(アンチ)ヒロインシンドローム
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第1話~第3話 ガラスの靴はいらない
「シンデレラは、すえながくしあわせに、くらしましたとさ、めでたしめでたし!」
ちゃんと読めたよ、と自慢げに本を差し出す子供の頭を母親は優しく撫でる。興奮で赤らんだ笑顔でそれを受ける子供はふと思い出したようにあのね、と母親を見上げた。
「すえながくってなあに?」
「末永くっていうのは、ずうっとってことよ。シンデレラはその後、王子様と一緒にずっと幸せに暮らしましたって」
「ホント!?じゃあ、もう、イジワルなおかあさんも、おねえさんも、シンデレラをいじめなかったんだね!」
子供は嬉しそうに絵本を握ったままの腕を上下させる。きらきらとした瞳で物語の終わりの後も続く幸せを信じる我が子に頬を緩めながら、母親はその小さな手をとった。
「うーん、それはお母さんにもわからないなぁ。」
不思議そうな顔で見上げてくる子供の瞳を覗きこめば、子供はこてんと首をかしげる。
「もしかしたら、またお姉さんたちがいじわるしてきたかもしれないし、悪い魔女がやってくるかもしれないわ」
「えー!そんなのダメだよ!だってしあわせなんでしょ!?」
「ふふ、あっくんにはちょっと難しいかしらね。……でも、大好きな人と一緒にいられたら、どんな壁だって乗り越えられる。どんな環境だって、大好きな人と一緒にいることが一番の幸せなのよ」
息子から視線を外して、母親はどこか遠くを見つめる。子供は首をかしげたまま何度か瞬きを繰り返してから、ぎゅっと自分のものよりもずっと大きい母親の手を握り返した。
「じゃあ、ぼくもおとなになって、だいすきなひとといっしょにいてしあわせになる!!」
ぼくにもおうじさまがくるのかなと無邪気にはしゃぐ息子を見てあらあらと母親は微笑む。あっくんは王子様のほうなのよと語りかけて、えーっと文句を言う息子の頭を撫でることで宥める。
握りしめられた絵本の表紙で、お姫様と王子様は幸せそうに寄り添っていた。
国王陛下とシンデレラの結婚式まであと一月。
通りに面した窓を開ければそんな話し声が嫌でも聞こえてくる。その声を聞きながら、俺は流れ込んでくる風を感じて溜息をついた。
窓から程近いソファにぐったりと凭れるようにして座り込んでも、身体に纏わりつく倦怠感が消えることは無い。むしろ、力を抜いたことで今度は屋敷に立ち込める重苦しい空気が身体全体に圧し掛かってくるようだった。元からプレッシャーや緊張には弱い性質のせいか体調も思わしいとは言えないが、それでも風を感じていられる内はまだいい。爽やかな風が部屋を吹き抜けていくのはひどく心地が良かったし、重苦しい空気が浄化されていくような気になれた。
そうやって身体を休めるために瞼を閉じてから、どれくらいの時間が過ぎただろう。不意に廊下の方からがしゃんがしゃんと陶器の割れる音が響いてきた。ああまたかと項垂れたくなるのを押しこめて、慌てて窓を閉め切りカーテンを引く。幸いこの部屋には天窓もついているし、カーテンを一つ閉めた所で明かりに困るわけでもない。仮にこのカーテンが天窓のものだったとしても、窓を開けていたことを理由に部屋の装飾に当たり散らされるよりかは、部屋の中が暗くなることの方が幾分もマシというものだ。
「アキト!アキトはいるか!」
細やかな、でもとても繊細とは言えない装飾の施された扉が、ある意味それによく似合った品のない音を立てて開かれる。ノックもなく扉を開けた本人は、その身に纏わせた装飾類をがしゃがしゃと鳴らしながら鼻息荒く俺に歩み寄った。その顔は赤らみ、今日も昼から酒を呷っているのが窺えた。
「お帰りなさいませ、旦那様」
