第7話 伝説の鍛冶屋は素手で鉄を割る。強化イベントが試練に変わる日

山に近づくほど、風の匂いが焦げたみたいに変わっていった。

金属を舐めたような、舌の奥に残る味。鼻から入って、喉に薄く刺さる。

「鉄の匂いだ」

棒――ルートロッドが俺の肩で呟いた。木の癖に金属に詳しいの、ちょっとずるい。


噂は、笑い話じゃなかった。

山の麓の小さな集落からさらに外れ、黒い岩肌に貼りつくようにある鍛冶小屋。屋根から立ちのぼる煙は薄く、それでも匂いは濃い。

戸をくぐると、熱が肩に乗った。

火床の前に男がひとり。

ひげは炎、目は炭。

ラガン――伝説、と呼ばれる鍛冶屋だ。


「ずいぶん遠くから来た顔だな」

低い声が炉の熱でゆらいだ。

俺は背から棒を外して、両手で差し出した。

「初期装備です。折れずにここまで来ました。強くしてほしい」

ラガンはしばらく黙って、掌で俺の棒をなでた。

掌というには分厚すぎる手だ。金槌みたいな手。

なのに撫で方は、卵を拾うみたいに柔らかい。


「よくここまで折れずに来たな。立派な棒だ」

棒が誇らしげに微かに震えた。

「当然だ」

お前、褒められたらすぐ調子に乗るよな。嫌いじゃないけど。


ラガンの指先が、木肌の継ぎ目をたどる。

その指が、ぴたりと止まった。

「……変だ。木だが、芯が金属みたいに硬い。いや、金属でもない。もっと古い何かだ」

「古い?」

「山より古い匂いがする」

ルミナがわかりやすく目をきらきらさせた。

「世界の根っこ的なやつ?」

「そう言って差し支えない」

ラガンは短く頷き、炉の火に新しい炭をくべた。

「強化はする。ただし、店の打ち直しは“儀式”だ。見学だけってわけにはいかない。お前たちにも手伝ってもらう」

試練の匂いがした。汗と火と、少しだけ怖さの混じった匂いだ。


鍛冶は、思っていたより静かだった。

金槌の音が鳴らない。ラガンはハンマーを使わない。

赤く焼いた鉄を両の掌でなで、指で折り、息を吹きかける。

言葉にすると魔法っぽい。目の前で見ると、納得させられる。

「衝撃は、叩けばいいというものじゃない。押す、待つ、撫でる。変わるまで隣で呼吸する」

ラガンの指が、火の色を少し暗くして、次に明るくした。

鉄が音もなく形を変える。

俺は喉が鳴るのを飲み込んだ。

棒が小さく言う。

「見ろ。風が吸い込まれて、また吐き出される」

わかるようでわからない。でも、胸の内のどこかが、炉に合わせて膨らんで萎んだ。


「まず、火を温める」

ラガンが顎で示す。

「温めるのは火の方?」

「お前らの手だ」

火床の脇に置かれたふいごを、俺とメリアで交互に踏む。

踏み込むたびに、火が呼吸するみたいに膨らむ。

ラガンは棒を、鉄じゃなく木を、火へかざした。

「普通なら割れる。割れたら、それまでだ」

ルミナがごくりと生唾をのむ。

ノワは尻尾を小さく揺らすだけで、目だけが真剣だ。


熱に木肌がきしむ。焦げる匂いが、少し。

俺の手に汗が滲む。

「やめようか?」

思わず口に出かけた言葉を、棒が遮った。

「やめない。怖いから、離れない」

ラガンの口の端が、ほんのわずか上がった。

「なら折れない」


火から上げ、冷水へすとん。

じゅ、と短い音。

普通なら、そこで木はひび割れる。

割れない。

棒は息を吸うみたいに、静かに水気をはじいた。

「おかしいな」

ラガンが楽しそうに言った。

「おかしい、は誉め言葉ですか」

「鍛冶屋にとっては最高の褒め言葉だ」


