マザコン無双 ~相思相愛親子の異世界世直し珍道中~
宵闇汁粉
第1話 ボクとママの、ありふれた日常
アスファルトを叩く雨音が、世界から他の音を消していく。
湿った空気が制服にまとわりつく帰り道。
普通なら憂鬱になるだけの今日の天気も、ボクにとっては心躍るBGMだ。
だって、あの温かい場所が、あの人が、ボクを待っているから。
「おかえりなさい、ゆうくん♡」
思った通り、玄関のドアを開けるより先に、甘く優しい声がボクを迎える。
ドアノブに手をかけた瞬間にはもう、待ちきれないといった様子のママが、とびきりの笑顔でボクに手招きしていた。
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その引力には逆らえない。吸い寄せられるように玄関を跨いだ途端、ふわりとシャンプーの優しい香りに包まれ、ボクはママの柔らかくて温かい腕の中にいた。
「あーーん♡ゆうくんに一日会えなくてママ寂しかったー♡大丈夫?濡れなかった?ママがチェックしてあげるね♡」
傘から滴り落ちる雫で、ママのお気に入りのセーターを濡らすわけにはいかない。ボクは慌てて傘を畳んで隅に置く。
ママはそんなボクの背中や髪を、まるで宝物に触れるかのように優しくぺたぺたと触って、濡れていないか入念に確認してくれる。
その過剰なくらいの心配が、ボクの心をじんわりと満たしていく。
「あらあら、お靴が濡れちゃってるねぇ、たいへん」
ママにうながされるまま、玄関の小さな椅子にちょこんと腰かける。
するとママは、なんのためらいもなくボクの前に跪き、濡れて冷たくなった靴下をそっと脱がせてくれた。
温かいタオルで指の一本一本まで丁寧に拭かれる、くすぐったくて心地よい感触。
そして、ふかふかのスリッパが、ボクの足を優しく包み込んだ。
その完璧すぎる愛情を一身に受けながら。
ふと、クラスメイトたちの何気ない会話を思い出し、ボクの顔が一瞬、曇った。
「ゆうくん?」
ママは、ボクのほんの些細な変化も見逃さない。
「ううん、なんでもない……」
ボクは誤魔化すように笑って、その棘を心の奥に押し込んだ。
「さ、ごはんの用意ができてるわよ♡」
ママはボクの手を取り、まるで大切な宝物をエスコートするように、ダイニングへと向かう。
テーブルの上には、ボクが帰ってくる時間に合わせて完璧に準備された、湯気の立つ豪華な和食が並んでいた。
鰹出汁の香りが鼻腔をくすぐるお味噌汁。
箸でつつくだけで崩れそうなほどトロトロに煮込まれた豚の角煮。
そして今朝、市場で仕入れた新鮮な魚を自ら捌いたという、包丁の冴えが伝わってくる美しいお刺身。
その一品一品から、ママの愛情が溢れ出しているのがわかった。
「はい、ゆうくん、あ〜ん♡」
ママはホロホロになった角煮を箸でつまみ、ふーふーと息を吹きかけてから、ボクの口元へと運んでくれる。
ボクがそれを素直に口にすると、「おいしい?」と、心の底から嬉しそうな、花が綻ぶような笑顔を向けた。
ボクの口元についた甘辛いタレを、ママが指で優しく拭ってくれる。
そして、その指を悪戯っぽくぺろりと舐めるママの仕草に、ボクの心臓が甘く跳ねた。
だけど、心の奥に刺さった棘が時々ちくりと痛み、浮かない顔をしてしまうボクに、ママは不安そうに眉を寄せた。
「……おいしくなかった?」
「ううん、すっごくおいしいよ。でも……」
ボクは、勇気を出して、ずっと胸の中で燻っていた気がかりを告げることにした。
「クラスのみんなの話だとね、普通の家庭のママは靴下の履き替えもしてくれないし、ごはんもあ〜ん♡ってしてくれないし、お風呂も一緒に入ってくれないし、お着替えも自分でするし、着るものも自分で選ぶし、……添い寝して子守唄も歌ってくれないんだって」
ボクは深刻な表情で、ママの潤んだ瞳を見つめた。
「ボクって……もしかして……マザコンってやつ、なのかなあ?」
ボクの言葉を聞いたママは、一瞬きょとんと目を丸くして──たまらないといった様子で、クスクスと喉を鳴らした。
その笑い声は、ボクの不安を馬鹿にするものではなく、愛おしさで胸がいっぱいになった時の、優しい音色だった。
