第9話 謎の神殿

 一行はレーゲンスブルク領を抜け、ローゼンブルク領の南西に広がる広大な森、「鷲ノ巣の森」へと足を踏み入れた。


 森は、その名の通り、まるで巨大な鳥の巣のように複雑に入り組んでいた。

 昼なお暗く、深い苔がむした巨木が天を覆い、湿った空気が一行の体にまとわりつく。


「ひでえ森だな。道らしい道もねえ」

 ダンが、木の根を避けながら悪態をついた。


「それ故に、天然の要害なのよ」

 モニカが、地図とコンパスで方角を確認しながら答える。

「レーゲンスブルクからの正規の街道は、北に大きく迂回する一本だけ。レーゲンスブルク側からこの森を突っ切ってローゼンブルクの心臓部に侵攻するのは、大軍であればあるほど不可能に近いわ。道に迷い、補給が途絶え、ゲリラ戦の格好の的になるだけ」


「だが、少数精鋭の部隊なら、侵入の危険性は常にある。バルガス隊も、放っておけばこのルートから入ってきただろう。この森の防衛は、ローゼンブルクにとって永遠の課題だ」

 セキレイが、モニカの言葉を引き取った。その目は、森の奥深くを、何かを探すように見つめていた。


 数時間は歩いただろうか。一行が森の中心部に差し掛かった頃、シュウが不意に足を止めた。


「なんだ、これは⋯⋯」


 鬱蒼とした木々の合間に、不自然なほど整然と並んだ石段が見えた。苔に覆われ、ひび割れてはいるが、明らかに人の手によって作られたものだ。一行は、何かに導かれるように、その石段を登っていった。

 石段の先は、小さな広場のようになっていた。そして、その中央に、それはひっそりと佇んでいた。


 いつの時代の、どこの国のものかもわからない、小さな石造りの神殿。

 風雨に晒され、角は丸みを帯びている。壁面には、見たこともない様式の、鳥とも獣ともつかない生き物のレリーフが彫られていたが、その多くは風化して判然としない。神殿全体が、忘れ去られた悠久の時をその身に纏っているようだった。


「⋯⋯」

 セキレイは、その神殿を、特別な感情が宿った目で見つめていた。いつもの彼女の冷静さはそこにはなく、まるで遠い故郷を懐かしむような、あるいは、辛い過去を思い出すような、複雑な色を浮かべていた。


 その静寂を破ったのは、ダンの声だった。

「ここ⋯⋯俺、来たことがある」


 全員の視線が、ダンに集まった。

「いつだ? ここで何をした?」

 セキレイが鋭く問いかける。


「い、1年くらい前⋯⋯。村を飛び出した時、とにかく遠くへ行こうとしたんだけど、村の周りはずっと森だし、方角はわからないしで、気づいたらこの森に迷い込んでた。何日も彷徨って、偶然ここにたどり着いたんだ」

 ダンは神殿の入り口を指さした。そこは、扉もなく、暗い内部が口を開けているように見える。


「でも中には入れなかった。見えない壁みたいなのがあって、弾き飛ばされたんだ。気味が悪くてすぐ離れた」


 すると、ダンの隣にいたヴァルとリオが、不思議そうに顔を見合わせた。

「ここに来るのは初めてだけど⋯⋯」

「どこかで見たことがあるような気がする」


 2人の言葉に、モニカが「ああ、それね」と割り込んだ。

「既視感というやつよ。極度の緊張や疲労状態にあると、初めて見る光景なのに、以前にも経験したことがあるように感じることがあるの。あなたたち、ここのところ緊張続きだったから。気にすることないわ」

 もっともらしい理屈だったが、ヴァルとリオは「そうかなぁ」と納得のいかない様子。

 ダンには、そういった一般的な現象ではないとわかっていた。彼も、この場所に初めて迷い込んだ時に同じことを感じたからだ。


 シュウは、神秘的な雰囲気をまとう神殿と、仲間たちの奇妙な反応を注意深く見つめていた。セキレイも、ダンも、ヴァルもリオも、「何か」をこの場所で感じ取っている。彼は、この古ぼけた神殿に世界の根源に関わるような秘密がある気がしていた。


