第23話 開戦

 夜の闇に紛れ、マール東部連合軍の最前線――ユイナフ領と目と鼻の先の丘陵地帯に、数人の影があった。セキレイとモニカ、そしてヴィクトルに扮したヴァルと、その護衛兼観測役のダンとシュウだ。


 眼下には、夜明けと共に行動を開始すべく、無数の篝火を焚いて野営するユイナフ軍の陣地が広がっている。


「やれるか、ヴァル」

 セキレイの問いに、ヴィクトルは静かに頷いた。


 彼は一歩前に進み出ると、両手を大きく広げ、地面に触れんばかりに低くかざした。そして、深く長く息を吸い込み、詠唱を始めた。それは、よほど熟練の魔法使いでなければ扱えない、大地を揺るがす言霊だった。


 次の瞬間、ユイナフ軍の野営地の前方に広がる平原が、まるで生き物のようにうねり始めた。


 ゴゴゴゴゴ⋯⋯!

 大地が裂ける轟音と共に、地面は無数に隆起し、巨大な土の槍となって天を突き、あるいは巨大な蟻地獄のように円を描いて陥没していく。

 平らな場所は、もはや一つとして残っていない。


 少なくとも、ユイナフの騎馬隊は完全に無力化された。歩兵がこの地形を進軍するにしても、これまでの3倍、いや5倍の時間がかかるだろう。マール側からの攻撃は容易だ。


「おいおい⋯⋯先生、こんなにすごい人だったのかよ」

 眼下の光景に、ダンは呆然と呟いた。


「変身の選択肢を増やすだけで、ヴァルはそれだけ強くなっていくということか⋯⋯」

 シュウもまた、戦慄にも似た感嘆の声を漏らす。隣で見ていたモニカが、その言葉に同意した。

「ヴァルはもう、帝国最強の魔法使いになっちゃったかもね」

 モニカはそう言うと、作戦の第一段階が終わったことを見届け、戦闘に備えて後方へと下がっていった。


 作戦は成功した。

 ユイナフ軍の進撃を大幅に遅らせ、戦いの主導権はこちらが握った。


 暁の光が地平線を染め始める中、セキレイがダンの隣に立った。

「お前は、ヴィクトル殿から正規魔法を勉強したのか?」

 その問いに、ダンは苦笑いを浮かべた。

「人が悪いな、隊長。あんた、オレには身につけられると思ってなかったんだろ? 最初から『お前には無理だ』なんて言われたら、意地になってたかも知れねーけど、もうよく分かったぜ」


 彼は、自分の掌を見つめ、そこに揺らめく黒い炎の幻影を見た。

「オレは、この黒い炎に特化する。オレにはそれしかないしな」

(――あのアシュヴァル王のようにな)

 その決意は、諦めではなく、自らの進むべき道を明確に見定めた者の、力強い光を瞳に宿していた。


 夜明け前、ユイナフ軍の陣営は混乱の渦中にあった。

 青薔薇の騎士エティエンヌは、副官1人だけを伴い、魔法攻撃によって無残に破壊された進軍予定地を自ら視察していた。


 馬だけでなく兵士の歩みさえも阻む、隆起した岩盤。兵糧馬車ごと飲み込むかのように開いた、巨大な陥没穴。大地そのものが牙を剥いたかのような光景に、歴戦の猛者である副官も言葉を失っていた。


「⋯⋯閣下。なぜ、レーゲンスブルク領からこれほどの規模の魔法攻撃が飛んでくるのでしょうか」

 副官は、信じがたいといった様子で呟いた。

「レーゲンスブルク内部に、そのような異変があったという報告は受けておりませんが⋯⋯」


「ああ。潜入させた密偵からも、特に変わったことはないと報告が上がっていたはずだ」

 エティエンヌは、破壊された大地を冷静に見つめながら答えた。だが、その瞳の奥には、初めて覚える種類の焦りが浮かんでいた。


 これは、銀狼バルガスの狡猾な策だった。


 帝都での一件の後、ローゼンブルクに与することを決めた彼は、レーゲンスブルク領主に耳打ちし、一切の情報が外部に漏れないよう、領内の通信を厳しく統制した。

 ユイナフから潜入していた密偵たちは、意図的に泳がされ、偽りの平穏を報告し続けていたのだ。


 そして、ジギスムント皇子をはじめとする各領邦の戦力が、セキレイの呼びかけに応じてレーゲンスブルク領内に集結する段になると、バルガスは張り巡らせていた手勢を動かし、全ての潜入者を一網打尽にして、ユイナフへの情報漏洩を完全に阻止したのだった。


