1-2. 取り付く島もない

 「葵ってさ、好きな子いるの?」

入学から3か月ほど経ったある日の昼下がり。俺は柊と学食の片隅に座ってラーメンを食べていた。柊とは語学が一緒になったあの日以来、一緒に授業を受けることが多かったのでそこそこ仲はよかったけど、恋愛の話を振られるのは初めてである。

「いきなりどうした」

俺が笑ってはぐらかすと、柊はにかっと白い歯を見せる。

「俺、好きな子できた。葵には言っておこうと思って、知り合いだし」

笑みが消えて、真剣そのものになった柊の顔を見ながら、俺は自分の心音が速くなるのを感じた。もしかして、柊の好きな人は紫苑なのだろうか。紫苑は柊の大ファンだと言っていたし、美男美女の二人はあまりにもお似合いである。だとしたら、俺は――。

「栞奈。かわいいなって思ってる」

柊がそういった時、ものすごくほっとした。全身の力が抜けて、思わず笑みがこぼれてしまう。

「そんなあからさまに安心しなくても。紫苑ちゃんじゃないよ」

柊が苦笑しながら言う。どうやら俺の恋はお見通しのようだ。

「栞奈かぁ。もう付き合ってるの?」

自分のことには触れず、聞いてみる。

すると柊は、ふっと笑って首を横に振った。

「ううん、振られっぱなし。もう二回もご飯断られた」

「柊の誘い、断るやついるんだ」

素直に驚いてしまう。高身長イケメンで陸上部のスター選手でもある柊は、学内で既にファンクラブができるほどのモテっぷりである。1年生ながら、箱根駅伝への出走も確実と言われている。

「“私は行かない。ご飯なら紫苑誘ってあげなよ、喜ぶから”って。取りつく島もないんだよ」

柊はハハハと声をあげて笑った。振られてもなお、爽やかな男である。

「まぁ、柊なら他にもチャンスあるんじゃないの?こないだもなんか、女の子に話しかけられてたじゃん」

そう、つい先日、俺と一緒に受けていた授業の帰り、柊は女子二人組に連絡先を聞かれていた。俺は気を利かせて、そそくさと立ち去ったのだが、その子たちとはうまくいかなかったのだろうか。

「ないよ。こないだのは断った。栞奈のこと気になってるのに、他の子とデートするの違うだろ」

柊の意志の強そうな目がこちらを見ていた。見た目もさることながら、中身までイケメンな男である。

「そんなに好きなのか、まぁかわいいもんな」

性格きついけど、とは言わないでおいた。かわいいの前に顔は、とつけるのもやめておいた。我ながらナイス判断だ、と独りごちていると、柊が慌てたように言う。

「え、葵も栞奈のこと好きなの?葵はてっきり紫苑ちゃん派かと思ってた」

「いや、俺栞奈のこと好きじゃない。あ、嫌いじゃないけど、そういう好きじゃないよ」

俺は全力で否定した。俺が栞奈を好きだなんてありえない。栞奈は初めて出会ったあの日からこの方、なぜかずっと俺には当たりが強いのである。他の人にも、たいして人当たりが良い方ではないようだが、俺に対しては特に酷い。この間も、“人生イージーモード君”という嬉しくもないあだ名をつけてきたぐらいである。まったく、なんなのだろうか。

「よかった、やっぱ紫苑ちゃん派なんだ」

柊はまた笑った。どうやら、もう言い逃れはできないようである。

「紫苑のことは気になってる。いまだに一回も喋ってくれないぐらい、脈なしだけど」

「やっぱな、俺ら片想い仲間だな。頑張ろーぜ、葵!」

「おっ、おう」

柊は相変わらず爽やかに笑って、「今度4人でご飯行こうぜ、日程調整するから」と言い残し、次の授業へと向かっていった。次の授業もなく、特に用事もない俺は、その背中をぼーっと見つめながら見送る。柊が栞奈を好きなのには驚いたが、柊の好きな人が紫苑ではなかったことに、これほど安心している自分にはより一層びっくりした。これは流石に認めざるを得ない。俺は紫苑に恋をしているようだ――。


「よっ、お待たせ」

栞奈がいつもの軽い調子で近づいてくる。ここは栄応大学近くのファミレス。今日、俺と柊と栞奈は3人で会うことになっていた。一足早く着いた俺と柊は、談笑しながら栞奈の到着を待っていたのである。

