第18話 冷たい報せ
ノアの体温、ノアの匂い、ノアの脆さ
――そのすべてが、イザナにとって生きる理由であり、世界の中心だった。
ノアの小さな命が息づくたびに、世界が呼吸をする。ノアの笑みが浮かぶたびに、イザナにとっての太陽が昇った。
ノアという存在こそが、イザナの宇宙そのものだった。
だが――その宇宙は、予告もなく、音もなく崩壊する。
季節は夏の熱を完全に脱ぎ捨て、冬の冷気が街路の端を白い吐息で覆い始めた夕刻。
ノアの家にいつものように足を踏み入れたイザナは、玄関先で背筋に走る異様な違和感を感じた。普段なら弾けるように響くはずのノアの声は微塵もなく、家の中の空気は、凍りついた死の前触れのように静まり返っていた。
蝋燭の炎すら、まるで恐怖に怯えるかのように小刻みに震えて揺れている。
ノアの母は、煮詰めたスープの中で色を失った野菜のように、顔全体が青白く沈み込んでいた。人の形を保つ皮膚の下では、命の熱がすっかり抜け落ち、骨格だけが形を支えているかのようだった。
その目は溢れる涙で膜が張り付いたように濁り、まるで腐りかけの果実に潜む黒い水のように、どんよりと濁っていた。
唇は小刻みに震え、乾ききった小麦粉に水を垂らしたかのように、意志とは無関係に動きを繰り返す。
世界を奪われた絶望が、肉体の隅々に染み渡り、皮膚の柔らかさまで重たく歪ませていた。彼女の存在は、もはやただの空洞――かつては愛と命を宿していた器が、絶望の重みでぎしぎしと軋む残響そのものだった。
「……イザナ君……ノアは……ノアは、もう、ここにはいないの」
その言葉が空気を切り裂いた瞬間、イザナの世界の色が音を立てて剥がれ落ちた。
イザナの耳鳴りが、外界のすべての音を飲み込む。目の前の景色はまだ同じはずなのに、もう何も現実ではなかった。
「――何を、言ってる?」
声が掠れて出ない。息を吸うたび、冷たい空気が肺を焼く。
「ノアはどこにいる! どこに行ったんだ!」
ノアの母は嗚咽しながら、言葉をつなげようとする。しかしその口からは、謝罪と涙しか零れなかった。
代わりに、奥から現れたイザナの母が、重く沈んだ声で最後の事実を告げた。
「イザナ……ノア君は、売られたのよ」
売られた
――そのたった四文字に込められた忌まわしい意味を、イザナの理性が理解を試みるより先に、彼の体が勝手に制御を失い、激しく震えだした。それは、氷点下の温度に晒されたかのような生理的な痙攣だった。
鼓動は耳鳴りとなり、心臓はまるで体内で爆発寸前の時限装置のように猛烈に脈打つ。
全身を巡る血は魂を焼くように熱く変質し、頭の奥で二人の秘密の教会の鐘が、警告でも祝福でもなく、狂った断末魔のように鳴り響く。あのステンドグラスの光に満ちた永遠の午後は、まるで脆い偶像のように無惨に、粉々に引き裂かれていく。イザナの宇宙は、一瞬にして真空の闇と化した。
ノアの祖母が金を得るためにノアを研究機関へと引き渡したという。理由はただ一つ――
「病弱で役に立たない。だが頭が良いから、金になる」
その冷酷な論理を耳にした瞬間、イザナの中で何かが完全に壊れた。体の芯を通る血が冷たい金属へと変質していく。
この世の誰も、もう信用できなかった。この世界がノアを奪い、商品として扱うのなら、世界そのものを焼き払い、再構築するしかない。
「……ノアを、返せ」
それは誰に向けた言葉でもない。
神への祈りでも悪魔への叫びでもなく――世界に対する、イザナ自身の宣告だった。
その夜、空はすべての感情を投げ捨てたかのように無表情で沈黙し、白く鋭い雪を世界の隅々にまで降らせた。
静寂はただの静けさではなく、あらゆる音も思考も吸い込み、存在を痺れさせる漆黒の闇のようだった。
イザナはその中で、ゆっくりと、しかし逃げ場のない確実さで、一歩一歩を踏み出した。
踏みしめる雪は乾いた砂糖菓子が粉々に砕ける音のように、耳の奥でざらついた感触を残す。冷気は鼻腔と喉を突き刺し、湿った紙を無理やり裂くように痛みを伴って入り込む。
彼の瞳はもはや人のものではなかった。氷を透かしたガラスのように透明で冷たいが、その奥底には濡れた鉄片が火の中でじわじわ赤くなるような、理性では抑えられない凶暴な熱が潜んでいた。
その熱は空気を引き裂き、まるで果実を踏み潰したときに立ち上る酸味とねばつく香りのように、周囲を不快な緊張で満たす。
世界のどこにも向けられない復讐の衝動は、彼の身体を突き抜け、空間にざわめきを残す。
雪に残る足跡は乾いた肉片が土に沈み込むかのように、後に残る冷たく生々しい痕跡となっていた。
それは愛を奪われ、全てに裏切られた少年が抱えた、最初で最後の本能の叫びだった。
血を熱くし、理性を凍らせ、世界を震わせるその熱は、ノアの光を取り戻すための永遠に消えぬ黒い炎として、氷点下の夜に孤独に燃え盛っていた。
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