第17話 夕暮れの信仰

 ノアの家を後にするたび、イザナの心には奇妙な熱が微かな火種のように残った。


 夕暮れの街はやわらかい橙に深く染まり、まるで世界全体が溶解し始めているかのようだ。

 風に乗って石畳の上を、子どもの笑い声が遠く、現実から遠ざかっていく。玄関先でノアの母親が、まるで祈りの成就のように、深々と頭を下げた。


「イザナ君、いつもあの子と遊んでくれてありがとう。体が弱いから、迷惑かけちゃってごめんね」


 その声音は穏やかで、絹のように澄んでいた。だが、イザナの胸の奥で何かが軋む。


(……迷惑?)


 ノアと過ごす時間は、イザナにとって空気のように不可欠だった。退屈で鈍色の教室、虚無に満ちた家庭――その砂漠の中で、ただ一つ、心が確かに振動する瞬間。

 それなのに、大人たちは無邪気にノアを「弱い子」と評し、自分を「慈善の使者」として讃えた。


 彼らの善意は純粋で、何の疑念もなく行われている。だがその純粋さが、イザナには狂気の土台に見えた。

 ノアの脆弱さに寄り添うことが、自分という“優良児”の存在証明であり、自己満足の装置に過ぎない――その歪んだ論理が、幼いイザナの心に、蜜より甘く、毒より深く、静かに滴り落ちたのだ。


 幼い彼の心は、それを知らず、受け止め、吸収し、やがて己の信念の核に変えてしまった。

 善意の仮面の裏に潜む暴力性と、弱者を独占する欲望――それらが、ノアという存在をめぐる支配の萌芽となり、後の狂気の片鱗を、幼い心の奥底で育んでいったのである。


「ううん、大丈夫だよ」


 イザナは作り慣れた、完璧な笑顔でそう言って微笑む。母親は安堵の空気を漂わせ、目尻を優しく下げた。

 だがその笑顔の奥で、イザナの心臓は静かに、しかし熱烈に震え続けていた。





 ノアの母が静かに扉を閉める音。足元に伸びたイザナ自身の影は、沈みゆく橙色の陽の中で急速に長大化し、彼の幼い輪郭を飲み込んでいく。

 胸の奥で、何かが灼熱の金属のように確かに形を変え始めていた。純粋な友情という脆い核は、熱と圧力に晒され、硬質で冷徹な支配へと変質していく。


(みんな、ノアという重荷を手放す。そして、俺だけが、その壊れやすい光のそばに永遠にいられる)


 それは優しさでも同情でもない。

 優越と献身が混ざり合った、曖昧な感情。

 けれど当時のイザナには、その境界線の違いを見抜く力はなかった。



 ――ノアは脆く、だからこそ美しい。

 風に散る花びらのように繊細で、ほんのわずかな衝撃で壊れてしまいそうな存在。その守るべき対象への本能が、知らぬ間に“永遠に手中に置きたい”という歪んだ所有欲へと変容していった。


 ノアを取り巻く世界の輪郭が、一つずつ、静かに溶けていく。

 その隙間を満たすように、ノアの存在は次第に、自分だけの領域へと押し込まれ、独占される。誰も触れられない、ただひとつの真実。


 その現実は、優越と快楽、幸福と執着の境界線をあざ笑うかのように曖昧で、少年の胸に、甘く凍るような危うい確信を鉄のように刻みつけた。まるでこの世界そのものが、自らの意志でノアを閉じ込めたかのように。


「ノアを独占できるのは、俺だけだ」


 その言葉は声にならず、夕暮れの熱に溶けた。

 だが確かに、それは彼の中で狂気の第一歩となる「信仰」のように深く根を張ったのだった。











 イザナの献身は、いつの間にか、愛という暖かな概念とは完全に別のものへと変質していた。それは緩やかで透明な猛毒――「守りたい」という純粋な祈りの皮を被った、根源的な支配の欲求。