その機嫌をこれ以上損ねないように即座に分厚い猫を被る。にこにこと笑う俺の髪を乱雑に一房持ち上げると、旦那様は値踏みするようにじろりと俺の全身に視線を向けた。旦那様、ゲイリー様の視線が気持ち悪くない訳ではないが、癇癪持ちでプライドの高い彼の機嫌を損ねるとどうなるかわからないので、粘着質な視線の意味など知らぬ存ぜぬを貫いて何も言わずに首を傾げる。彼の癇癪が自分に返ってくるならまだしも、矛先が他にそれてしまうなら話は別だ。俺の事を品物か美術品のように扱う彼は苛立ちを家具か使用人たちへと向ける。残念ながら俺は、自分のせいで誰かが傷付くことに快感を覚えるような人間性は持ち合わせていない。
「相変わらず美しい漆黒だ。この美しさがわからないとは、陛下は一体何を考えておられるのか……」
そう言って髪から指を離すと、ゲイリー様は使用人へ酒を申しつけてからソファへ乱暴に座り込んだ。彼のその要求は予想されていたものらしく、すぐさまその手元に赤ワインとグラスが用意され、ゲイリー様は勢いのままそれを一気に呷ってぐちぐちと小言を零す。口の中で呟くように紡がれるそれを正確に聞き取ることは出来なかったが、十中八九内容は今日の登城のことだろう。首都に本邸を置く事の許された貴族たちの中でも上位に位置するこの家の現当主殿は、どうにかして国王陛下に取り入ろうとご執心らしい。その原因というのも、家名に対してここ数代身内が城の重鎮に召し上げられないことが気に食わないという一点に尽きる。気にするのは見栄や世間ばかり。見上げても天辺の見えないような自尊心を満たすことに必死なだけで国を良くしよう、陛下を支えようという潔白な理由でない辺り、なんというか三流の悪役の肩書きが良く似合う人だ。
しきりに貢物として家宝や年頃の娘を差し出しても、陛下はそれに見向きもされない所か、つい先日異世界から現れたという少年を妃として迎えるという声明を発表する始末。しかもその少年が、この大陸において幸運の象徴とされる黒色の髪と瞳をもっているというのだから、国民達もお祝いムード一色だ。その上、そのお妃さまが陛下と出逢ったのが下町の花屋で、そこで働いていた所からお妃まで辿りつくその道筋があまりにも王道でロマンチックなものだから、庶民たちの間でシンデレラストーリーだなんて囃し立てられているのも仕方ないだろう。最初にその話を聞いた時は、シンデレラという童話がこの世界にも共通だなんておもしろいこともあるものだと関係のないことにばかり感心したものだが。
ここまで言えば察してもらえるだろうが、かくいう俺もその異世界の住人だ。というか、俺的にはこっちの世界の方が異世界だ。RPGに出てきそうな街並みに魔法や剣、一見怪しげな薬や道具が普及していることにはじまり、同性婚から異種婚まで認められた世界。詳しい理論は知らないが不思議な世界だと思う。
何より黒という色を人が持つことがないというのが不思議だ。辛うじて黒に近い色を出す染物の原料もあるらしいが、高価な上毒性も強く肌や髪に使うことは到底敵わない。つまり、人工的にも作る事はほぼ不可能なのだ。そして、その希少な黒を持つ俺を金で買い取ってこの屋敷に住まわせたのがゲイリー様。陛下に取り入る為にどうにか件のシンデレラを蹴落として俺を妃にと考えているらしいけれど、その望みが薄そうなのは登城から帰ってくるゲイリー様の様子から多分に窺える。
下町の花屋からお妃へと大変身を遂げたシンデレラと、三流の悪役の元で暮らす俺。どう転んでも俺にシンデレラストーリーなんて程遠いと、また大声で喚き始めたゲイリー様のグラスにワインを注ぎながら俺は一人溜息を呑みこんだ。
ガラスの靴はいらない
(十二時の鐘で、)
(全てが元に戻ればいいのに)
――始まりは、目の覚めるような青空。目の覚めるというか、真実その瞬間に目を覚ましたのだけど。校舎の中を歩いていたと思えば、いつの間にか草原の上で寝転んでいた。勿論こんな所で寝ていた理由に心当たりはないし、自分が夢遊病患者であるつもりもない俺は寝ぼけた頭でこれ以上ないくらい混乱した。俺が横たわっていた草原が、俺を拾ってくれた老夫婦の営む農場の牧草地だったというのは、後からわかったこと。その後二人に発見されるまで、そこにいた羊の群れがやけに俺に構ってきた時の軽い恐怖を今でも俺は覚えている。
