第7話 放課後の特訓

 放課後の校庭は、今日も夕焼けに染まっていた。

 運動部の号令が遠くで重なり、サッカー部の掛け声に吹奏楽の音階が混ざる。砂の上には低く長い影が伸び、鉄棒の横では小さな風鈴みたいに縄の端が揺れている。グラウンドの隅、石灰の白線の外側に、四人分の足跡が重なっていた。

「今日は基本の動きだ。春斗、お前は“守りの力”に頼りすぎだ。体を動かせ」

 蓮が短く言い、木の棒を一本差し出す。仰々しい武器ではない。倉庫の隅で出番を待っていた、ただの長い棒。けれど、ただの長い棒は、相手を選ばない。扱う人間の方を試す。

「相手を倒すんじゃない。味方を守る位置を考えるんだ」

 春斗は受け取った棒を、ぎこちなく構えた。脇が開く。蓮が顎で指す。脇を締める。今度は近すぎる。肘に力が入る。蓮が眉をわずかに動かす。肩の力を抜く。抜きすぎて棒が下がる。芽衣が笑う。

「ドンマイ。棒は友だち。怖がらず、でも甘やかしすぎず」

「育児本みたいなアドバイスだな」

 蓮は片手で棒を持ち、軽く打ち込んできた。ほんの軽さで、しかし芯だけはぶれない。打面の向きがきれいにこちらを向いていて、音が澄んでいる。

 春斗は最初の一撃を受け損ね、棒の端をすべらせて、砂に足をとられ、後ろへころりと転んだ。砂の感触が背中に染みる。青空の色が、目の前で斜めになる。

「よし、一回転がったから、最初の恥は済んだ」

 芽衣が明るく宣言する。「恥は最初にやっつけとくと楽だよ。あとは惰性」

「惰性で守れたら苦労しない」

 春斗は息を吐き、膝についた砂を払って立ち上がる。棒を持ち直し、今度は両手の幅を少し広げる。蓮がうなずいた。

「視線。相手の手だけを見るな。肩、足、空気の流れを見ろ」

「空気、見えない」

「見えるようにする」

 説明は乱暴だが、言いたいことはわかる。息を吸う。吐く。

 蓮の二撃目。今度は棒の胴で受けて、衝撃を逃がす。足が遅れて砂を擦る。三撃目。肩の力を抜ききれず、打突が肘に刺さる。痛い。だが、痛いは合図。

 繰り返すうちに、少しずつタイミングが合ってきた。棒の端が振動するたび、手のひらに伝わる硬さが、さっきより丸く感じられる。汗が首筋を伝い、息が荒い。夕陽が傾きはじめ、風が昼の匂いから夜の匂いに変わっていく。