 その日も、二人は時間の概念が停止したような古い教会にいた。

 午後の陽光が色褪せたステンドグラスを通過儀礼のように透過し、虹色の光の帯となって床に荘厳に降り注ぐ。


 ノアは、その光の中心にまるで祭壇の上の偶像のように静かに腰を下ろしていた。

 白磁のような肌。うっすらと透ける、生命の脆さを示す細い血管。教会の絶対的な静寂の中で、ノアは人としての存在感を失い、神に捧げられた精霊のように見えた。

 光の粒が彼の淡い髪に降り積もるたび、その存在は少しずつ現実味を失い、掴みどころのない夢のように遠のいていく。


 イザナは思わず息を呑んだ。

 この世に、これほどまでに儚く、そして危ういものがあるのか――その美しさは、イザナの理性を軋ませるほど強烈だった。


(この輝きは、俺だけのものだ。誰にも見せない)


 胸の奥で、友情という名の脆いガラスが音を立てて砕けた。他の子どもたちが、無遠慮な好奇心でノアの弱さや繊細さに触れるたび、イザナの中で小さな嫌悪が雪崩のように膨らんでいく。

 彼らにはノアの内面の輝きも、美しさも理解できない。価値を知らずに嘲り、距離を置くたび、イザナの胸に黒く冷たい独占欲が芽吹き、静かに、しかし確実に彼を染め上げていった。


 イザナは無意識のうちに、祭壇へ向かうようにノアへと歩み寄った。ステンドグラスを通した光が、床に淡い色彩の影絵を落とす。

 その上で、イザナの影がノアの小さな体を完全に覆った。まるで、外界の汚れた視線や光から彼を遮蔽するかのように。

 虹色の光が、二人の間で閉じ込められ、息を潜めた。


 ノアが顔を上げる。柔らかな金色の瞳が、湖面の波紋のようにわずかに揺れた。

 イザナは何も言わず、ただその肩に手を置く。彼の冷たい指先が、ゆっくりとノアの体温に溶けていく。


 ――その瞬間、世界は静止した。


 陽光も、風も、祈りの声さえも遠ざかる。

 イザナは、自分が今、友情という境界線を踏み越えたことを理解していた。だが止められなかった。


「誰にも渡さない」


 その言葉は声にはならず、ただ魂の奥底で響き渡った。ノアを包み込むその仕草は、庇護のように見えて――実際には、世界に刻みつけるための、最初の支配の印だった。




 ノアはしばらく黙っていた。

 ただ、イザナの濃い影の下で、光を失った教会の冷たい空気を吸い込んでいた。外では風が窓を鳴らしている。誰の祈りも届かない、古びた神の箱庭。


 やがて、ノアは小さく息をついた。


「……イザナ?」


 掠れた声だった。不安というよりも、ただこの圧倒的な存在を確かめるような響き。

 イザナの名を呼ぶたび、ノアの瞳の奥で、淡い、理解しきれない光が瞬く。


 イザナはその声を聞きながらも、答えられなかった。指先が、ノアの華奢な肩の骨を繊細になぞる。その壊れやすい感触が、どうしようもなく現実的で――怖かった。触れてしまえば壊れる。けれど、離せば光は消え、誰かに奪われる。


(俺が、守らなきゃ……)


 そう思った刹那、「守る」という言葉の純粋な光は音もなく消滅し、深淵の闇へとどす黒く歪んだ。それはもう、天に捧げる清らかな祈りではなかった。

 世界という巨大な敵からノアを奪い取ってでも、永遠に自分の傍らに封じ込めておきたいという願望の形を成した、狂気的な所有の渇望だ。


 ノアの淡い髪が、イザナの胸に触れた。

 彼の影の中で、それが隠された金の糸のように微かに輝く。イザナはゆっくりと腕を強くし、ノアを抱き寄せた。


「イザナ……?」


 今度の声には、ほんのわずかに戸惑いが混じっていた。イザナは何も答えない。

 その代わりに、ノアの肩口に額を押し当てる。微かに震える唇が、祈るように動いた。



「……おまえは、俺が守る」



 その囁きは、約束ではなく呪いに近かった。どこまでも優しく、それでいて抗えないほどの重さを帯びて。


 ノアは何も言わず、ただその温もりを受け入れた。けれど、彼の胸の奥に生まれた小さな、説明のつかない違和感を、このときの彼はまだ――名前を知らなかった。







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