第2話 夢の残滓
ノアは任務の指令を胸に、張り詰めた鋼の糸を渡るような緊張をまといながら、街角を曲がった。
夜はまだ深く、灯りの少ない路地に立ちこめる霧が足元でうごめいている。
それはまるで、侵入者の気配を嗅ぎつけてまとわりつく、意思を持った影のようだった。
靴底越しに伝わる石畳の冷たさは、心臓の鼓動を鈍く打ち消し、呼吸のたびに肺の奥がひやりと凍る。遠くで鳴った鐘の音すら、今は敵意を孕んだ合図のように聞こえた。
──止まるな。考えるな。
任務に感情を挟むことは、死を招く。その理を、ノアは誰よりもよく知っている。
だからこそ、彼の瞳は静かだった。すべてを沈黙の底に落とし、ただ透き通る硝子のような視線で世界を見つめていた。
だが、それは完全な無ではなかった。
冷えた指先の奥で、ほんのかすかな熱が疼く。
それは恐怖でも焦燥でもない。
ただ、記憶の底に沈んだ誰かの名残が、まだ完全には消えずに息づいているだけ。まるで、長い冬を越えようとする火種のように。
足音を殺しながら、彼は標的の古びたレンガ造りの建物へと忍び寄った。ひび割れの隙間を風が這い、古い看板がぎしぎしと軋む音が低く響いた。
どこかで猫が夜を告げるように鳴き、遠くで瓶が割れる鋭い音がする。かすかな金属の響きも、落ち葉を踏む音も、すべて彼の耳には無慈悲な情報として届く。
音の大小、方向、距離――生きた世界が、正確に、無機質な線と数値に切り分けられていく。
冷たい風が頬を撫で、湿ったレンガの匂いが鼻をくすぐる。闇と静寂に包まれた街の断片ひとつひとつが、彼の意識の中で整理され、標的への道筋を完璧に描き出していた。
「……あと二分」
呟きは霧に溶けて消えた。
彼の動作には、一切の静止も、無駄もなかった。まるで呼吸そのものが計算されているかのように、わずかな動きもすべてが最短距離を描く。それは長年の訓練によって刻み込まれた、身体の記憶の極致だった。
ノアの脳裏には、標的の行動パターンが淡い光の軌跡として流れている。数秒後、相手がどちらの足から歩き出すか、その癖すら既に予測済みだ。
風がどの方向から吹くか、霧がどの濃度で漂うか、路面の湿度がどれほど靴底の摩擦を奪うか。それらすべてを、数値として無意識に処理していた。
世界が遅く見える。
視界の中で未来が透ける。
重なり合う透明なフィルムのひとつひとつを、ノアの理性が無音のまま選び取り、最も正確な一手を導き出す。その思考は、もはや人間のものではなかった。心臓の鼓動すらも任務の一部として制御する完璧な機械。
――けれど、それでも。
その計算の合間に、時折、制御不能な疑問が彼の思考の深淵から泡のように浮かび上がることがある。
もし、誰かに命じられたのではなく、自分の意思で選択できるとしたら――
その瞬間、彼の目に映る世界はどれほど色鮮やかに広がるのだろう、と。
その考えは彼の冷え切った感情の深淵に、異質な熱を投げ込んだ。
まるで、自分のものではない遠い記憶――忘れ去られた夢の破片を、誰かの魂が無理やり彼の空虚な胸に押し込んだかのように。
孤独と温もりが混ざり合い、胸を締めつける。
それはノアが最も恐れ、同時に最も渇望するもの――人間らしさの残響。
冷酷な理性の鎧を纏った彼に、微かに、しかし抗いがたい光が差し込む刹那だった。
ノアは軽く頭を振り、迷いを払い落とす。
感情は毒だ。
任務の成果こそが自分の価値を決める。
──だからこそ、今夜も迷いなく刃を向ける。
その時、彼の背中に、ひどく懐かしい視線が触れた。
振り向いても誰もいない。
けれど、確かにそこに誰かがいた。
それを錯覚だと切り捨てた瞬間、ノアの足元の霧が、ゆっくりと形を変えていく。
胸の奥で、微かな波紋が広がった。
それは、長い間封じ込めていた何か――名も知らぬ温もりの記憶。
触れれば壊れてしまいそうなほど柔らかく、だが確かにそこに在る人間の鼓動。記憶の底で凍りついていた欠片が、今まさに浮上しかけていた。
だが、ノアはそれを切り捨てる。
