1-1. 頭から離れない
大学一年生。幼稚園からエスカレーターで上がってきた大学とはいえ、俺――本川葵は最初の講義が開かれる教室に入る時、ドキドキしていた。何せ、教室に女子がいるのは久しぶりなのである。俺が通う栄応大学は、附属の中学までは共学だが、高校は男女別学となり、大学でまた共学に戻るスタイルをとっている。部活動など、女子部と共通のものもあるので、女性に免疫がないわけではないが、何分緊張する。
教室に入り、前から3番目ぐらいの席に腰を下ろした。大学は大抵、自由席である。ここは各自が選択した第二外国語のクラス。俺が所属する経済学部では、中国語、スペイン語、フランス語、ドイツ語の4か国語の中から1つ選択する必要があった。英語もろくに喋れない俺は、ヨーロッパの言葉よりは、と、唯一のアジア圏、中国語を選び、今ここに至る。
授業開始15分前。クラスには半分ほど人が集まっている。どんな人がいるのかな、と辺りを見回していると、連れ立って教室に入ってきた、スレンダーな美女と小柄なアイドル系の二人組と目が合った。綺麗な子とかわいい子だなぁと思ったのもつかの間、かわいい子の方がいきなり眼を飛ばしてくる。
「こわっ」
つい本音が漏れる。すると、前から「かわい」という声が聞こえてきた。俺は前の席にいた声の主に目をやる。
「うわっ」
またもや、驚きが声に出てしまった。前の席に座っていたのは、マンガの主人公のようなイケメンだったのである。いかにもスポーツマンといった黒褐色の焼けた肌と、意志を感じる大きく澄んだ瞳。鍛え上げているのが伝わってくるような引き締まった上半身に、座っていても分かる長い脚。コイツはモテるだろうな、と思っていると、まっすぐな目がこちらを見ていた。
「俺、緋衣 柊。よろしく」
自己紹介をしてくれているのだとわかるまでに、少々時間がかかった。緋衣という珍しい苗字と、そのあまりの爽やかさに圧倒されていたのである。
「あ、俺は本川 葵。よろしく」
「よろしく。あおいって花の葵?」
「うん、あの草冠やつ。一文字で葵」
「いいね、男女問わずいける名前。俺はヒイラギで柊。一文字」
流れるように会話が進む。コイツはコミュニケーション強者に違いない、と直感した。
「緋衣くん、外部生?」
つい聞いてしまった。栄応大学は、俺のような幼稚園からエスカレーターで上がってきた内部進学組を内部生、大学から受験して入ってきた外部進学者を外部生と呼んでいる。勝手知ったる感じを醸し出しているのは当然、年季の入った内部生である。幼稚園から通っている俺が知らない内部生は、かなり稀だ。実はこちとら、非常に顔が広いのである。
「うん、大学からだよ。って言っても陸上のスポ薦だけど」
なるほど陸上か。どうりで、この焼けっぷり、爽やか感満載なわけである。俺が独り言ちていると、「てか、柊でいいから。そっち、葵でいい?」と呼び名の確認をしてきた。別に断る理由もない。
「うん、よろしく」
俺が言うと、柊は焼けた肌によく似合う白い歯を見せて、にかっと笑った。
「ここいい?」
新しい友達が出来たのも束の間、頭上から声が飛んできた。驚いて見上げると、先程の小柄なアイドル系美少女が、俺の隣の席に立っていた。
「あ、もちろん。どぞどぞ」
俺は床に置いていたリュックを、気持ちこちらに寄せながら言った。
「ありがと。紫苑、そっち座んなよ」
アイドル系美少女は、俺の隣の机に肩掛けバッグを下ろすと、柊の隣の席を顎で指しながら、後ろに隠れるようにして立っていた女性に声をかける。そこにいたのは、やはり先程のスレンダー美女だった。透き通るような白い肌につややかな長い黒髪。少しうつむきがちな様子は、ZA〇Dの坂井〇水を思わせる。こんな綺麗な人を見るのは初めてのことで、俺はまともに目を合わせられなかった。