「位置、位置、位置」

 蓮が足で砂を蹴り、簡単な丸印を四つ描いた。

 一つは雪乃の立つ位置の足元。もう一つは春斗の足元。残りは左右。蓮は棒の先で丸から丸へ線を引く。

「ここからここへ、一歩で行け。二歩かかったら遅い。三歩なら、もう間に合わない」

「一歩、二歩、三歩……」

「数えるな。置くんだ。先に」

 置く。対象を先に置く。訓練場でもやったことだ。

 春斗は小さくつぶやく。

「雪乃の右肩。雪乃の左手。扉の前、半歩」

 棒を持った腕より先に、胸が前に出る。足がその次に出る。

 蓮は軽く棒を打ち、春斗はそこに板を造るように意識を置きながら、同時に棒で角度を作る。受け流す。

 受け流す、という言葉が、急に自分の体に似合う気がした。

 迷いの少なさが、足に移る。

「それ」

 雪乃の声が近い。

 彼女は両手を上げ、小さな氷の輪を作った。指先の間の空気が白く撫でられ、薄い円がふわりと生まれる。

 輪はひとつではなく、ふたつ、みっつ。春斗の周りにほどけるように浮かぶ。

「これは守りの練習。春斗くんの力に合わせて動かすの。私の輪は、勝手には強くならない。合わせると、強くなる」

 蓮が再び棒を打ち込む。

 氷の輪が軽く音を立てて受け止めた。打撃が輪に触れた瞬間、輪が春斗の意識の板と同じ角度に傾く。重なる。手ごたえが変わる。

 蓮が短くうなずいた。

「連携だな。その調子で、守る範囲を広げろ。輪の数を増やすより、質を上げろ」

「質?」

「的確さ。どこに、どの角度で、どの厚みで必要か。守り過ぎるのは、攻め過ぎるのと同じくらい愚かだ」

「う……」

 図星だ。何でもかんでも壁にしてしまえば安心だけど、その壁が味方の動きを邪魔することもある。守るのは、置くこと。置きすぎないこと。

「じゃあ、私は輪を少し小さくする」

 雪乃が輪の大きさをぴっと縮める。

 春斗の腰の高さ、胸の前、足元。三つの輪がそれぞれゆっくり回って、蓮の棒が当たる角度を先回りして変わる。

 芽衣がそれを見て口を丸くした。

「なるほど、これが噂の“共同作業”ね。青春の象徴。汗と輪っか」

「語彙が独特」

「いいだろう、独特」

 蓮は棒をしまい、今度は手で攻めるふりをした。肩でぶつかる、足で位置を奪う、視線で揺さぶる。

 春斗は棒を置き、素手で対応する。肩にかかる圧を腰に流す。踏まれそうなつま先を引く。目で嘘をつかれそうになったら、目の代わりに言葉で決める。

「芽衣の頭上、半歩。雪乃の背中、指二本分」

「指二本、って何の単位」

「俺の」

「ロマンチックかどうかの判定に困る単位だ」

 芽衣が笑うと、雪乃が恥ずかしそうに輪の速度を少し上げる。輪はくるりと加速して、蓮の肩の突きを跳ねた。

 蓮はそこで一度、手を止める。呼吸は乱れていない。髪が微かに揺れただけだ。

「春斗。悪くない。だが、まだ遅い。自分の守りに気を取られて、全体が遅れる」

「わかってる。わかってるけど、足がついていかない」

「足に頼るな。置け。置いたところに、足を後から当てろ」

「置く、置く……」

 春斗は目を閉じた。

 声にしない声で、地図を描く。

 雪乃の右肩。雪乃の左手。芽衣の首筋。蓮の背中。自分の胸骨。地面の白線の内側、半歩。

 目を開ける。

 夕陽が薄くなる。風が冷たい。砂が足の裏に軽くまとわりつく。肩の力を抜く。

 蓮が来る。

 春斗は半歩先に板を置き、そこへ肩を滑らせた。遅れが、少しだけ縮む。

「よし」

 蓮が短く言った。褒め言葉は短い方が効く。

 そこからは、数で攻められた。

 棒、素手、棒。輪、板、輪。

 雪乃の輪はときどき薄くなり、春斗の板はときどき厚すぎた。蓮はわざとフェイントを大きくして、二人の呼吸をずらす。ずれる。追う。置く。合わせる。

 砂の上に、靴跡が迷路みたいに重なっていく。

 夕陽が地平線に溶け、空が群青に染まりはじめるころ、春斗の動きに、さっきまでなかった“迷いの少なさ”が芽を出した。

 決めるのが、すこし早い。

 決めた後に、足がついてくるのも、ほんのすこし早い。

「休憩!」

 芽衣が差し入れのジュースを掲げて走ってきた。

 ラベルが汗でしっとりしている。冷たい水滴が掌に嬉しい。春斗は一気に半分を飲み、喉の真ん中がほっとする。雪乃も一口飲んでから、キャップをまた閉めた。頬が少し赤い。輪を回している間に上気したのか、夕焼けのせいか。

