第36話私とゼットの関係1

食事が終わり、私は今日泊まらせていただく部屋に案内された。

綺麗で高級な客室だった。

天井にはシャンデリアが控えめに輝き、壁には淡い金色の花模様の壁紙が貼られ、まるで王宮の一室のような気品が漂っている。窓の外には夜の庭園が広がり、月光が芝生に静かな光を投げかけていた。

部屋の空気はひんやりとしていて、ほのかにラベンダーの香りが漂い、心を落ち着かせてくれる。けれど、私の胸は夕食の会話とこれからの話で、どこかざわついていた。

「時間は大丈夫なの?」

荷物を置いて、部屋のソファに、ゼットと向かい合って座った。

ソファは柔らかく、体を優しく包み込むようだったが、背筋を伸ばさずにはいられなかった。特にお茶もなく、ある意味とてもくつろげる空間だった。

部屋には召使いは誰もいないが、扉の外には、もちろん厳重に兵士たちがいる。

その気配が、静かな部屋の中でわずかに緊張感を漂わせていた。オデッセイ様が無理やり招待した、とは言っていたが、そんな感じではなかった。

私を見て、本当に嬉しそうにしてくれた。

ゼットの瞳には、いつもと変わらない温かみがあった。夕食の喧騒を抜け、こうして二人きりになると、彼の存在がいつもより大きく感じられる。

「大丈夫だ。帰りの馬車の中で少し書類を確認すればいいだけだ。明日も約束通り茶会には参加する」

忘れていない、と言わんばかりに真顔で言うから、この人にとって私の存在は本当に大きいのだ、と理解する。

その真剣な眼差しに、胸の奥が少しだけきゅっと締め付けられるような気がした。ゼットはいつもこうだ。私の些細な約束も、決して軽く扱わない。

「あのね、ゼットが来る前にオデッセイ様に言われたの。ゼットと付き合ってみたらどうか、と。色々考えて、私、貴方と付き合ってみようと思うの」

淡々と、けれど私は素直に言葉を紡いだ。

心臓が少し速く鼓動を打つのがわかった。自分の声が、静かな部屋にやけに響く気がして、喉がわずかに乾く。こんな大事なことを言うのに、こんなにも落ち着いた声が出るなんて、自分でも不思議だった。

途端に、ゼットの顔が怖いほど引き締まった。

「あいつに何を言われた!?」

怒号から、私が無理やり言わされていると思っているのだ。

その声に、部屋の空気が一瞬で張り詰めた。でも、私はふんわりと微笑みながら首を振った。

ゼットのそんな反応は、どこか安心できるものだった。彼の怒りは、私を守ろうとする気持ちから来ているのだと、すぐにわかったから。

ゼット自身も、オデッセイ様が自分を大事に思い、心配していることを知っていたのだ。

「自分で決めたわよ。こんなこと誰かに言われて決めることじゃないし、それにね、別にアルファードにゼットと婚約しているから、と嘘をついたことを本気にしようと思った訳でもないの」

夕食時にアルファードとシルビアに、第二夫人を提案され、あまりに腹が立ってゼットと婚約している、と言ったことを説明したら、本気で激怒してくれて、俺が王になったら徹底的に嫌がらせをしてやる! と、言ってくれた。

