第35話 欠けた器
ノアの病状は、季節をひとつ越えるたびに確実に崩れていった。
腕に刺さる管の数は増え、肌の下を流れる血管は、もはや生命の通路というよりも薬液を運ぶ冷たい配線のようだった。点滴袋の中で揺れる液体は透明から黄味を帯びた色へと変わり、やがて沈殿した影を底に溜める。
まるで、家族の希望を一滴ずつ溶かし、体内から外へとゆっくり吸い出していく装置のようだった。
白い壁は日に日に色を失い、蛍光灯の光に焼かれて乾いた紙のように見えた。壁際に吊るされたモニターが時折、短く鳴る。生命を測るその電子音が、いつの間にか家族の会話を完全に奪っていた。
テーブルの上には、未払いの請求書が雪の層のように重なっていく。紙の端は手汗でわずかに波打ち、数字の列が滲んで見える。ページをめくる音が、呼吸よりも大きく響く。
誰もがその音を聞くたび、心臓のどこかがひとつ萎んでいくようだった。
家の中の匂いも変わった。かつては朝に焼いたパンの香りや、雨の日に煮込んだスープの湯気があった。今はただ、消毒液の刺すような臭気と、薬の粉末が湿気に溶けた鈍い苦味、冷めきった粥の酸味。時おり、それらの匂いに焦げたスープの残り香が混じる。
生活が病室に侵食され、家の隅々にまで医療の死臭が染みついていた。
そんな家庭の空気をさらに凍らせる存在――父方の祖母。
彼女が食卓につくと、部屋の温度が物理的に数度、急速に降下する気がした。食器が触れ合う乾いた音が、家族の沈黙をさらに研ぎ澄ませていく。
「その体にいくら金を注ぎ込むつもりだ」
祖母の声は、研ぎ澄まされた氷の刃を互いに擦り合わせたように硬質だった。
茶碗を置く音が、まるでノアの存在を「切り捨てる」という冷酷な宣告の鐘のように響いた。
「ノアはあんたの孫だろう!」
父の声は裂けるように高く、しかし深い哀しみを孕んで震えていた。祖母はその叫びに眉ひとつ動かさず、ただ無表情に薄い唇を歪めた。
「孫だと? あんなものはただの負担だ。欠けた器に何を注いでも、水は溢れるだけ。無価値なものを延命させるために、まともな命まで潰す気かね」
その残酷で正確な言葉が投げつけられた瞬間、ノアの胸の奥で、何かが永久に閉じる小さな音がした。
それは「自分は愛されてはいけない、この世界にとって自分は欠陥品だ」という、初めての、冷たい確信だった。
母は震える手でノアの頭を、まるで壊れものを抱くように、しかし確かに――痛いほどの力で抱き寄せた。
その腕の中で、彼女の指先は小刻みに震えていた。怒りと哀しみがないまぜになり、体の奥から滲み出るように。頬に落ちた母の涙が、ノアの髪を濡らし、首筋を伝って冷たく流れていく。
「この子は私たちの大切な息子です。命を価値で測るようなことは言わないで」
涙で曇った瞳の奥に、必死に最後の灯を保とうとする、痛々しい意志が見えた。
だが祖母は、そんな感情を「無駄な狂信」とでも言いたげに、鼻で笑った。
「愛情で病が治るとでも? 夢のようなことを」
テーブルに叩きつけられた封筒は、上質な紙に金色のエンブレムを光らせていた。それはまるで救いを装った悪魔の契約書のようだった。
「裏の研究所からの話だ。あの子の身体は、最先端の研究において実験体としてなら価値がある」
母の悲鳴が響いたが、祖母の言葉の刃は止まらなかった。彼女の言葉は、家族の絆という脆い糸を一本一本、冷静に断ち切っていく。
「愛で腹は膨れない。金でしか人は救えないのさ。延命を望むなら、その肉体を対価と差し出すべきだ」
その声には、長年の現実に削られた人間の乾いた音と、自己保存のための、一切の感情を持たない、冷酷な論理が混じっていた。
ノアはその夜、自室の隅に腰を下ろし、壁に映る自分の影をぼんやりと見つめていた。
ランプの光が揺れるたびに、影は歪んで伸び、やがて獣のように蠢いた。まるで、家の中に渦巻く醜悪な感情が形を取って這い寄ってくるかのようだった。
階下からは、祖母と両親の怒鳴り声が途切れることなく響いていた。もはや「会話」ではなかった。
ぶつかり合う陶器の音、椅子の軋み、泣き叫ぶ母の声、何かが倒れる音。