「ふふっ、なあに?そんなことで悩んでたのね、ゆうくんは」
「だって……」
「それはね、そのご家庭のママの愛情が足りなかっただけなのよ♡」
「えっ」
予想外の答えに、ボクは思わず聞き返す。
「子供のお世話はね、とっても大変なの。だから普通の家庭は、赤ちゃんの時にはたくさんお世話するけど、子供が成長するにしたがって、どうしてもお世話の量を減らしていくのよ。年々成長していく子供の活力に、ママの体力と愛情が追い付かなくなっちゃうから」
「じゃあ、ボクのママが、今でもこんなにお世話してくれるのは……」
ママはボクの両頬を優しく包み込み、この世界のどんな真実よりも確かな声で、宣言した。
「それはね!ママのゆうくんへの愛情が、ゆうくんが産まれた時から今までずーっと、一瞬も欠けることなく満タンフルバーストだからよ!!」
その言葉は、まるで魔法だった。ボクの心の中に立ち込めていた暗い靄が、一瞬で光に変わっていく。
「ボク、愛されてた!」
「そうよゆうくん!だから悩むことなんてないの!むしろ、こんなにママに愛されていることを、みんなに自慢すべきなのよ!」
「そうだ……その通りだよ、ママ!ボクはいったい何を悩んでたんだ。ママ、大好き!愛してる!ボク、ママの息子で本当によかった!」
「ゆうくん♡」
「ママ♡」
ボクたちは見つめ合い、お互いの愛を確認する。
もう、何も怖くない。外で降りしきる雨音さえも、理想の親子を祝福する優しいBGMのように聞こえた。
「さあ、冷めないうちに食べましょうね。ゆうくんの大好きなお刺身も……あら?」
お醤油の小皿を用意しようとしたママが、可愛らしく小首を傾げた。
「……たいへん!お醤油、切らしちゃった!」
最高のゆうくんに、最高のお刺身を食べさせてあげられないなんて!と本気で悔しがるママ。
ボクはそんなママが愛おしくてたまらなかった。激しい雨の中、一人で買いに行こうとするママの細い腕を、ボクは慌てて引き留める。
「ママだけを行かせるもんか。ボクも一緒に行くよ!」
ボクのその一言に、ママの潤んだ瞳が、驚いたように大きく見開かれた。
次の瞬間、その瞳は嬉しそうに細められ、まるで宝物を見つけたみたいにキラキラと輝き出す。
「ゆうくん……なんて良い子に育ったのかしら!ママ、感激だわ♡」
ママはそう言って、ボクが羽織った上着の襟を、愛おしそうに何度も撫でては直してくれた。
その指先から伝わってくる熱に、ボクの胸の奥がじんわりと温かくなる。
ボクが玄関で大きな傘を広げると、ママは小さな子供みたいに、こくりと頷いてボクの腕に自分の腕を絡ませてきた。
一歩外へ出ると、冷たい夜気が肌を刺し、叩きつけるような雨音が世界を支配していた。
でも、すぐに隣に寄り添ったママの体温が、その寒さを優しく溶かしていく。
一本の傘の下は、まるで世界から切り離された、ボクたち二人だけの小さな聖域だった。
街灯の光が雨粒に乱反射して、まるで銀色のカーテンがボクたちを俗世から隠してくれているみたいだ。
傘を持つボクの右肩が濡れるのも構わずに、ママが濡れないように、そっと傘を傾ける。
それに気づいたママが「もう、ゆうくんったら。風邪ひいちゃうでしょ」と甘く咎めるけれど、その声は蜂蜜みたいにトロトロに甘くて、幸せの色をしていた。
身体を寄せあって、二人でぴったりとくっつきながら歩く。
この道が、どこまでもどこまでも続いていて、このまま二人きりで夜に溶けてしまえたらいいのに。
そんな非現実的な願いが、胸の奥から湧き上がってくる。
スーパーの明かりが見えてきたとき、ママがボクの顔を幸せそうに見上げて、悪戯っぽく微笑んだ。
「帰ったら、一緒にお風呂に入りましょうね♡」
「うん、ママ♡」
その甘い約束が、ボクたちの世界のすべてだった。
――夜の闇を切り裂く二つのヘッドライトと、耳をつんざくけたたましいクラクションが、ボクたちのすべてを奪いに来るまでは。
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