ほんの一瞬の揺らぎも、この世界では致命となる。
任務に心を挟むことは自ら死を招く行為だ。
ここには光も、祈りも存在しない。
あるのはただ、影が影を喰らうだけの夜。その冷たい現実の中で、ノアは再び沈黙を選んだ。
彼は無表情のまま呼吸を整える。
視線を前に戻し、再び足を動かす。
建物の裏手にある非常口へと、ノアは音もなく身を滑り込ませた。錆びついた冷たいドアノブをそっと回すと、わずかに軋む金属音が夜の闇に溶ける。
一瞬でもその音が闇を震わせれば、命を削る罠に変わる。ノアは息を殺し、肩の力を抜きながら廊下へと踏み出した。
薄暗い内部は、不気味な静寂に包まれている。蛍光灯の一部は故障し、青白く瞬く光がランダムに揺れ、壁や床に斑な影を落とす。
その縞模様は、まるで凍りついた夜の心臓の鼓動のように、規則正しく、しかし不安定に揺れ動いていた。
──その影の奥底で、イザナの存在は、もはや世界から消滅していた。
距離にして十数メートル。
それは、ノアの鋭敏な感覚をもってすれば敵の心拍音さえ捉えられる近さだ。しかし、ノアの訓練された耳にも、鼻にも、彼の存在は塵の一片たりとも届かない。
イザナの能力は、視覚を欺くような派手な幻影ではない。それは、むしろ「世界の呼吸」そのものに同化し、自然現象の法則を静謐に書き換える、
彼は空気の流れをわずかに、そして完璧に操作し、路地裏を舞う埃の軌道を意図的に変え、ノアの注意のベクトルを数ミリ単位で逸らす。
その制御は、音楽の指揮者にも似ていた。
完璧で残酷なまでに静かだ。
(……まだ動くな。)
イザナは、心の中で囁くように自分を律した。
ノアの薄い肩が、任務の夜気の中で微かに揺れた。それは恐怖でも、単なる緊張でもない。
彼の鋭敏なスパイとしての本能が、目には見えぬ「何か」の気配を皮膚の奥底で感じ取っていたのだ。
夜の闇に溶ける風景のすべてが、まるで漆黒の獣にじりじりと追われるような、不可視の圧力に変わる。
身体の芯にまで重く、冷たく、しかし不可避に迫るその存在感――それが背後に潜むイザナであることを、ノアは知る由もない。
その無垢な無自覚さと透明感のある弱さは、夜の闇に溶け込みながらも、触れるものすべてを魅了する刹那の光のように、残酷に、儚く美しかった。
(気づけ。……お前なら、気づけるはずだ)
イザナの瞳が闇の中で細く光る。
その眼差しには、獲物を追い詰める監視者の冷たさと、かすかな祈りが禍々しく混ざり合っていた。
自分が助けたいのか、試したいのか──もう、判然としない。
彼の胸奥で、理性と情が軋む音がした。
ノアを守るという、あの日交わした誓いのために存在しているはずなのに、その視線はいつしか生きている証を確かめるような、灼けるような熱を帯びていた。
守護は執着へ、誓いは独占へと、静かに、しかし決定的に反転していく。
「……あと一歩だ、ノア」
誰にも聞こえない声で、イザナは呟く。
その瞬間、ノアが潜伏する古びたレンガ造りの建物の奥の暗がりから、不意に、しかし確実な物音が響いた。乾いた床板の軋み。
ノアの訓練された反射神経が瞬時に反応し、体を壁の陰へと伏せさせる。
だが、同時に空気の微細な流れが変わるのを、彼の皮膚は感じた。――無意識のうちに、イザナの指先が空気の粒子を揺らし、床の振動をわずかに打ち消していたのだ。
静寂が戻る。
異常な物音の残響は、ノアの耳に届く前に途絶えた。
気配を察したノアはまだ背後を警戒するが、危機の芽はそっと、知らぬ間に摘まれていた。
──イザナの見守りは、愛でも憐れみでもない。
それは、精密に計算された純粋な執着だ。
虎の領域に足を踏み入れた仔猫を、牙を隠したまま高みから見下ろす捕食者のように。
その視線には、慈悲と同じ温度で、支配の甘美さが深く濃密に潜んでいた。
この夜、ノアが任務を完遂し、自らの力と価値を証明するその瞬間まで、イザナの見えざる監視が途切れることはなかった。
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