「・・・」
スレンダー美女は押し黙ってふるふると首を振った。その席が嫌なのだろうか。爽やかイケメンの柊の隣だというのに。横目でちらりと様子を伺うと、ちょうど彼女もこちらを見ていたので、目があってしまった。彼女は恥ずかしそうに目を伏せ、隣の机の角っこをつかんで、アイドル系の方を訴えかけるように見つめている。
「何、隣恥ずかしいの?じゃあいいよ、こっちにしな」
スレンダー女子は何も言葉を発していないのだが、アイドル系は何かを察したようだ。自分は柊の隣に座り直し、スレンダー美女に俺の隣を譲る。ペコリと頭を下げて、俺の横に座った彼女は、革のカバンから筆記用具と教科書を取り出した。
授業開始を知らせるチャイムが鳴った。高校まででおなじみの、キーンコーンカーンコーンとは違う。なんだか不思議な感覚のするチャイムだった。鳴り終わると、同時に中国語の教授が入ってきて、今この教室にいる人達が、必修の授業を一緒に受けるクラスメイトであること、この教授がクラス担任であることが告げられた。その後は自己紹介や、この一年でどんなことを学ぶのか、単位についてなど、オリエンテーション的な話ばかりが続き、1時間ほど経ったところで、解散となった。大学の講義は1コマ90分なので、次の授業まで30分ほど余裕がある。どうしようかと思っていると、前の席の柊がこちらを振り返った。
「葵、次って必修のマクロ経済学だよね?」
「うん、この隣の棟にある大教室だね」
入学式翌日に配られたシラバスを見て、教室を確認する。隣の棟なら、移動に5分もかからない。授業と授業の間には15分間の休憩があるから、俺たちは40分以上暇ということである。
「暇だね、昼飯にはまだ早いしな」
柊はちらりと時計を見た後、隣にいたアイドル系女子の方に向き直った。
「名前、たつなみさんって言ってたよね?俺、緋衣 柊。よろしくね」
流れるように隣の女子に話しかけるとは、流石はコミュニケーション強者である。しかも、先ほどの自己紹介で名前を覚えていたようだ。
「うん、立浪栞奈。栞奈って呼んで、苗字呼びされるの嫌いだから」
アイドル系は、アイドルとは程遠いサバサバした自己紹介をした。しかし、名前で呼べとは。これは俺にも言ってるのだろうか。それとも、柊だけに言ったのだろうか。答えを求めるように、隣の清楚系美女の様子を伺うと、彼女もじっとこちらを見ていた。
「っつ」
つい、声が出てしまう。透き通るような美女に、澄んだ漆黒の瞳で見つめられると身動きが取れない。世の中にこんなに綺麗な人がいたとは、全く驚くべきことである。
「この子は、上月 紫苑。私の高校時代からの友達。数少ない都立高校出身。紫苑って呼んだげて」
俺が考え事をしている間に、アイドル系改め立浪栞奈が、スレンダー美女の自己紹介をしてくれた。上月紫苑。うまく言えないけど、上品で柔らかな印象を与えるその名は、彼女にぴったりだ。彼女は、俺と柊を見て、ペコリと頭を下げる。何かしゃべるかと待っていたが、彼女は一向に口を開く気配がない。なるほど、これはもう俺のターンのようだ。
「俺は、本川 葵。名前で呼ばれることが多いから、葵って呼んでもらえたらうれしい。よろしくね」
俺の自己紹介には、三者三様の答えが返ってきた。
「よろしく、葵」と柊。
「よろしく、本川くん」と栞奈。
「・・・」と何も言わずに頭を下げたのが、スレンダー美女、上月紫苑である。