炉の熱が少し落ち着いた頃、ラガンが棒を両手で包むように持った。

掌が、木の奥の何かを探るみたいに、押しては戻り、待っては撫でる。

「武器は持ち主を映す。お前の心は、どこへ向いている?」

問いは、俺じゃなく棒に向いていた。

答えたのも、棒だ。

「前。仲間の笑い声のする方へ」

ラガンの眼光が、少しだけ柔らいだ。

「なら、折れない」


それからが、儀式の本番だった。

ラガンは俺たちに役目を配った。

メリアと俺は、ふいご。風の呼吸で火を保つ。

ルミナは水の面を薄く揺らして、温度差をなだらかにする。

ノワは薪の追加のタイミングを、音もなく調整する。

「音を聞け。火の舌が伸びる前、薪は短く、軽く」

ノワは尻尾で木片を押し、風を乱さない角度で滑らせた。

棒はラガンの掌の中で、静かに震えている。

「痛いか」

俺が問うと、棒はすぐ答えた。

「怖い、の方が近い」

「やめる?」

「やめない。怖いのは、途中でやめて“何者でもない”で終わることだ」

──メリアが言っていた言葉に似ている。

怖いから、手を離さない。怖いから、次に行く。

わかる。胃がひっくり返りそうでも、手は勝手に前に伸びる。


「いくぞ」

ラガンが低く告げる。

掌が、棒の真ん中を、軽く叩いた。

ぺち。

──やめろ、その音はトラウマを呼ぶ。

思わず目をつぶった俺の額の前で、空気の温度が変わった。

開けると、棒が──伸びていた。

ぐいっと、空を割るみたいに。

蔦が一気に何かへ巻き付くみたいに、天井の梁に届いて、触れて、止まった。


「伸びた」

メリアが素直に叫んだ。

ルミナは拍手をし、ノワは尻尾をばたばた。

「棒、伸びた」

ラガンは真顔でうなずいた。

「よくあることだ」

「よくあるのかよ」

「“ある”ときは、続けて“ある”ようにしてやるのが鍛冶屋だ」


伸縮自在。便利すぎて怖い。

ラガンはさらに両手で棒を撫で、今度は指先をつまむようにして、すっと引いた。

棒は縮んだ。

「戻った」

「縮むのも、よくある」

さっきから“よくある”の範囲が広い。


機能が増えれば、試しが必要になる。

ラガンは小屋の裏手の斜面を指さした。

「強化の最終確認だ。あの崖の上に吊った鐘を鳴らせ。条件は三つ。走らない。叫ばない。壊さない」

「壊さないが一番むずい」

「だから試練だ」


斜面は、崩れかけの石段が斜めに走っている。

踏み外せば転げ落ちる高さ。

鐘は、上の小さな鳥居にぶら下がっていた。

俺は棒を肩に担ぎ、呼吸を整える。

「走らない」

「走らない」

俺と棒の声が重なる。

足場を確かめながら上へ。

途中、石がぽろっと崩れて足が滑った。

心臓が一瞬で喉まで上がる。

そこで棒が、肩からするりと滑り落ち、ぐいっと伸びた。

先が地面に刺さる。

「支点」

棒が短く言う。

支え。

片足で踏ん張り、体勢を戻す。

……怖い。でも、笑ってしまう。

「棒、便利」

「便利と言うな。誇りだ」


鳥居の前まで来ると、風が一段冷たくなった。

鐘の紐は細く、指でつまむには心許ない。

俺は棒を上へ向け、少しだけ伸ばす。

天井の梁に触れた時みたいに、先が柔らかく曲がって、輪になった。

紐をそっとすくう。

「壊さない、だからな」

「わかってる」

棒の輪が一瞬だけきゅっと締まり、すぐに緩む。

鐘が、ちいさく鳴った。

からん。

山の風の中で、音は遠くへ転がっていった。


下りる途中で、斜面の端がぴし、と鳴った。

嫌な音。

次の瞬間、上の方で小さな崩れ。砂が雨のように落ちてくる。