「お疲れ、バイト帰りだよね。こっちどうぞ」

柊はそう言って立ち上がり、俺の隣の席に移る。自分が座っていたドリンクバーに近い方のソファ席に栞奈を座らせるあたり、相変わらずスマートなできる男である。

「ありがと。あ、本川ごめんね、紫苑連れてこれなくて」

珍しく栞奈が殊勝な態度で謝るので、いやいや、別に栞奈の所為じゃないから、と言いかけてはっとする。

「え、なんで俺だけに謝るの」

「好きなんでしょ、紫苑のこと。バレバレ」

「っつ」

栞奈にもお見通しだったようだ。たしかに、この3か月、俺は講義で会う度、紫苑に声をかけ続けていた。まだ言葉を返してもらえたことはないけれど、最近ではYes No疑問文であれば、意志疎通は図れている。これは、実に大きな進歩である。

「紫苑ちゃん、今日用事あったの?バイトとかだっけ?」

俺が押し黙っていると、柊が沈黙を埋めるアシストをくれた。本当に気が利く男である。

「いや、今日はクリニックの日だって」

「「クリニック?」」

 俺と柊の声が重なる。紫苑はどこか悪いのだろうか。まさか、病気で余命宣告されているとかー。

思考が悪い方にばかり働くのを止めきれないまま、栞奈の二の句を待つ。

「紫苑にも許可とったから言うけど、紫苑って場面緘黙なんだよね。それの治療っていうか、行動療法?で定期的にクリニック通ってるみたい」

「ばめんかんもく?」

俺がオウム返しをして横を見ると、隣の柊が口を開いた。

「あの、緊張とかで声でなくなっちゃうやつ?小学校の時、クラスにそういう子いたような」

場面緘黙という言葉を聞いてもピンと来なかった俺も、柊の話を聞いてなんとなく思い当たった。たしかに、俺が小学校低学年の時のクラスメイトにも、先生にあてられた時に固まってしまう女の子がいた気がする。特定の子としか話さないので、その子が喋っているのを見た覚えがほとんどなかった。だけど、高学年になってその子と同じクラスになった時には、普通喋れるようになって、ただ大人しいだけの子になっていたと思うのだが。

「そういうのって、小さい子だけじゃないんだな」

俺が言うと、栞奈が「うーん」と微妙な返事をする。

「私は専門家じゃないから詳しいことはわからないけど、紫苑は高校の時もほとんど話してなかったよ。私以外友達いなさそうだったし」

「そういえば、紫苑ちゃんと栞奈はなんで仲良くなったの?だいぶタイプ違うけど」

俺が聞きたいと思っていたことを、柊が聞いた。

「昼休み図書室で本借りてたら、声かけられたの。私ビジネス書ばっかり借りてたから、気になってたんだと思う。紫苑、図書委員だったからね」

「紫苑から栞奈に声かけたの?なんて?」

つい、食い気味に聞いてしまう。紫苑が喋るというだけでも信じがたいことなのに、自分からだれかに話しかけるなんて。にわかには信じがたい。

「立浪栞奈さんですよね、放課後少し話せますかって」

「なんか、職質みたいだな」

俺が言うと、「相〇に出てくる捜査一課の人が言ってそう」と柊が笑った。

「ね、それで放課後ちょっとドキドキしながら図書室行ってみたら、私が読んでたビジネス書について教えてほしいって、蚊の鳴くような声で言われたの。そこから、連絡先交換してLI〇Eしたり、図書館で話したりして、だんだん仲良くなった」

栞奈は口角を少しだけあげて笑った。出会ってまだ3か月しか経っていないけれど、紫苑と栞奈は本当に仲が良いのだとわかる。きっと、良い思い出なのだろう。

俺が羨ましいなぁなんて呑気に考えていると、栞奈がポツリと言った。

「それからずっと紫苑の通訳してる、本当はあんまりよくないみたいなんだけど」

栞奈はぼんやりと、どこか遠くを見ている。

なんと声をかけていいのか分からずに隣を伺うと、柊は意外にもバッサリと言った。

「紫苑ちゃんの言いたいこと、栞奈が代わりに言ってあげてるもんね」

「うん、良くないね」

栞奈は分かってる、と言わんばかりに頷いた。

「場面緘黙って、何が原因なの?治る子もいるみたいだけど、紫苑ちゃんみたいに大学まで続いてる子もいるのって何の違い?」

またもや、俺が聞こうと思っていたことを柊が聞いた。

「緘黙の原因って、まだ研究段階らしくて、はっきりしたことはよくわからないんだって。でも、紫苑の場合は不安になりやすい気質が原因なんじゃないかって、紫苑のお母さんが言ってた」