ペコリとはしたものの、全く口は開かない。そう言えば、先ほどのクラス全体での自己紹介の時も、驚くほど小さな声で一言二言話し、すぐに着席していたのを思い出す。隣の俺が耳をそばだてて聞いても、名前すら聞き取れないレベルだった。相当な人見知りか、大人しい性格なのだろう。
「みんな、もうサークルとか決めた?俺はスポ薦だから陸上部確定だけど」
絶妙な沈黙を打ち破るように、柊が話題を振った。なるほど、たいていの大学生はサークルに入るので、会話の糸口には良い話題である。しかしーー。
「フットサルサークルに入るよ」と言った俺以外、話題の広がらない返事であった。
「バイト」と言ったのは、栞奈。
「・・・」相変わらず沈黙なのが、紫苑である。
「あー、栞奈ちゃんバイト?サークルは1つも入らないのー?」
柊が沈黙を埋めるように、栞奈に話を振る。
「うん、お金稼ぎたいから」
何故お金を稼ぎたいのかは、教えてくれなかった。気になるが、話題的に突っ込みづらい。柊もそう判断したのか、「そっかー」とだけ言って、深追いしなかった。今日初めて会ったばかりだが、空気の読める男である。
絶妙に気まずい沈黙が流れたので、俺は気になっていたことを聞いてみる。
「そういえばさ、なんで二人、この席座ってくれたの?他にも、後ろの方の席とか空いてたじゃん?なんでだろうなって気になってて」
すると柊も、「たしかに、気になる!」と乗ってくる。一応二人に聞いたつもりだったが、「あー」と口を開いたのは、やはり栞奈の方だった。
「緋衣柊くん。高校駅伝走ってたでしょ、ファンなんだよ」
栞奈の言葉に、柊が目を見開いた。
「え、俺の事知ってたの?栞奈ちゃん駅女?」
「えきじょって何?」と俺が聞くと、柊が補足してくれた。
「駅伝好きな女子だよ。三大駅伝はもちろんチェックしてて、八王子ディスタンスとかにも見に来てる若い女の子多いんだよ」
柊の言葉に、栞奈はふるふると首を振った。
「いや、私は駅伝興味ない。君のファンなのは、紫苑だよ」
3人の視線が一斉に紫苑の元に向かった。その視線を感じたのか、伏し目がちだった目をさらに伏せて、背中を丸めて小さくなっている。
この子は、柊みたいな男が好きなのかな――。俺は何故か、胸がチクリと痛むのを感じた。
「えー、紫苑ちゃん、駅伝好きなんだ。俺頑張って箱根出るから、応援してよ~」
柊が爽やかに笑うと、紫苑は少しだけ顔を上げる様にして柊の方を見た。
かわいい――。おそらく狙ってはいないのだろうが、上目遣いで見上げる格好になっている彼女は本当に可愛らしかった。
「紫苑、緋衣柊が栄応に進むって知って喜んでたんだよ。それで、2クラス合同でオリエンテーリングあった日、緋衣くんの姿見つけて、軽く泣いてたもん。だから、語学とか絶対近くの席とってやろうと思ってたんだ」
補足を加えるのは、やはり栞奈である。紫苑は顔を真っ赤に染めているが、相変わらず、一言も発しない。大好きな柊を見て、緊張しているのだろうか。俺の胸はまたズキンと痛んだ。
そのまま他愛もない話をして、俺たちは30分以上時間をつぶした。柊と栞奈はお互いを柊、栞奈と呼び捨てし合うようになり、栞奈は俺の事も本川と呼び捨てするようになった(なぜ俺だけ苗字呼びなのかは皆目見当もつかない)。
しかし、そのおしゃべりの間、紫苑が口を開くことは一度もなかった。頷いたり、首を軽く振ったりして相槌や意思表示をすることはあっても、一音たりとも声は発しなかったのである。この子はなぜ喋らないのだうか。柊のことが好きなのだろうか。今何を思っているのだろうか――。
大学を出た後も、彼女のことが頭から離れない。これが、俺の人生を大きく変えることになる、恋の始まりだった。
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