第6話黒燕の巣と「殿下の最終兵器」

 翌朝。

 山を越えた二人はさらに奥の谷へと進み、地図にも載らない隠れ里へとたどり着いた。そこが「黒燕」の拠点である。


 谷底には黒瓦の屋根が並び、鍛錬場や馬小屋、鍛冶小屋が整然と立ち並ぶ。まるで小さな国のような光景だった。その中を歩く男たちは皆、精悍で無駄のない動きを見せているが、梅の姿を見た瞬間、場の空気が一変した。


「おおっ、殿下のお連れの方か!」

「これが“あのお方”!?」

「ひと抱えで十人倒したという噂の!」

「逃げながら倒すとは、見事な戦法だ!」


 黎翔はこめかみを押さえた。

 …どうして情報網がこう歪んでいるんだ。

「殿下のお連れ様が殿下を“抱えて”十人を無力化されたと……」


 梅は慌てて頭を下げた。

「す、すみません! 私、ただ逃げただけで!」


 一方で黎翔は淡々と副官に聞いた。

「女一人に一撃でやられたことについて、どう思う?」

 その言葉で場の空気が凍る。

 副官はすぐに命じ、件の十人は鞭打ち二十回の刑。そして訓練メニューが倍増した。

 

 鍛錬場では、黒燕の精鋭たちが剣を交えていた。

 梅は目を輝かせる。

「うわぁかっこいいですね!」

「お前もやってみるか?」

「え!? 無理です! 木刀を振って自分の頭を殴って倒れたことあります!」

「…なら見てろ」 


 しかし直後、兵の一人が足を滑らせ、剣が梅に向かって倒れかけた。


「危ない!」


 黎翔が瞬時に動いた。

 指先で剣を弾き飛ばし、刃は空中でひらりと回って地面に突き刺さる。

 その動きは誰の目にも捉えられなかった。


沈黙。


「…今の、見た?」

「殿下が風になりました!」

「殿下、肋骨治ったんですか!?」

 黎翔は小さくため息をついた。

「いや、その…反射的に、だな」


 黒燕たちは息をのむ。

「怪我の身でも武神のごとき剣筋」

「さすが殿下!」

 梅は心配そうに黎翔の胸を軽く叩いた。

「殿下、無理しないでくださいね。痛んだら冷やします!」

 黎翔は少しだけ目を細めて笑った。


 そのやり取りを見た黒燕たちの中に、静かな忠誠の炎が灯る。

 病弱で優しい主君が、実は最強の武人。

 その隣には、庶民の娘にして“殿下の最終兵器”と呼ばれる女。


 彼らの中で、伝説がまた一つ生まれた。


 その夜。

 黎翔は地図を前に駒を動かしていた。

「兄上が兵を集め始めた“紅鴉こうあ”の旗が動いたか」

 梅は赤い印の場所を指差した。

「この辺り、昔お祭りがあった村ですよ。いい人たちばかりで」

「その“いい人たち”が、今は兄上の徴兵地だ」

「えっ」

 黎翔の声は低く、静かに燃えていた。

「政権交代には血が流れる。だが、民の血である必要はない。」

 その瞳が、炎のように赤く光った。

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