それらが混ざり合い、言葉という形を失った獣の咆哮となって階段を這い上がってくる。
「欠陥品」
「金食い虫」
「生きてる価値なんてない」
その一つひとつが、冷えた刃物のようにノアの内側に突き刺さった。心臓の鼓動が一瞬遅れて反応し、痛みが波のように胸に広がる。
呼吸をするたびに肺が焼けつく。酸素ではなく灰を吸い込んでいるようだった。
耳を塞いでも、声は骨を伝って響く。
そのたびにノアは、世界のあらゆる音が自分の存在を否定しているように思えた。冷たい床は石のように硬く冷えていて、まるでこの部屋そのものが彼を棺の中に閉じ込めようとしているようだった。
窓の外には月があった。
銀色の光が静かに降りて、ノアの頬を照らしている。けれどその光さえ、彼には冷たく感じられた。「綺麗だな」と思う前に、
――自分の存在がこの光を汚してしまう、と考えてしまった。
ノアは無意識に体が動くまま、部屋を抜け出した。裏口の玄関で靴を履く。
冬の夜の空気は刺すように冷たいが、家庭の熱を持った修羅場よりずっとマシだった。
ノアが向かった先は、街の灯りがかろうじて届く、小さな丘の上にある草原だ。彼はただ、家から最も遠い、空の下に立ちたかった。
同じ時刻、街の中でも一際大きく、権力者の邸宅に近い造りの家。
イザナは窓辺に腰を下ろしていた。薄暗いランプの光の下、膝の上には開かれた本。だが視線は一行も文字を追ってはいない。
窓の外に広がるのは、雪を孕んだ雲が垂れ込める、沈黙した町の夜。街灯の光が湿った空気にぼやけ、どの家の窓も氷のように閉ざされている。その中で、ひとつだけ——ノアの家の灯りだけが、不自然に明滅していた。
ガラス越しに伝わるような、刺すような気配。
罵声の余韻が夜気を震わせ、イザナの耳には、まるで壁の向こうの血管を流れる鼓動のように響いていた。それは音というよりも、波動。怒りと絶望がぶつかり合い、歪んだエネルギーとなって、家そのものを軋ませていた。
イザナは静かに本を閉じる。
ページの間から立ち上る微かな紙の匂いが、血の匂いのように錯覚されるほど、部屋の空気は冷たく張り詰めていた。
ふと、視界の端で動くものがあった。
ノアの家の裏口がわずかに開き、夜の闇の中へ、小さな影が飛び出してくる。その動きは必死で、無音だった。
凍てついた空気を裂きながら、ノアは薄いコートの裾を翻して駆けていく。雪が降り始めたわけでもないのに、彼の吐く白い息が、まるで粉雪のように淡く舞い散った。
イザナの瞳が、一瞬だけ見開かれた。彼の冷たい理性が崩れる。
(俺の光が、手の届かない場所へ消えるつもりか?)
ノアの安全を脅かす、あらゆる可能性がイザナの頭脳を駆け巡った。風邪、事故、誘拐。そして何よりも、ノアが自分の手の届かない場所へ行ってしまうという強烈な恐れ。
イザナは持っていた本を音もなく床に落とし、部屋を飛び出した。
イザナが玄関に急いだ時、彼の両親が慌てて彼を止めようとした。
「イザナ、どこへ行くの! こんな夜中に! 何かあったの?」
母の声は心配に満ちていた。両親にとって、イザナは自分たちの希望であり、かけがえのない息子だ。
「ノアくんの家で何かあったのか? あの子は病弱なんだから、早く帰りなさいって伝えようか?」
父も腕を掴んだ。彼らは幼馴染のノアのことも、可愛がっていた。
イザナはその手を、まるで自分の衝動を理解できないという苛立ちで振り払った。
「邪魔。俺が行かなきゃ、ノアはどこかに消えちゃうんだよ」
イザナの鋭い眼差しはノアの家の方向だけを捉えていた。両親はノアを可愛い子だと思っていたが、イザナの感情の深さ、ノアという存在がイザナにとってどれほどの特別な意味を持っているのか、理解できなかった。
「イザナ! 戻ってきなさい!」
母の絶叫が背中に浴びせられるが、イザナは躊躇なく玄関の扉を開き、夜の闇へと飛び出していった。
彼の瞳はただ、ノアの小さな影を捉えることだけに焦点を絞っていた。
ノアを失うこと、それこそがイザナの世界にとって唯一の破滅だった。
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