あの時のゼットの声は、普段の穏やかさとは裏腹に、鋭い刃のような怒りに満ちていた。

ありがとう、と本当に嬉しかった。

胸の奥に温かいものが広がったのを、今でも鮮明に覚えている。

「オデッセイ様にね、嫌いじゃないなら付き合ってみたらどうだ、と言われた時、それもいいかな、と思ったの。その……怒らないで聞いて欲しいの」

言葉を選びながら、慎重に話す。自分の気持ちを正直に伝えるのは、思ったよりも難しい。

「俺がカレンに怒ったことあるか?」

そう笑われて、確かにな、と思った。

ゼットの笑顔は、まるで春の陽射しのように柔らかく、緊張していた私の心をほぐしてくれた。

「ないね。私がイライラして怒ったことあるのに、ゼットはないもんね。そういえば何で怒らなかったの?」

「怒ることがなかったからだ。カレンに言われたことに特に怒ることも、イライラすることもなかった。俺としては、カレンがいつも素直にぶつけてくれる感情が嬉しかった」

「そっか。ありがとう」

その言葉に、心が軽くなった。ゼットの声には、いつも不思議な力がある。私のどんな感情も、受け止めてくれる。

きっと、この内容はゼットのことが好きだったらドキドキして、とても嬉しいのだろう。

残念だけれど、私には、ない。

そう冷静に思える自分が、なんだか申し訳なく思えたが、それでも気持ちを正直に見せることが誠意だと思った。

自分の心を覗き込むように、静かに考える。

ゼットへの気持ちは、恋というより、深い信頼と安心感に近い。でも、それが悪いことだとは思えなかった。

「じゃあ正直に言うね。アルファードと婚約解消した時、先のことを考えて色んな令息と知り合うのもいいかな、と思ったの。でも……そうするとなんだか自分が王族の一員となるべく努力したことがなんだか無意味になりそうな気がして……誰か、を探すのが嫌になったの。だって、初めまして、から始まってお互いのことを知って、というのが、正直億劫で面倒だと思ったの」

言葉を紡ぐたび、胸の奥に溜まっていた思いが少しずつ解けていく気がした。自分の本音をこうして言葉にするのは、まるで重い荷物を下ろすようだった。

「珍しいこと言うな。いつも調べることが好きで、人間観察も楽しい、と言っていたじゃないか」

ゼットの声には、からかうような軽さが混じっていた。

「それは、知らない世界を知れるからよ。ワクワクしてとても楽しいわ。でも……私情が入ればそれは違う。絡み合う内容が違いすぎる」

現実は女性の立場は、とても狭い。

オデッセイ様のように事業をできるなど、私の国では一割も満たない。

結婚すれば、檻の中に住まわされることとなる。

その言葉を口にするとき、ふと、窓の外の月光が目に入った。自由に輝く光が、なんだか遠い世界のもののように感じられた。私の未来も、あの光のように自由でいられたらいいのに、と一瞬だけ思った。

「まあな。婚約、もしくは婚儀まで行けば、家と家の繋がりが出てくる。そうなれば、様々なしがらみが足枷となり、内輪のことだけで精一杯になるだろうな。そうしたら、カレンの好きな他国の情報は、無駄だろう。内輪もめをどれだけ自分側に有利になるかに尽力して欲しいのに、他国のことなどなんの意味もない。だが、カレンは本当に、自国よりも他国のことを隅々まで調べるのが好きだもんな」

くっくっと笑う。

その笑い声に、なぜかほっとした。ゼットは私のそんな一面を、笑いながらもちゃんと受け止めてくれる。

「それ、友人にも言われたわ」

口を尖らせて言うと、また、笑われた。

「でも、その中でゼットの存在はとても楽で、私のやることを否定しないし応援してくれた。わかっているの。それが王族目線だから、って。本当なら、ゼットを選ばずに、他の令息を選んだ方がずっと気楽な人生を送れるのよ。言うように他国のことを調べることは無意味。それなら、悠々自適な人生を謳歌することに専念すればいい。何も考えず美味しいお茶を飲んで、たくさんの貴族令嬢とお茶や夜会を楽しんで、ゆっくりと過ごせばいい」

「似合わないな」

「……私もそう思った。それなら、何も文句を言わず私の好きなことをさせてくれる、ゼットがいい。初めまして、と始めることもなく、私の素も知っていて、私も、とても気楽に話せる令息」

