第9話 精密な銃声
闇が沈黙そのものを飲み込んだ、その凍てついた刹那。
ノアの視界の端に、耳鳴りのような閃光が走った。
考える間もなく、反射的に身を伏せる。直後、ノアがもたれていた背後の壁が凄まじい轟音と共に炸裂し、高熱の鋼片と火花が嵐のように飛び散る。
熱風が頬を焼き、防弾ジャケットの下で心臓が狂ったように暴れる。耳の奥では、鼓膜が破れそうなほどの警告音が鳴り響いていた。
「やっぱり、罠か……」
低く吐き捨て、ノアは転がるように、分厚い柱の影へと身を滑らせた。彼は右肩を激しく壁に打ち付けたが、その痛みは無視する。
すぐにハンドガンを抜き、周囲の暗闇を射抜くように、無駄のない動作で構えを完成させた。
廊下の奥、赤外線レーザーの群れが蜘蛛の巣のように交差していた。その間を黒い影が二つ、殺意だけを伴って、音もなく走る。
ただの警備兵ではない。
その動きの精度と殺意の匂いは、訓練された暗殺者のそれだった。
ノアは息を吸い、銃弾の軌道を予測するように視界を極限まで狭めた。
一拍。 二拍。
次の瞬間、影が飛び出すよりも早く、ノアの指が引き金を弾いた。
乾いた銃声が夜を裂くように三度、短く連なった。
最初の弾丸が正確に一人目の額を撃ち抜き、その体は糸が切れた操り人形のように静かに崩れ落ちる。二発目をかわしたもう一人が床を蹴り、素早く反撃。
銃口の閃光が闇を切り裂き、ノアの左肩を灼けるような熱が走る。
背後の壁に弾が跳ね、火花が一瞬だけ視界を白く照らした。静寂と鼓動の境界が、そこで鮮やかに断ち切られた。
「チッ……!」
ノアは腕に力をこめ、腰のEMPグレネードを迷いなく放つ。金属が弾けるかすかな音が響き、空気が見えない力に押し広げられるかのように歪む。
次の瞬間、廊下全体の世界が沈黙に包まれた。電子機器の微かな光が一斉に消え、赤外線センサーの赤い線は、まるで霧が溶けるかのように脆く消滅する。
暗闇の中、敵の荒い呼吸だけが粘液のように重く空気に漂っていた。ノアは呼吸を殺し、瞳を微かに光らせ、その存在を骨の奥まで読み取るかのように位置を正確に把握する。
残弾三発をほとんど無音で連射すると、暗がりの奥で鈍く湿った音が響いた。
肉が裂け、骨が軋む乾いた血の匂いが空気に混ざり、夜の静寂に低く、だが確実に侵入してきた。
崩れ落ちた敵の体が床に転がる音は、まるでケーキを踏み潰したかのように鈍く湿っていて、ノアの神経を刺激した。
暗闇の中で血の温もりと鉄の香りが交錯し、戦いの余韻が皮膚の隙間に張り付いて離れなかった。
静寂が戻る。焦げた金属の匂いと火薬の残り香が、激しい戦闘の痕跡として空気を支配する。
ノアは背を壁に預け、左肩を押さえた手の隙間から温かい血が指を伝って滴るのを感じた。
呼吸をするたびに、痛みが鋭い刃となって肺の奥を貫く。
それでも彼の瞳だけは冷たく冴えていた。痛覚も恐怖も、今この瞬間だけは、狙いを定めるための雑音に過ぎない。
「……こんな歓迎を用意できるのは、あいつしかいない」
ポケットの通信端末が、微かな電子音と共に震えた。画面には一言だけ。
――【ようこそ、ノア】
その下には、偽名ではない、イザナの署名。
その瞬間、ノアの瞳がわずかに細まる。
床に漂う血の匂いよりも濃く、静かな怒りが胸の奥で燃え始めた。それは、支配されたことへの反発だった。
「俺を試す気?イザナ……」
ノアは、床に転がる敵の銃を拾い上げる。
冷えた金属の重みを確かな感触として確かめると、ノアは再び前を見据えた。
通路の奥、EMPで消えたはずの非常灯が、一つだけ薄い白光を放って点滅する。
その光が、まるで導くように――彼をイザナが仕掛けた次の戦場へと誘っていた。
非常灯の不安定な明滅を追って、ノアは静かに、しかし最速で前進した。
通路の先は、まるで地下聖堂のように重く静まり返っている。高い天井に無数の配管が張り巡らされ、壁面の電子パネルが青白く、不規則なリズムで脈動していた。
そこは、ECLIPSEの中でもごく一部の幹部しか知らない情報保管庫――「データ神殿」。
ノアは手首の端末を操作し、偽装されたアクセスコードを迷いなく入力する。
