へ戻った。

 焚き火の光が幕舎の布を揺らしている。

 考え事をしていた彼のもとに、控えめな声がした。

「殿下、薬湯をお持ちしました」

 梅が入ってきた。

 指先はかじかみ、頬は赤い。木の器を両手で抱えている。

「お前、まだ寝てないのか」

「殿下、ご飯もお水も摂ってないって聞いたんです。体を壊したら困ります」

 黎翔はため息をつき、火のそばに彼女を座らせた。


「戦争が始まったら、怖いと思うか?」

「…戦争が始まったら、きっと孤児が増えます。」


 梅は焚き火の光を見つめながら、ぽつりと言った。

「殿下、知ってますか?」

「わたし、殿下に会って初めて、“お腹いっぱいに食べられる幸せ”ってものを知ったんです」


 黎翔は静かに顔を上げる。

 梅は笑っていた。けれど、その笑みの奥には、どこか切ない影があった。

「ほら、私ってよく食べるじゃないですか!最初はそれが可愛いって言われて、ちやほやされるんです。でも結局は、最後には“ごくつぶし”って言われて、捨てられるんです。」

 声は明るいのに、焚き火の音がやけに寂しく響いた。

「捨てられないように我慢してても、お腹は空くんです。」


「でも……殿下は違いました」

 梅はそっと顔を上げる。揺れる火の明かりが、その瞳に宿った。

「殿下は、私の救世主です。あのとき、拾ってくれて、本当にありがとうございます」


 その言葉に、黎翔は何も言えなかった。

 焚き火の火がはぜ、夜風がふたりの間をすり抜けていく。


「でもね……」

「みんなが、私みたいに運良く殿下みたいな人に出会えるわけじゃないんです。」

「だから、孤児が増えるのは悲しい。」

「戦争で誰かが泣くのは、もっと怖いんです」

 黎翔の胸の奥が、静かに軋んだ。

 言葉の一つひとつが、まるで矢のように刺さってくる。


 梅は薬湯を差し出した。

 黎翔はそれを受け取り、口をつけた。苦味が広がる。

 そして静かに呟いた。


「民のために、父上を見殺しにして、兄上を失脚させる」


 梅の手が止まる。

「どういう意味ですか」

 黎翔は答えず、火を見つめた。


 やがて淡々と語り出す。

「父上は、王なんかじゃない。ただの女好きの怠け者だ。」

「若い頃から女と賭博に溺れ、皇位に興味がないと噂されていた。だが、運は皮肉だ。兄弟の誰もが滅びるような争いの中で、漁夫の利のように帝位を得てしまった。以来、彼の頭の中にあるのは、国の方策でも正義でもなく、『次に何人の側室を抱えられるか』ばかりだ。人妻をどんな手段で奪うか、どうやって税をむしり取るか。民の声など、そもそも聞いてはいない。」


 焚き火の光が頬を撫で、彼の影が長く伸びた。


「母上は違う意味で執着している。権力そのものに。側室たちを監視し、芽が出ぬよう弾圧するのが日課だ。この代に皇子が三人しか生まれなかったのは、偶然ではない。皇女は十五人にのぼるというのに、美しい側室は早々に“確実に子を産めぬよう”毒を盛られる。もし身ごもったら──女なら猶予があるが、男なら母子ともに消される。そうやって、余計な血筋を徹底的に潰すのだ。」

 言葉は淡々としているが、その一つ一つが空気を冷たくする。


 黎翔は目を細め、どこか遠くを見つめるように続けた。

「第二皇子の母も、そんな犠牲者の一人だ。聡明で美しく、父上に最も寵愛されていた。だからこそ、母上の目の敵になった。」

 黎翔の瞳が、炎の奥で揺れた。

「彼女は身ごもったとき、医師を買収して“女子を産む”と偽っていた。男子を産めば殺されるとわかっていたからだ。けれど――実際に生まれたのは、男子だった。」

 その瞬間、空気がぴんと張りつめた。


「母上はすぐに嗅ぎつけた。第二皇子の誕生を祝う宴で、第二皇子の母は突然体調を崩し、部屋に戻った。後で気付くと、寝室のドア近くに大勢が集まっていて、まるで“偶然”を装うように、裸の彼女と隣の半裸の男を見ていたらしい。」


「もちろん、そんなものは仕組まれていた。あの部屋に入れたのも、眠らされたのも。全て母上の命だ。結果、第二皇子は“血が濁った”と疑われ、陵墓へ追放された。」


「ちなみに俺は予備の子として生まれた。」


 黎翔は手元の盃を静かに置いた。

 響く小さな音が、まるで終わりの刻のように感じられる。


「この国は、もう腐っている。誰かが、終わらせねばならない。」

 黎翔は一度目を閉じると、また顔を上げた。

 その目には、もう迷いがなかった。


 梅は息を呑んだ。

 初めて、この人の「闇」を真正面から見た気がした。


「王を殺したら、そのあと、民はどうなるんですか?」

 黎翔の瞳が、ほんの少し柔らかくなった。

「考えるんだ。どうしたら孤児が減って、お腹いっぱい食べられるようになるか」

「お前が“あのときこうできたら”と思ったことを、全部実行していけばいい」


 黎翔は梅の手を包み込む。

 その掌は、驚くほど温かかった。


「俺は本当の市井を知らない。だから、梅の感じたことを全部教えてくれ」

 梅は小さく頷いた。

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