「二人とも、いい感じじゃん!」

「まだ全然だよ」

 雪乃は謙遜するけれど、輪の出方は最初と違う。迷いが薄い。

 芽衣がにやにやする。

「あー、これは青春ってやつだねぇ。汗と輪っかと息と目線。あと、蓮の地味な指導」

「地味と言うな」

「地味は褒め言葉。じんわり効く。あと、蓮は今日、三回しか笑ってない。珍しい」

「数えるな」

「数えるのが趣味」

 休憩の間、蓮はメモ帳に簡単な図を書いて見せた。丸が四つ、線がいくつも。

 春斗と雪乃の位置、蓮が突っ込む角度、芽衣が横から投げるボールのコース。全部、単純な丸と線だけど、目で見ると急にわかりやすい。

「守りの線は、太いほど安心に見えるが、太すぎると味方の動線を潰す。必要な太さは状況による。バターは塗りすぎるより、塗る場所を選べ」

「例えが急にパン」

「腹が減っただけだ」

 芽衣がかばんから袋をひとつ取り出す。

 焼いた小さなパンの皮の匂いがふわりと広がる。練習前に「食べると眠くなる」と没収されていたやつだ。

「バターはないけど、気持ちで塗って」

「気持ちで塗るって何」

「笑顔で食べると塗られた気になる」

 笑って食べる。砂が少し混じった匂いごと、今日という時間の味だ。

 休憩が終わると、蓮はわざとグラウンドの外の街灯を指さした。

 灯りがひとつ点る。もうひとつ。校舎の窓にも光が入る。

「暗くなる。暗いと、影が増える。影が増えると、想像が勝つ。勝つのはいいが、踊らされるな」

「影に踊らされたら、どうする」

「合言葉は?」

「逃げるが勝ち」

「その通り」

 再開。

 今度は雪乃が先に動いた。輪の大きさをさらに小さくし、数を増やさずに角度だけを刻む。精度を上げる。

 春斗は板を厚くしない。薄く、しかしはっきり。

 蓮は攻める角度を変えて、二人の連携の継ぎ目を探す。継ぎ目が現れるたび、雪乃の輪が先に埋め、春斗の板がそこに遅れず重なった。

 芽衣は横でメトロノームみたいに手を振り、「はいはいはい」とリズムを刻む。全員の呼吸にリズムが生まれる。

「いいぞ。春斗、もう一歩だけ前だ」

「前」

「そう。置け」

「置く」

 言葉と足音が重なり、遅れがさらに薄くなる。

 棒の打撃が来る前に、板がそこにいる。輪がそこへ傾く。

 砂煙が低く上がり、夕闇の中で薄く光った。

 腕が重い。喉が痛い。けれど、体の中心に小さな火が灯っている。燃えすぎない、指先を温める火だ。

 最後のひと回しを終えるころ、空はすっかり群青になっていた。

 校舎の窓にぽつぽつと灯りがともり、グラウンドには夜風が通る。鉄棒の影が長くなり、砂は夜の匂いに変わる。

 蓮が棒を肩にのせ、短く言った。

「お疲れ。よく頑張った。春斗、今日はここまで。雪乃、輪の精度は良かった。芽衣、声がでかい」

「褒められた」

「褒めてない」

 それぞれ笑い、汗を拭く。

 蓮は先に帰るらしく、腕章を外してポケットに入れた。去り際に、こちらを振り返らずに言う。

「明日、もう一段階上げる。守る対象を“場所”から“時間”にも広げろ」

「時間?」

「『三呼吸の間』を守る、と決めてみろ。守り方が変わる」

 蓮は手をひらひらさせ、部室棟の方へ消えて行った。背中の線は最後まで乱れなかった。

 グラウンドに残った三人。

 雪乃が片づけの水を手に取り、こぼれた砂を軽く均す。芽衣は輪っかの残光を追いかけるように、親指と人差し指で輪を作っては覗き込み、ばかみたいな顔で笑った。

「輪だ。見える。私にも輪が見える気がする」

「気がする、はだいたい気のせい」

「気のせいでも幸せなら勝ち」

「強い理論」