 鷲ノ巣の森を抜け、一行はようやく領都に帰り着いた。数日ぶりに見る城壁は、彼らに安堵感をもたらした。


 セキレイは遊撃隊のメンバーに隊舎での休息を命じると、その足で領主アルフレートの待つ城へと向かった。


「⋯⋯という次第で、皇帝陛下に私の申し出は拒絶されました」

 セキレイは、帝都での顛末を簡潔に報告した。

「そうか。ルドルフ4世も、まだ若い故か、あるいは⋯⋯。まあよかろう。元より多くは期待していなかったが」

 アルフレートは、ため息交じりに言った。


 セキレイが報告を続ける。

「そのような形で、帝都での任務が思いのほか早く終わってしまいましたので、帰途、国境沿いの諸侯の領地をいくつか回ってまいりました。」

「そうか、ははは。そこで何をしてきたかは、領主として知らぬ方がよさそうだな」

 事情を察したアルフレートは愉快そうに笑った。


「は。また、レーゲンスブルク領内にてやむを得ず傭兵部隊との戦闘になり、わが隊員2名が銀狼のバルガスなる戦士の一団を退けております」

 領主は目を丸くした。

「その名、聞き覚えがある。そなたの部下は子供と聞いていたが、そんな戦士を打ち破るほど強いのか」


「まだまだ未熟者ですが、私から見ても抜きんでた才能を持っております。なお、その者達は、往路において怪鳥グライフ討伐にも中心的な役割を果たしております」

「なんと、帝都への出張がてらにグライフを討ったのか――」

「は。報告にはなかった2頭目がおりまして、いささか肝を冷やしましたが、2頭とも仕留めました」

「そなたが戻って来たら、騎士団を挙げて討伐に向かわせようと思っていたのだがな。よくやったぞ。そなたの戦士としての徳とでも言おうか、強者の部下には強者が引き寄せられるものだな」


「もう一つご報告が。引き寄せたわけではないのですが、ユイナフの上級騎士、エティエンヌなる者がレーゲンスブルク領内に入り込んでおり、小競り合いになりました」


 アルフレートが身を乗り出す。

「何だと。エティエンヌと言えばユイナフ屈指の騎士ではないか。軍を率いていたのか!?」

「いえ、見たところ単騎のようでした。先ほど申し上げたわが部下2名が子供扱いされる実力の持ち主でした」

「そなたは、遅れを取っておらんだろうな」

「はい。名声通りの強さで、手傷を負わせないよう一本取るのには苦労しましたが。しかし、剣で上回っても精神的に余裕があると言うか、底を見せない人物でした」

 アルフレートは安堵した。

「そなたが負けなくて安心したぞ。――しかし、その者の動きは引っかかるな」

「はい。戦闘力もさることながら、謀略や大局観が油断ならぬ相手と感じております」

「うむ、レーゲンスブルクから目を離さないよう頼む」

「は。――そのエティエンヌと遭遇した後、鷲ノ巣の森を通り抜け、帰着した次第です」


 セキレイのその言葉に、うつむき加減だったアルフレートはふと顔を上げた。厳格な領主の顔が、一瞬、温和なものに変わる。


「そうか⋯⋯森をな。では、神殿は変わりなかったか、セキレイ」

 その問いかけは、とても優しく、親密な響きを持っていた。まるで、旧友の安否を気遣うかのように。

「はい。以前と、何も」

 セキレイもまた、普段の部下としての顔ではなく、素顔に近い、穏やかな表情で頷いた。


 2人の間に流れる、他の者には窺い知ることのできない空気。彼らは、あの神殿に関する何らかの秘密を、固く共有しているのだった。


 その頃、遊撃隊隊舎の庭では、シュウが汗まみれになって木剣を打ち込んでいた。

「くそっ! あの騎士、エティエンヌとか言ったか。あいつの剣は、速さだけじゃなかった。重さも、正確さも、俺とは比べ物にならなかった!」


「だけどよ、隊長はさらにその上だ。まるでお話にならねえな」

 側で見ていたダンは、諦めたような口調で大の字に寝転がった。


 空は青く、平和なローゼンブルクの日常がそこにはあった。だが、彼らの心は、レーゲンスブルクの森での激戦から離れられずにいた。


 あまりにも圧倒的で現実離れしたセキレイの強さ。だが、今の自分たちがいきなり彼女を目指すのは、あまりにも無謀で、現実味がない。

 シュウは、拳を強く握りしめた。

「ダン」

「なんだよ」

「まずはあの騎士だ。俺はエティエンヌを超える。あの青薔薇を超えなきゃ、セキレイさんの背中すら見えない」

「青薔薇と隊長はオレがやるんだよ。お前はまずバルガスの斧を受け止めるとこからじゃねーか」

「バルガスにはもう負けん!」


 セキレイという遥か彼方の頂を見上げる前に、まずは目の前に現れた、越えるべき高い壁――シュウとダンは、新たな、そしてより具体的な目標を胸に刻んだ。

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