1-3. いまだ肉声は聞けない

 大学近くのファミレス、俺と柊と紫苑と栞奈は向き合って座っていた。そう、今日は大学入学から5か月ほど経って、やっとのことで実現した“4人のご飯”の日である。

「ごめんね、俺が言い出しっぺなのに」

柊がいつもの爽やかな調子で謝ると、栞奈もまたいつものそっけない感じで返事をした。

「いいよ、忙しいんでしょ、陸上部」

「夏休みは合宿でほとんど東京離れちゃうからね」

柊はスマホでカレンダーの予定を見ながら、遊ぶ時間どころか勉強する時間もないわ、と笑う。そういえば今日はテストの日だった。大学のテストは高校までと違って履修科目によって実施日が異なる。つまり、テスト開始日も終了日も人によりけりなのである。俺と紫苑は今日が最終日だったが、栞奈と柊はまだ何か残っていたような気がする。

「栞奈と柊って、まだテスト残ってたよね。良かったの?今日会っちゃって」

俺が聞くと、二人からは思い思いの返事が返ってきた。

「大丈夫、明日の科目はほとんど頭に入ってるから」と栞奈。

「大丈夫、明日の科目は今さら勉強しても手遅れだから」と柊。

1人はなんとも頼もしく、1人はなんとも清々しい回答である。俺が苦笑いしていると目の前にスッと何かが横切る。そちらに目をやると、なんと紫苑が柊に薄茶色のノートを差し出しているではないか。

「何これ、え、明日の政治学のノートじゃん!紫苑ちゃん、この授業とってないよね?なんで?」

柊が差し出されたノートをパラパラとめくりながら、紫苑に問いかける。紫苑は恥ずかしそうに、困ったような顔で栞奈を見た。栞奈はいつもの調子で通訳をしようとして、その言葉を飲み込んだ。どうやら先日の宣言通り、紫苑の通訳は辞めるつもりらしい。

「紫苑、自分でちゃんといいな。なんで柊が受けてる講義のノートを持ってるのか、なんで柊に渡したのか」

言われた紫苑はじっと栞奈を見つめる。その目は助けを求める子猫のようで、つい手を差し伸べたくなってしまう。栞奈も同じことを感じたに違いないが、「自分で言いな」と言ったきり、何も言わなかった。


 どのぐらい時間が経っただろうか、しばらくの沈黙の後、紫苑はカバンからペンケースを取り出し、ノートの片隅に書いた。

“授業だけ出てて“

「履修せずに潜ってたってこと?」

柊が聞き返すと、紫苑はコクリと頷いた。三人で次の言葉を待ったけれど、紫苑はもう何も書かなかった。

「いや待って、履修せずに講義だけ出るってどういうこと?単位もらえないのに授業聞きに行く人っているの?」

耐えきれなくなったように柊が呟くと、栞奈がいつもの調子で突っ込む。

「陸上部にはいないかもしれないけど、栄応探したら一握りぐらいはいるんじゃない?」

「まぁ、相当少数派だろうけどな」

俺はそう続けつつ、紫苑の顔を覗った。顔を赤らめて、下を向いている姿は、今にも泣き出さんばかりである。無理に意思疎通させようとしたからだろうか。いたたまれなくなって目をそらすと、目の前の栞奈と目が合った。栞奈も同じことを考えていたようで、心苦しそうな顔をしている。

「柊が陸上に専念できるように、授業潜ってノートとってくれてたんだよ。前にクラスで言ってたでしょ。初回の授業出た感じ、政治学が一番ヤバいって」

 おい栞奈、こないだの宣言はどうした、と突っ込みたくもなったが、この状況下では止むをえまい。栞奈の通訳によって、ようやく俺と柊は状況を理解した。

「柊が単位落とさないように、代わりに授業出て要点まとめてくれてたんだ」

俺はいいな、と思いながら、紫苑の柊への気持ちがただの陸上ファンとしてのものでありますように、と祈った。熱烈な駅伝ファンなら、推しのためにそのぐらいするのが普通であってほしい。だってもし紫苑が柊を好きなら、このナイスガイがライバルだと言うのなら、俺に全く勝ち目はないのだから。

「えーよくわかんないけど、紫苑ちゃんまじでありがと!助かった!」

そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、柊はいつもの爽やかスマイルを紫苑に向ける。すると先程まで涙目だった紫苑の顔がきらりと輝いた。ふわっと、花が咲くように紫苑の顔がほころぶ。本当に美しい笑顔だった。

こんな笑顔を見せられて、柊が紫苑のことを好きになってしまったらどうしようかと焦りながら柊を盗み見たが、その心配は杞憂だった。柊は紫苑からもらったノートを熱心に読み込んでいる。

 

 念願の“4人でご飯“に言ったその日、紫苑が自分から意思疎通を図ったのは、結局ノートを渡す時の筆談一回のみだった。ただ、俺たちの話に相槌を打ったり、一緒に笑ったりしてくれていたので、最初よりはかなり気を許してくれるようになったといえる。こうやって少しずつ一緒にいる時間を増やしていけば、栞奈のように俺や柊にも声を聴かせてくれるようになるのだろうか。そうなるまでにはもう一波乱あることを、この時の俺はまだ知らないー。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

むしろ慈善事業がしたい @shizuku_shiono

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