 エティエンヌの副官が悲痛な声を上げる。

「これでは先に進めません。もしマール側が、これほどの魔法攻撃を連続して仕掛けてくることができるのなら、我々が進もうとしているうちに前衛部隊は全滅してしまいます」


「――やむを得ん」

 エティエンヌは、苦々しく決断を下した。


「特殊兵装部隊を最前線に出す。王立研究所の玩具には、少々手荒い試験運用となるがな」


 彼は、副官に鋭い視線を向けた。

「まだ開戦前だが、もはや特殊兵装が我々の唯一の戦力だ。彼らが期待どおりの働きを見せ、マールの前線をこじ開ければ、セキレイは必ず単身で飛び込んでくる。そうしなければ、彼女とて戦況を打開できないからな」


 エティエンヌは、ローゼンブルクの騎士団総隊長、神足セキレイの姿を脳裏に描いた。

「――そこを叩く。不本意な方法だがな」


 当初の計画は崩れたが、最強の敵を誘い出し、確実に仕留めるという一点において、彼は思考を研ぎ澄ませていた。

 

 日の出とともに、ユイナフ軍が動いた。破壊された地形を慎重に避けながら、前衛部隊がゆっくりと姿を現す。


 マール連合軍もそれに応じ、最前線に兵を集め、丘陵地帯を盾に陣を構えた。両軍の間にピリピリとした緊張が走る。


 ユイナフ軍の先頭に立つのは、エティエンヌ率いる騎士団ではなかった。

 見慣れない、全身を鈍色の装甲で覆った戦士が、わずか10名ほど横一列に並んでいた。


「何だ、あの不格好な兵士は⋯⋯」

 マール側の兵士たちが、困惑の声を上げる。

「あれが、ユイナフが開発したという新兵器か? どう見てもただの分厚い鎧ではないか」


 その疑問は、瞬く間に戦慄へと変わった。

 奇妙な鎧の戦士たちが、まるで示し合わせたかのように、右腕を真っ直ぐ前方に突き出す。その腕に装着された装甲の一部が機械的に展開し、その中心に淡い光を灯した。次の瞬間、それぞれの掌から、巨大な火球がマール連合軍の陣地めがけて一斉に放たれたのだ。


「――速い!」

 ヴィクトルに扮したヴァルが叫び、即座に防御魔法を展開する。大地から巨大な土の壁を隆起させ、いくつかの火球を相殺するが、半分は壁を乗り越えてマール陣へと飛んでくる。


 セキレイが神速の剣を振るい、その剣圧だけで数個を切り裂き、ダンもまた黒い炎の塊をぶつけて一つを爆散させる。しかし、防ぎきれなかった2つの火球がマール陣に着弾した。

 轟音と共に爆炎が上がり、遊撃隊の近くにいなかった兵士たちが、枯れ葉のように吹き飛ばされた。


 ユイナフ軍本陣で、その光景を見ていたエティエンヌは、静かに呟いた。

「⋯⋯まずまずだな」


 隣に立つ副官が、信じられないといった様子で尋ねる。

「閣下、ここまで強力な攻撃が可能だとは⋯⋯」


「ゼノ副所長殿の会心の発明だけはある。あの装甲の内部には魔法陣が直接刻み込まれており、魔法を使えない者でも、装甲を介して精霊への働きかけが可能になっているらしい。威力を見るに、よほど高位の魔法を刻んでいるようだな。むろん、装甲自体の物理的な強度も、そこらの鋼鉄とは比べ物にならんほど高い」


 最初の攻撃で、マール側は完全に態勢を崩された。

 兵士たちは混乱し、指揮官たちの怒号が飛び交う。ひとまず左右に展開し、森を遮蔽物にして直接の魔法攻撃を避ける陣形を取るが、それではこちらからも有効な攻撃はできない。


 セキレイは、ヴァルがヴィクトルに変身したまま長時間戦うことはできないことを懸念していた。この距離での撃ち合いが続けば、いずれヴァルの集中力は限界を迎え、大地魔法という最大の防御壁を失うことになる。そうなれば、一方的にやられるだけだ。


「誰も出るな! 死ぬぞ!」

 セキレイはそう声を張り上げた後、ユイナフ軍の前線をにらみながら考えた。


(唯一の打開策は、一点突破⋯⋯エティエンヌの首を真っ直ぐ狙うしかない。奴はシュウに任せたかったが、そんな余裕もないな)


 エティエンヌの前には、あの謎の装甲兵たちが立ちはだかっている。ここを突破しなければ活路は開けない。

「リオ!」

 彼女は、隣で固唾を飲んで戦況を見守っていた少年の名を呼んだ。

「お前の能力、どこまで届く」

「あ、あの変な鎧の人達よりはだいぶ手前が限界だよ」

「そうか」

 セキレイの決意は、一瞬だった。

(エティエンヌを直接叩けないならば、まずは、あの装甲兵だ。鎧の強度も見極めたい――)


「リオ、私を限界地点まで送れ!」

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