第10話 帝都の罠
レーゲンスブルク領の森での一件から、ひと月も経たないうちに、その噂は大陸を駆け巡った。
発信源は、ユイナフとの国境沿いの領邦だった。
「聞いたか? ローゼンブルクの神足セキレイ様が、いよいよ国境全体の守護に乗り出されたらしいぞ」
「ああ、それどころじゃない。先日、レーゲンスブルク領に侵入したユイナフの騎士団を、たった数人の部下と共に追い払ったそうだ!」
「その騎士団を率いていたのは、あの“青薔薇”の紋章を掲げるエティエンヌとかいう大物だったらしい。それを、だ」
「セキレイ様が連れている部下たちも、1人1人が達人揃いで、あの“銀狼のバルガス”率いる傭兵団を、たった2人で壊滅させたというじゃないか」
噂は人々の口から口へと伝わるうちに、尾ひれがつき、英雄譚として完成されていった。
皇帝の権威が失墜し、ユイナフの脅威に怯える人々にとって、その物語は渇きを癒す甘い水のように、心地よく染み渡っていった。やがて、その噂は帝都アイゼンブルクの、民衆の酒場から貴族のサロンにまで届いていた。
もちろん、ローゼンブルク領も例外ではない。領民たちは、自分たちの騎士団総隊長が帝国の英雄として語られることに、誇りと興奮を感じていた。
だが、当のセキレイは、その熱狂を冷めた目で見ていた。彼女は、自室で各地から集めた噂の報告書を読み比べながら、その不自然なまでの広まり方に、ある人物の影を見ていた。
(エティエンヌ、あるいは、その背後にいる宰相エルドレッドか――)
セキレイは、この噂の出所が、自分たちと対峙したユイナフの騎士エティエンヌであると直感していた。
(こちらと同じことを考えている。しかも念入りに)
誇張された噂を流布させ、セキレイの名声を意図的に高める。それは、帝都からの帰途で遊撃隊がやったことだった。
エティエンヌは、セキレイを「帝国の英雄」に仕立て上げることで、皇帝ルドルフ4世との対立を決定的にしようとしている。
権威の低下に焦る皇帝ルドルフ4世が、これ以上自身の権威を脅かす存在を許せるはずがない。セキレイの名声が高まれば高まるほど、皇帝は追い詰められ、彼女を危険視していく。
ユイナフは、神聖マール帝国が内側から崩壊するよう、静かに、しかし確実に火を煽っていた。
セキレイが内心で予測していたその日は、思ったよりも早く訪れた。
帝都から、皇帝の紋章を掲げた一団が物々しい雰囲気でローゼンブルク領主の城に到着したのだ。皇帝からの勅使だった。
領主アルフレートが応対する広間に、セキレイも呼ばれた。勅使は冷たい目でセキレイを一瞥すると、羊皮紙の巻物を広げ、抑揚のない声で読み上げた。
「ローゼンブルク騎士団セキレイ総隊長に皇帝陛下より勅命である。直ちに帝都に出頭し、陛下の御前にて申し開きを行うべし」
広間の空気が凍りついた。
「申し開き、とは?」
アルフレートが、怒りを抑えた声で問う。勅使は、嘲るような笑みをかすかに浮かべ、言葉を続けた。
「2つある。1つ、皇帝陛下が不要と断じた国境守護を、勅許なく勝手に行い、帝国の秩序を乱したこと。2つ、帝都の許可なくユイナフ王国の騎士と交戦し、帝国を無用の危機に晒したこと。以上である」
後者は言いがかりだった。戦場で敵を前にして、いちいち帝都の許可を仰ぐ
これで皇帝ルドルフ4世の意図は明確になった。
セキレイを帝都に呼びつけ、公開の場で罰する。そうして、彼女の高まった名声に泥を塗った上で、行動の自由を奪い、二度と諸領邦に出入りできないようにするつもりだ。
アルフレートが口を開こうとしたその時、
「承知いたしました。このセキレイ、一両日中に帝城へ参ります」
セキレイは表情一つ変えず即答した。
「さすが、判断が早い。しかし今のは領主殿が返答をすべきところ。若くして領邦内での地位を築いていることも関係しているのか、やはり貴殿は性質として、いささか僭越で専横的なところが見受けられるな」
勅使は、ちょっとした点から人物像を決めてかかってきた。セキレイがどう申し開きをしようと、彼女の信頼を失墜させることが帝城の目的であると透けて見えるような言い方だった。
「そのようなことはありませぬ。この領邦組織におけるセキレイの振る舞いには、何らの瑕疵もございません」
領主アルフレートがそう反論しても、勅使は鼻で笑うように受け流した。
「ここから帝都まで2日はかかろう。セキレイ殿には明後日の夕刻に登城いただき、陛下への謁見はその翌朝とする」
「承知いたしました」
滞在用の部屋が用意される――長くなりそうだとセキレイは直感した。
勅使が引き上げた後、アルフレートはセキレイに詰め寄った。
「セキレイ、行ったら戻れぬぞ!」
「分かっています」
「ならばなぜ、あのような返答をした!」
「アルフレート様」
セキレイは、静かに領主の名を呼んだ。
「行かなければ、帝国軍がここローゼンブルクに押し寄せ、領内は踏み荒らされるでしょう」
「それはそうだが、そなたが戻れぬとなったら、領邦にとってどちらが損失かわからぬ」