「伏せろ!」

棒が叫ぶ前に、体が勝手に伏せていた。

頭上から石がいくつか転がり、それを棒が伸びて受けた。

ぱす、ぱす。軽い音。

「弾く。受けない」

棒が淡々と指示を出す。

受け止めたら折れる。弾けば、流れる。

昨日、入口で覚えた“順番”に似た感覚。

下から、支えて、抜かない。

崩れはすぐに止んだ。


戻ると、ラガンが火床の前で腕を組んでいた。

目が、炭から火に戻っている。

「よし」

それしか言わないのに、十分だった。

ラガンの「よし」は、今日の全部を褒めた。


夕方。

鍛冶小屋の前の野原で、焚き火。

火は昼より柔らかい色で、空は昼より深い色だ。

ラガンは肉を串に刺し、塩を少し振って炙る。

匂いに釣られて、胃袋が賛成の挙手をした。

「いただきます」

かじると、肉汁が舌の上で跳ねた。

メリアが目を丸くする。

「塩だけでこんなに」

「火が仕事した」

ラガンは笑って、火に息を吹いた。

火が一段明るくなる。

ルミナが串を持ったまま、ぽつりと言う。

「ねえ、ラガンさん。武器って、強くすればするほど、人を傷つけちゃうの?」

「強くすればするほど、“使い方”が問われる」

ラガンは即答した。

「叩けば、壊す。撫でれば、直す。どちらを選ぶかは、手次第だ。だが、もっと大事なのは引き際と笑いだ。生き延びる奴は、よく笑う」

火が、その言葉に合わせてまた明るくなった。

ノワが尻尾で風を送り、焚き火がちいさく踊る。

「笑いは、防具」

棒が呟く。

「武器より、先に持つやつ」


夜風が山の背を越えて降りてくる。

俺は棒を膝に乗せ、しばらく火を眺めた。

伸び縮みする棒。

便利。いや、誇り。

──でも、本当に知りたいのは、便利の先にある話だ。


「なあ、ルートロッド」

「なんだ」

「お前、本当は何者だ」

少しの沈黙。

火のはぜる音が、ひとつ。

棒が静かに言った。

「名はルートロッド。世界の根の一部だった。昔々、誰かが俺を切り離し、杖にした。根は、地面の下で伸びる。枝は、空に向かって伸びる。俺は、その両方に戻れる」

「戻れる?」

「伸びれば枝。縮めば杖。どちらでも、仲間に手が届く」

ルミナがうるうるした声を漏らす。

「世界の根、って、素敵」

「素敵かどうかは知らんが、腹は減る」

棒の返事が妙に人間くさくて、皆が笑った。


笑いが落ち着いたころ、ラガンがもう一本、串を火にかざした。

「強化は終わりだ。代金は要らん」

「え、いや、それは」

「代わりに、約束を一つ。お前らは、強さを自慢に使うな。“困ってる誰か”に、先に差し出せ」

「差し出す」

俺は言葉を噛み締めるみたいに繰り返した。

「前。仲間の笑い声のする方へ」

棒の言葉を、俺の口で言う。

ラガンが満足そうに目を細める。

「そうだ。それで折れない」


夜更け、鍛冶小屋の片隅で寝床を借りた。

天井の梁に、炭の影がゆらゆら揺れる。

明かりを落とす前、棒が小さく呼んだ。

「カイル」

「ん」

「今日、お前は“押して待つ”を覚えた」

「……うん。叩かないの、難しいな」

「叩かないほうが、あとで大きく変わる」

「わかったような、わからないような」

「明日、わかる」

棒はそれ以上喋らず、ただそこにいた。

わからないことが、少し楽しみになってる自分がいる。

それなら、たぶん大丈夫だ。


翌朝。

出発の前に、ラガンが裏手に呼んだ。

斜面の上に、昨日の鐘。

その手前に、細い丸太橋。