黒髪黒目の人間が、違う世界から幸運を運びにくる人間だという言い伝えのお陰で、右も左もわからない俺を夫妻は快く迎えてくれた。無一文で常識もない俺に、農場の手伝いをする代わりに衣食住の保証と生活に必要なあれこれを教えてくれるだなんて、どれだけ恵まれた環境だったのだろう。都合が良すぎる為にこれは夢ではないのかと何度も疑ったが、その度に自身の五感がこれは現実だと訴えてきた。
暫くはここが異世界だなんて認められなかった。それでも、どうやっても俺の常識では説明のつかないことが平然と行われているのを目の当たりにすれば嫌でも受け止めるしかない。通用しない常識や、見たこともない動植物。農場の手伝いをしていくうちに何度もそういうものを目にして、実際に触れ合って、その温もりを知った。出来が良ければ喜んでくれて、無茶をすれば怒られて、怪我をすれば心配してくれる。本当の孫のように可愛がってくれるじいさんとばあさん、農村に住む人たち、たまに遠くの町から品物を売りに来る行商人たち。みんなが優しくて、暖かい人たちだった。
だから、ようやく事態を受け止めたあとも、みんなの優しさに救われながらゆっくり元の世界に帰る術を探していこうだなんて暢気に考えていた。どこまでもただただ平和なこの生活が続くと、そう考えていたんだ。
あの日、ゲイリー様の私兵たちが来るまでは。
俺を引き渡せと騒ぐ私兵たちに、いくら金を積んでも俺が望まない以上そうはいかないと夫妻は言い張った。騒ぎを聞きつけた村の人たちも俺を守るように集まってくれた。
けれど彼等は人々を掻き分け、武器を突き付け動くなと脅しつけ、庇われる俺を無理矢理に家から引きずり出そうとする。俺の腕を引いた男は周りの男たちに命令を出すと歩き出した。命令が聞きとれずに、まさかみんなに乱暴でもするのではと慌てて後ろを振り返れば、その男たちが手荒にテーブルの上に大量の金貨の入った袋をいくつか置いている。わずかに見えたその光景を最後に、俺は馬車へと押し込まれた。
屋敷に連れてこられた俺はすぐにゲイリー様の前へ差し出された。正直、悪趣味な貴族の愛玩人形にされるのかと怯えていた俺にはゲイリー様の対応は拍子抜けと言っても良かった。俺はゲイリー様の指示によって身形を整えられ、美しく装飾された調度品の並ぶ部屋へと連れられた。そこで俺は生活のすべてを管理され、軟禁されている。
ゲイリー様は、基本的に自分以外の人間を自分のための駒としてしか考えていない。使用人だろうと国王陛下だろうと、俺だろうとその点は変わらない。人間として問題があると思っても、そのゲイリー様に飼われて衣食住を世話されている俺に何が言えたことだろうか。
そして今日も、その飼い主に尻尾を振る振りをする。愛想笑いで嫌気のする派手派手しい意匠の羽織を差し出すゲイリー様を受け流すと、クローゼットの中からここに収まる物の中では比較的地味な色合いのものを選んだ。適当な煽てを交えて誤魔化せば、ゲイリー様は簡単に納得して次の登城の準備を進めていく。
「今度こそだ、今度こそ陛下に認めさせてやる……」
そう言っていつの間にか中身の大分減ったワインボトルを机に叩きつけて部屋から出ていくゲイリー様。次の登城の時の自分の服装を決めるついでに、今の服装も整えに行ったのだろう。
こうして登城のずっと前から服も装飾も馬車も何もかもを自分の思うように用意するのに、結局当日になって気分が変わったとまた最初からやり直しになるのだ。いつもいつも俺はそれを待つ間に何をしたものかと頭を悩ませている。俺の方はと言うと朝のうちに準備は終わってしまう。だけど、地味とは言っても余所行き、しかも登城用の服に皺を付けたり、形を崩したりするのは御免被りたい。そうするとソファに腰掛けるくらいしか選択肢はなくなった。
部屋にある本棚の本はいつもの日中の暇潰しに読み終えてしまったし、ゲイリー様は俺が使用人たちと関わるのが望ましくないらしい。だから世間話をする相手もいない。