不安になりやすい気質。聞きなじみのある言葉ではないけど、紫苑のイメージとはなんとなく一致する。まだ出会って数か月だけど、紫苑はいつも怯えているような気がした。最初は自分が怖がられているだけなのかとも思ったけど、栞奈以外のすべての人に対して、紫苑は同じような態度をとっている。

「でも紫苑、栞奈の前では喋るし、怯えてるってわけじゃないんだろ?」

俺が聞くと、栞奈はうん、と頷く。

「今ではね。でも、会ったばっかりの頃は、やっぱりちょっと怯えた感じだったかも。コイツ、自分から話しかけてきたのになんなんだーって思ったもん」

栞奈は懐かしそうに笑った。人と話すことに恐怖を感じているはずの紫苑が、自分に一生懸命話しかけてくれて、心を開いてくれているのが嬉しかったのだろう。俺が呑気にいいなぁと思っていると、柊が真面目な顔で言った。

「紫苑ちゃん、最初は栞奈がいると心強かったんだろうけどさ、だんだん栞奈がいると楽、になってきてるんじゃない?」

栞奈の肩がピクリと震えた。柊の一言は図星だったのだろう。このイケメンは、時折爽やかに核心をつく。

「最近は特にそうだね」

栞奈は静かに認めた。そして、訥々と言葉を紡ぐ。

「最初の頃は、私と話すこと自体もチャレンジだったんだと思うの、あの子にとって。喋ったことない人に話しかけるのって勇気いるじゃん。普通に、誰でもさ。だから、緘黙の症状がある紫苑にとっては、もう本当に、ほんっとうに、勇気出してくれたんだと思うのね」

「「うん」」

俺と柊がどちらからともなく頷いた。口をはさむことはしない。栞奈の話を聞きたいと思った。隣の柊も同じ気持ちのようだ。

「だけどね、大学入ってから痛感してる。紫苑、勇気出さなくなってる。話さなくなってる。私がそれでも大丈夫な状況を作っちゃってるんだよ」

これじゃ紫苑のお母さんとおんなじ、と栞奈は続けた。

「紫苑のお母さん?」

俺がたまらず聞き返す。柊は隣でじっと栞奈の目を見つめていた。

「紫苑のお母さんも、紫苑の通訳やってたみたい。紫苑が話さないから、先回りして色々言っちゃったり、やっちゃったりするんだって。紫苑、自分から話しかけた友達は私が初めてって言ってた。幼稚園も小学校も中学校も、お母さんが、一緒に遊んで、通訳してくれるともだち、見つけてくれてたって」

栞奈がふうっと溜息をつく。皆まで言わずとも、栞奈の言わんとすることはわかった。

「中学までは母親にやってもらってたけど、高校生になって流石に母親にやってもらうことはできなくなった。だから頑張って自分の力で友達を作った。そこまではよかったけど、紫苑ちゃんの場合、お母さんが栞奈に変わっただけになっちゃったんだね」

それまで黙っていた柊が、さらりと言った。まっすぐな目で栞奈を見つめている。

「うん」

栞奈は柊から目をそらしつつ頷いた。誰も二の句を継がず、しばしの沈黙が流れる。その沈黙を破ったのは栞奈だった。

「私、紫苑の通訳辞める。だから、二人も直接紫苑と話してね」

先程とは打って変わって、吹っ切れたかのような声だった。栞奈の顔も、心なしか明るく見える。

「おっけい」

柊もいつもの笑顔でにこりと笑った。

「じゃあ今度紫苑をご飯に誘ってみようかな」

俺が続けてつぶやくと、それは玉砕しちゃえ、と栞奈に鼻で笑われた。

俺と栞奈がやいのやいのと言い合っていると、柊が今度4人で行こうよ、と笑いながら窘める。

紫苑が心を開いてくれるようになるのは、ずっとずっと先のことになるのを、この時の俺はまだ知らない――。

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