「おまけの課題だ。橋の向こうの旗を取れ。条件は同じ。走らない、叫ばない、壊さない。ああ、それと──」

ラガンがにやりと笑う。

「橋は、少し揺れる」

見ると、丸太の下の支柱が片方、わざと緩んでいる。

「昨日の“押して待つ”がわかるか試す」

挑発の言い方はしない。けれど、目の奥が試している。


橋の前に立つ。

足を置くと、丸太がふわりと沈む。

反射で踏ん張りたくなる。

踏ん張らない。

押して、待つ。

俺は息を落とし、足の裏から重さをゆっくり渡した。

沈んだ丸太が、ゆっくり戻ってくる。

戻るのを待って、次の一歩。

「押して、待つ」

「待って、押す」

棒の声が、背骨の真ん中に落ちた。

中ほどで風が抜け、橋が横に振れた。

腕を広げる。焦って足を出さない。

押して、待つ。

風が抜ける。橋が戻る。

次の一歩。

旗は、手が届く距離に来ていた。

俺は棒を少し伸ばし、旗の棒に輪をつくって、そっと引いた。

からり、と旗が抜ける。

ラガンが、珍しく歯を見せて笑った。

「よし」


街へ戻る道、山の影が背中で短くなった。

メリアが棒を見上げて言う。

「伸びるの、楽しいね」

「楽しい」

棒が即答する。

ルミナが笑う。

「便利」

「誇り」

棒は訂正にうるさい。

ノワが尻尾を一度だけ大きく振った。

「次、何する?」

「働く」

棒が先に言った。

「笑えるために、今日も働け」

それ、最近よく言うな。

でも、好きだ、その合言葉。


街に入る手前、道の脇で小さな子どもが転んで泣いていた。

足元の溝に、玩具の輪が落ちている。手が届かない。

俺は棒の先を少しだけ伸ばし、輪をそっと引き上げた。

「はい」

子どもが泣き止んで、鼻をすすりながら笑った。

「ありがとう、お兄ちゃん。棒、すごい」

「棒がすごいんじゃない。……まあ、棒もすごい」

子どもがくすっと笑う。

笑い声は、小さいのに、遠くまで届く音だ。


ギルドに着くと、掲示板には新しい依頼が三つ。

「学院・水の訓練補助」「広場・屋台修理」「近郊・橋の見回り」

橋。

俺は思わず一枚を引き抜いた。

「行く?」

ルミナが尋ねる。

「行く。押して、待つを教わったから」

「教わったやつを、使う日」

メリアが帽子を傾ける。焦げ穴は増えたが、誇りが似合う帽子だ。

ノワがいたずらっぽく笑った。

「帰りに食堂寄ってく?」

「胃袋の外交、またやるのか」

「外交は続けると効く」

「外交予算は?」

「笑顔は無料」

ルミナが胸を張る。

棒がこつん、と床を叩いた。

「請求書は来ない」

「珍しく強気」


夕暮れの風が、山から街へと降りてくる。

俺は棒を肩に担ぎ、皆より半歩だけ前に出る。

前。仲間の笑い声のする方へ。

伸び縮みする棒で、届かなかったところに少しずつ手を伸ばす。

押して、待つ。

叩かず、撫でる。

そして笑う。

生き延びるために、笑う。

それが今日、伝説の鍛冶屋から受け取った“強化”だ。


「さ、働くか」

俺が言うと、三人と一本が同時に頷いた。

返事が揃う音は、鍛冶場の火みたいに、胸をあたためる。

明日が、今日よりも少し楽しくなる気がした。

いや、なる。

そのために、今日もちゃんと手を動かす。


初期装備。サビた木の棒。

でも今は、世界の根の一部。

誇りを、肩に担いで歩く。

笑って、強くなる。

強くなって、また笑う。

そういう順番で。

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