使用人たちにとって俺はゲイリー様の寵愛を受けているという認識らしい。俺が進んで欲しがった訳でもないし、そもそもゲイリー様が伸し上がる為の手段として俺を丁寧に扱っている結果がそう見えているのだろう。そうでなくても、当初から使用人たちから腫れものを触るような態度を取られていたというのに。
その寵愛のせいで一層使用人たちから距離を置かれていると知ったのは偶然だった。曰く、俺の機嫌を損ねてゲイリー様に言いつけられでもしたら堪らないから、だそうだ。俺に気が付かずに庭の手入れをする使用人たちの言葉によれば、だが。
生命の危機にある過酷な状況ではなかったとしても、自分を曝け出せる話し相手もなく長期間いるというのは意外と辛いものだ。この貴族生活で学んだ事と言えばそれくらいだろうか。じわじわと真綿で首を締められるように、ゆっくりと呼吸が苦しくなってまるで心が死んでいくようだ。
窓を開け放せば一瞬その苦しみは和らいで、でも結局俺は空には飛び立てない。鳥でもないし翼もないから、この部屋から外へは出られない。悲劇のヒロインを気取るつもりはないから、鳥籠の中の鳥などとは称したくないが。それでもどうして俺がという思いは常に付き纏う。
物欲塗れの貴族に飼われる俺と、国民に愛されるシンデレラ。二人の差は所詮タイミングだけだろうに。そんな運で、どうしてこんなことになったのだと。自分から動きだすこともできずにただ俺は嘆くだけだった。
髪でも伸ばせば変わりましたか
(自分から動きもしないのだから、)
(誰かが気が付いてくれる筈もなく)
顔を俯かせることで目線を下げてゲイリー様の一歩半程斜め後ろを歩く。登城の時はいつもそうだ。身分制度に重きを置く貴族たちは民衆や国の騎士団から嫌われている。後者はその大半が民衆からの登用だから当然だろう。
何代か前の国王が行った改革によって、今この国では身分制度というものは徐々に緩和されていっている。貴族たちは何代にも続く財を用いてそれに酷く反対しながら、どうにか今までの生活を維持してはいるけれど、それでも身分に左右されない職の自由を証明するように、城内では多くの貴族曰くの平民と呼ばれる身分の者たちが重要な役職に就き、その職務を果たしている。
そんな城内で貴族制度存続運動を牽引するゲイリー様は勿論暖かい目で見られる筈もなく。その後ろをついて回る俺も同類だと思われているのか、黒持ちへの興味という相乗効果で外を歩く際には周りからの無遠慮な視線に殺されそうだといつも思う。
全てが悪意の籠もったものではないとわかっていても、元々注目されるのは好きではない。目の前でその視線を何ともせず歩くゲイリー様がこの時だけ羨ましくなるくらいには、俺は相当なダメージを食らっていた。
それなのに登城を無理矢理にでも拒まない俺に苦笑いを禁じ得ない。ゲイリー様に逆らうと何をされるかわからないのも確かにある。でも、俺はきっとそれ以上に。
周囲を見ないように半分ほど伏せていた瞼をあげれば、いつの間にか謁見の間の前へと辿り着いていたようだった。握りしめて強張った手のひらからどうにか力を抜いて、少しだけ皺の寄った袖口を気持ちばかり直す。
ゆっくりと開いた謁見の間の扉の隙間から漏れだす光が眩しくて眼を細める。また視線を足元に固定して、歩き出すゲイリー様の後に続くためにこれ以上なく重い足を動かした。
「私は側室を娶るつもりはないと何度も告げた筈だが」
「まだそんなことを申しますか、陛下。このアキトの美しい黒髪をご覧ください、これ以上美しい色がありましょうか!」
何度も同じようなこと繰り返すだけの申し出を断る陛下に、それでもゲイリー様はしつこく食い下がる。毎度この繰り返しだ。膝をつき顔を上げていない俺にも陛下の苛立ちは伝わってくるのに、どうしてこの人にはそれがわからないのだろう。それともわかっていて無視しているのだろうか。どちらにしても俺には真似できない芸当だ。
国王の苛立ちと同様に室内で控える護衛兵たちの苛立ちも募ってくる。視線がまた鋭くなった気がして俺は静かに胃の辺りを抑えた。頭を下げていれば顔を覆うように下りてくる前髪のお陰で痛みで目を瞑っていてもばれないのが好都合だった。
「恐れながら、陛下」