その言葉を口にしながら、ゼットの存在がどれだけ私にとって大きいかを改めて感じた。

彼は、私の好奇心や行動を、いつも静かに見守ってくれる。まるで、広い空の下で自由に飛ぶ鳥を、そっと見上げるように。

「それ、オデッセイも同じことを言っていたな。フリードとは幼い頃から家同士の繋がりがあり、知った仲だった。だからこそ、男として見れないけれど、私の言うことを全て聞いてくれる最高の下僕なのだ、と言っていた。楽、という言葉が意外にも男の心に刺さると、知ってるか?」

達観したように、微笑むゼットに、首を傾げる。

その微笑みには、どこか深い理解と優しさが混じっていた。ゼットの瞳を見ていると、なんだか自分の心が透けて見られている気がして、胸がざわついた。

「楽。それは確かに男として見れない、と否定される言葉だ。だが、逆を考えれば、誰よりも自分がその女の心に棲みついている、という答えをもらったことになる。棲みつく、つまり、染み込んでいるんだ。一度染みを作ればそれは、絶対に落ちはしない」

そこで言葉を切ると、不安そうな微妙な面持ちになり目線を逸らした。

「だから……堕ちて欲しいんだ」

その言葉に、胸がどくんと大きく跳ねた。ゼットの声には、普段の穏やかさとは違う、熱いものが込められていた。

「なるほどね。そういう意味なら堕ちてるよ。私ね、今婚約するならゼット以外は考えられない。そう思ったから、アルファードに貴方と婚約している、と啖呵を切ったの」

「っ!!」

目を見開かせ、驚くと、顔を隠すように腰から身体を曲げた。

「……その内容は、不意打ちすぎるだろ」

照れてる。

けど、とても嬉しい気持ちが伝わってくる。

ゼットのそんな反応に、思わずくすりと笑ってしまった。普段の強面が、こんなにも無防備になる瞬間が、なんだか愛おしく感じられた。

「でも、もし、もし、友人以上に見れなかったら、その時は、ちゃんと言う。その時は、これからオデッセイ様と事業のことについても連絡を取り合うことになるけれど、二度と貴方の前には現れないわ」

最後の言葉、語気が強くなる。

その瞬間、胸の奥に冷たいものが走った。ゼットとこうして向き合える時間が、もし終わってしまったら。

想像するだけで、寂しさがこみ上げてくる。

でも、それが私の誠意だと思った。

ゼットには、曖昧な気持ちで縛られるような未来を渡したくない。

「…わかった。そう、だな。お互いその方がいいだろう。だが、とりあえず、確認したい!」

「何を?」

「その、つまり、俺達は俗に言う恋人同士になったんだな?」

「まだ、じゃない? だって、ゼットは私の付き合おう、という提案に答えてないもの」

「付き合う!」

真顔の即答に笑ってしまった。

「じゃあ、恋人同士だね」

答えると、今度は顔を真っ赤にしながらも、幸せそうにはにかんだ。

「…俺、今、本気で嬉しい。たとえ、お試し的な流れでも、それでも俺を選んでくれた。横に、行ってもいいか?」

「いいよ。だって恋人同士になったのだもの」

一言一言の私の言葉に、本当に嬉しそうにしてくれるゼットを見て、曖昧な気持ちじゃなくて、本気で考えないといけない、と思った。

胸の奥で、温かいものと少しの不安が混ざり合う。恋人という言葉が、こんなにも重く、こんなにも軽やかに響くなんて、初めて知った。

静かに立ち上がると、私の、これまで以上の近さで隣に座った。

軽く、膝が、触れる。

ふっと顔を上げると、とてもゼットの顔が間近にある。

本当に、アルファードとは全く正反対だ。

アルファードは穏やかな容貌ながらも、自分の我を、やんわりとしながらも通す。

ゼットは鋭い瞳と顎を持ち強面。

けれど、性格は穏やかで、私のことをいつも優先してくれる。

その近さに、息が少し詰まる。

ゼットの瞳には、私しか映っていないような、そんな錯覚を覚えた。

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