 雪乃は帰ろうとしたが、少しだけ立ち止まった。風が彼女の髪をやさしく持ち上げ、輪の残りがきらりと光って消える。

「春斗くん」

「ん」

「ありがとう。怖くても逃げなかったね」

「……怖いよ。めちゃくちゃ。でも、逃げたくないだけ」

「それで十分」

 雪乃は、笑った。小さく、でも確かに。

 しばらく無言で並んだ。グラウンドの端で、誰かがボールを蹴り返し、遠くのフェンスが小さく鳴った。空気がひとつ冷え、肺に入る夜の匂いが増える。

「明日、時間を守る練習も、やってみよう」

「三呼吸の間?」

「うん。三呼吸の間、君の右側の半歩を守る、みたいに」

「わかった。三呼吸の間、雪乃の左手の指二本分」

「その単位、好きだよね」

「好き」

 芽衣が口笛を吹いて、「青春の単位、指二本」と勝手にメモした。

 校舎の影。

 誰かがそれを見ていた。

 風の向きが変わったとき、ほんの一瞬だけ、黒い輪郭が夕闇を切り取った。深い帽子の影、薄い唇の線。肩で風を切るように、男は無線機に口を寄せる。

「準備は進め。次は文化祭の夜だ。灯りが多いと影も増える。彼らの守りは“場所”に慣れてきた。時間をずらせ」

 無線の応答は短く、乾いていた。

「了解」

 黒薔薇の残党。

 その名は、まだ校内の誰の口にも登らない。けれど、誰かの影の端に、確かにかたちを作りはじめていた。

 —

 寮に戻る途中、春斗たちは購買の脇で立ち止まった。

 自動販売機の明かりに虫が寄り、夜風に落ちていく。芽衣が突然、空を指さす。

「今夜は星が多い」

「雲が少ないから」

「文化祭の夜、星はどうかな」

「星より灯りが多い。多いから、影も増える」

 春斗は蓮の言葉を思い出していた。

 守る対象を“時間”にも。

 文化祭の夜。灯りと影と、音楽と人混み。

 目に見えるものが増えるほど、見えないものも増える。

 逃げるが勝ち、の道を置いておく。

 守る線を、地図に描いておく。

 指二本分の左手と、半歩の右側と、三呼吸の間。

 笑いながら、決めておく。

「先輩、今日も飴ありますかね」

「ある。きっと窓辺に置いてある」

「夜風用?」

「うん。夜風が甘いと、ちょっと楽」

 芽衣の理屈はいつも少しおかしいのに、なぜか正しい。

 春斗は笑い、雪乃も笑った。笑いは輪の跡を追うみたいに、足元に小さな光を残す。

 窓のない夜の校舎が背中で小さく息を吐き、グラウンドの砂は、今日の足跡をそっと平らに戻していった。

 部屋に戻ると、先輩はやはり飴を窓辺に置いていた。

 「今日の味はミント。夜風向け」

 「夜風の気持ち、わかるんですか」

 「風の話し相手を長くやってると、なんとなく」

 先輩のうそみたいな本当みたいな言葉を半分だけ信じ、春斗は飴を口に入れた。ミントの冷たさが、喉の奥の熱に触れて、ほどよい距離で落ち着く。

 ベッドに横になり、今日の地図を胸の裏に広げる。

 輪。板。半歩。三呼吸。

 文化祭の夜。

 影に踊らされないように、先に決めておく。

「明日も、守る時にする」

 声に出さずに言って、目を閉じた。

 夢の中の塔は、以前より輪郭がはっきりしていた。雪乃が振り返り、胸元の銀色に触れたとき、時間が一枚、薄くめくれた。

 遠くで、見えない誰かの声が、「ずらせ」と言う。

 春斗は、その声とは別の声で、「置く」と返した。

 守る対象を、先に置く。

 夢の中でも、同じ練習。

 起きたらきっと、少しは速くなっている。

 そう信じるくらいには、今日の汗は、いい匂いがした。

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