だが、認証音は鳴らない。代わりに、重厚な扉の表面に、見覚えのある、禍々しい紋章が鈍い光を放って浮かび上がった。
“IZANA SYSTEM PROTOCOL”
「……やっぱり、全部お前の手の内か」
ノアは舌打ちしながらも、次の行動へ移る。
扉の開閉機構を物理的にハッキングし、内部電源を遮断、手動解錠モードへ切り替える。
だが、その瞬間――背後の闇の塊が、砂のようにざらりと動いた。
ノアは本能に突き動かされるように身を沈め、次の瞬間には獣めいた俊敏さで逆方向へと跳んだ。
その直後、空気を切り裂く甲高い音――鋭い刃が風圧を伴って突き抜け、さっきまでノアの影があった場所のコンクリートを深々と抉った。
粉塵が静かに舞い上がり、遅れて響く衝撃音が、死の一瞬の遅れを無言で告げていた。
「……お前らか」
黒装束の男たちが三人。
まるで影が実体化したかのように音もなく立っている。彼らはイザナ直属の私兵部隊。どの一人も、訓練で人間らしさを削ぎ落とされた、冷たい暗殺者たちだ。
ノアは深く息を詰め、冷たい笑みを浮かべた。
「歓迎が派手すぎるな」
彼は床に転がっていたスモーク弾を拾い上げ、無造作に、しかし正確に投げつける。濃密な白煙が瞬く間に広がり、視界は完全に曇った。
その混乱の只中で、ノアの身体はしなやかに、水のように動いた。
一歩。
立ち込める白煙を切り裂き、ノアは斜め下から滑り込むように敵の懐へ潜った。肘が正確に鳩尾を捉え、鈍い衝撃音が骨を伝って響く。
二歩目。
相手の体勢が揺らいだ瞬間、ノアはその腕を捻り上げて銃を奪い、ほとんど反射の動きで逆手に構え直す。次の呼吸の間に、銃口は迷いなく喉元へ――短く、乾いた破裂音。
そして三歩目を踏む前には、残る二人が構えるよりも早く、ノアの姿はもう頭上の配管にあった。
鋼の梁を蹴り、影のように身を翻す。わずかな振動だけが、そこに人がいた証を残した。
足下で、制圧射撃の銃弾の雨が通路の壁を削る。火花が嵐のように乱れ飛び、スモークの中に閃光が走る。ノアは息を止め、逆さにぶら下がった姿勢のまま、静かに照準を合わせた。
――二発。正確無比なダブルタップ。 金属音。 そして、沈黙。
煙が薄れていく中、ノアは静かに床に降り立った。額の汗を拭うこともなく、再び扉の前に立つ。今度はためらいはない。
タクティカルナイフを抜き、電子ロックの基盤を一筋の線を描くように切り裂いた。
扉が重い息を吐くように、音もなく開く。
そこには数百ものデータ筒が整然と、まるで死者の骨のように並んでいた。
冷たいLEDの光が、氷のように空間を満たす。
ノアは手を伸ばし、視線が吸い寄せられた最奥の一本を抜き取る。
ラベルには――“Project Eden / Subject Noa”。
「……俺の、記録?」
呼吸が一瞬、凍りつく。
幼き日々の記憶――失われる前の自分の輪郭――その核心が、この冷たく硬質な筒の中に封じられていると知った瞬間だった。
衝撃とともに、通信端末がノアの意志を無視して起動する。ディスプレイの奥から、低くも確かな力を宿した声が、冷たく、しかし甘美に響き渡った。あの支配者――イザナの声。
『ようやく辿り着いたか。ノア』
イザナの声は、低く、穏やかで、しかしどこか哀しい響きを持っていた。
『そのデータに手を触れるな。開けば、お前は自らを壊すことになる。それを避けること――俺がここにいる理由だ。破壊の果てにしか訪れぬ再生を、俺は守り続けている』
静寂が、ノアの周囲を満たす。
手にしたデータ筒を強く握りしめながら、ゆっくりと息を吐いた。
その瞳に、複雑な感情の嵐が渦巻く。
「……お前の再生とやらに、俺を巻き込むな」
吐き捨てるように、でも微かに挑発的な響きを帯びた声。胸の奥では、確かに何かがギシギシと軋んでいる。
イザナの思想は、狂気と救済という二つの極の境界線を、まるで綱渡りをしているかのようだ。
そしてノアは、気づかぬうちに――その境界線の上へ、既に片足を踏み入れていたのだった。
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