不意に穏やかな声が二人の応酬に割り込む。その声に俺の肩がぴくりと揺れた。視界の端で陛下の側に歩み寄る誰かの足元が見える。耳打ちで何事か伝えられた陛下はそれにひとつ頷くとゲイリー様に声をかけた。
「そこの黒髪の君の体調がよろしくないようだが、別室へ案内しても?」
囁くように告げられたその言葉に周りの視線が俺に集中するのがわかった。ゲイリー様も俺を振り返ったようだが何も言わない。その視線にまた痛みが増して顔を上げることも出来ずにいれば、その間に陛下は何か二、三指示を出していた。俺に向けての言葉ではないとわかっていたしそもそも意識を向ける余裕もあまりないので内容はよくわからなかったが、ゲイリー様は何も言わずに俺を見下ろしたあとただ陛下に是と示したようだだった。
「失礼します」
抱え込むようにして立ちあがらせられると、今度は腰を支えるようにして別室へとゆっくりと誘導される。陛下はしばらく此方の様子を見守っていたようだが、少しすればまたゲイリー様の俺の押し売りが始まった。何だかんだこのやり取りも頻繁に起こることだ。毎回ここまで体調が悪くなる訳ではないけれど、彼は話が長引きそうになると色々な理由を付けて場を一度遮ると俺を連れ出してくれる。それだけでなく結構な確率で支えてもらって歩いていくのも非常に申し訳ない。
入り口とは別の小さな扉を抜けると、不意に彼の歩みが止まる。人気のない廊下に、かつりと靴の踵が当たる音が響いた。腰を支えられてようやく歩けていた俺だから、彼の方が止まれば当然俺が一人で進める訳もなく自然と足を止めた。
「……宰相様?」
「重ね重ね、失礼致します」
少しだけ考えるような間を開けたあと、彼――この国の宰相であるアルヴィン様は少しだけ屈む。そして、そのまま俺の膝の裏に手を回すと一気に、それでもあくまで丁寧な手つきで俺を横抱きにした。
「応接間までの間ですので、ご辛抱くださいね」
文句を言う前に、にこりと笑顔付きで言われてしまえば俺はもう何も言えない。せめて少しでも抱えやすいようにとアルヴィン様の方に身体を寄せる。アルヴィン様が身動ぎしたような気がしたけど、俺はまたずきりと痛みだした胃に意識を持って行かれた。
凭れた胸元と支える腕から伝わる温もり、そして歩くたびに伝わる穏やかな振動が俺の瞼をゆっくりとおろしていく。眠気に抗えずに肩に頭を落ち付かせた俺に、少しだけ回された腕に力が籠もったような気がした。
暖かくて柔らかい紅茶の匂いが鼻先を掠めるのを感じて、俺は意識を浮上させた。運ばれている途中で眠ってしまったのかとぼんやりとした頭で考える。また、迷惑をかけてしまった。
「お目覚めになりましたか」
声の方に視線を向ければ、紅茶をティーカップに注ぐアルヴィン様と目が合う。その柔らかな頬笑みで見詰められることに慣れなくて、慌てて視線を外しながら運んでもらったことのお礼を言った。身体を起こしたことで少しだけずり落ちたブランケットも、恐らくはアルヴィン様が用意して身体にかけてくれていたのだろう。この人の優しさに、俺はどれだけ救われているのだろうか。
「まだあちらは長引きそうですので、ゆっくりお休みください」
そう言われて用意された紅茶を手渡された。いつの間にか冷え切っていた指先が、容器越しの優しい温度に温まっていく。口を付ければ匂いと同じように心地の良い風味が身体を中から温めていくような気がした。
生憎俺は紅茶には詳しくないが、アルヴィン様の淹れてくれる紅茶はいつも美味しくて俺を安心させてくれる味だ。
「美味しいです、とっても」
「それは何よりです」
文字の上だけで見れば社交辞令のようなやり取りだけど。アルヴィン様の柔らかな笑顔につられて俺も頬笑みを浮かべる。この世界でまともに笑える瞬間を、俺はこの場所以外でまだ見つけられていない。屋敷ではありえない空気の中で、俺たちはただ穏やかに時を過ごしていった。
茨の塔でも登っていける
(貴方に会うためだけに)
(傷付く俺は滑稽ですか)
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