「私はすぐに戻ってきます。それを信じていてください。マールの未来にとって、今が勝負どころです」
彼女の頭の中では、すでにいくつもの未来がシミュレートされていた。
この召喚に応じるなら、帝都でどう振る舞うべきか。とるべき選択肢はいくつかある。そのどれを選んだとしても、最終的に目指す先は一つだった。
――皇帝カール家の権威失墜、歴史からの退場。
(エティエンヌも、この状況に私を誘導したかったのだろう)
ユイナフの思惑通りに事が進んでいるとはいえ、歴史を動かすチャンスが目の前にある。
あとは、この件でユイナフを利することがないようにしなければならない。マール帝国領への侵攻を防ぐのは当然として、欲を言えばユイナフにも何らかのダメージを与えたい。
「必要に応じ、我が遊撃隊の者を連れて行くことをお許しください。今から準備に入ります」
セキレイはアルフレートにそう言うと、城を後にした。
彼女は、領都の外れにある遊撃隊の隊舎に向かった。
隊舎の扉を開けると、モニカが1人テーブルで酒杯を傾けていた。彼女はセキレイの顔を見るなり、妖艶に微笑んだ。
「帝都からのお呼び出し、おめでとう、総隊長様。さて、どうするおつもり?」
彼女は、全てお見通しのようだった。
「モニカ」
セキレイは、まっすぐに情報屋の目を見据えた。
「知恵を貸せ。最善の一手を見つけたい」
テーブルを挟んでセキレイとモニカが向き合っていた。他の4人も、ただならぬ気配を感じ取り、固唾を飲んで2人を見守っている。
「さて」
モニカは、優雅に傾けていた酒杯をテーブルに置いた。その瞳から、いつものような妖艶な色は消え、怜悧な光だけが宿っていた。
「改めて状況を整理しましょう、セキレイ様」
彼女は指を一本ずつ折りながら、課題を挙げていく。
「まず元々目指しているのは、ルドルフ4世、ひいては皇帝カール家の権威を完全に失墜させること。これは揺るがないわね?」
セキレイは無言で頷く。
「それを前提にすると、帝都からの召喚を無視する選択肢は、皇帝の求心力低下を象徴するようで一見あり得るわけだけど、これはない。ローゼンブルク領へ帝国軍を差し向ける口実を与えることになる。最悪、帝国軍との全面戦争ね。まあ、一騎当千どころじゃないセキレイ様がいる限り、今の帝国軍相手ならやれば勝てるだろうけど、アルフレート様や領民に多大な迷惑がかかる」
これにもセキレイは頷いた。
「次に、召喚に応じたとしましょう。反論や脱走など向こうで皇帝の意に沿わない振る舞いをすれば、怒りや恨みを買う。結局、ローゼンブルクが討伐対象になる危険性は変わらない」
「かといって、言われるがまま罰せられ、活動の自由を奪われてしまえば、せっかく高まったセキレイ様の名声は地に落ちる。民衆の希望は失望に変わり、ユイナフの思う壺」
「どうすんだよ! 全部だめじゃねえか!」
話を聞いていたダンが、苛立たしげに髪をかき混ぜながら、乱暴に口を挟んだ。
「いや、待てよ。いっそ、反撃できないぐらい壊滅的に帝国軍を蹴散らしちまったらいいんじゃねーの? 隊長ならあっちで大暴れして、1人でできるだろ」
「馬鹿ね、坊や」
モニカは、名案を思いついたと言わんばかりのダンの言葉を鼻で笑った。
「想像してみなさいよ、そんな狂犬みたいなセキレイ様を。大人の世界はね、どんな場面でも粗暴というのはご法度なの。どの領邦もセキレイ様を支持しなくなるわ。手に負えない暴力装置と見なされ、心は離れる。それどころかローゼンブルクが危険な仮想敵になるわよ」
でも、とモニカは言葉を続ける。その目に、悪戯っぽい光が浮かんだ。
「確かに、実力行使という選択肢そのものは検討に値するわね。帝国軍との正面衝突じゃなくて、こっそり皇帝暗殺ならどうかしら。帝都の警備なんて、神足のセキレイにかかればザルも同然。それこそ1人でできるでしょう? ルドルフだけ消しても皇帝家が残れば意味がないから、カール家の人間を個々に暗殺しなければならないけれど」
不穏な言葉に、シュウたちが息を呑む。
セキレイは静かに首を横に振った。
「私は騎士だ。そんな陰惨な手段は考えられない。他の案だ、モニカ」
その答えを待っていたとばかりに、モニカは唇の端を吊り上げた。
「もちろん、御用意しているわ」
「カール家の権威失墜のためには、皇帝の地位に盛大に泥を塗るような大立ち回りを、絶対にやらなくちゃいけない。セキレイ様がそれをやっちゃうとローゼンブルク侵攻につながってしまうなら、要は、それをセキレイ様以外の“誰か”にやってもらえばいいのよ」
「誰か?」シュウが問う。
「そう。それもローゼンブルクに関係のない誰か、理想は、ユイナフに関係のある誰かに」
「なるほどな」すべてを察したセキレイが頷いた。
モニカが一同を見渡して言う。「うちにはヴァルがいるでしょ」
モニカの視線を受けて、ヴァルとリオはきょとんとした顔で互いを見合わせた。
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