からりとした空気が清々しい、初夏の宵だ。ロクナヴァール城下の街が祭りのような賑やかさなのは、平常のことである。


 店先には煌々と明かりが灯され、隊商の商人たちは憩いを求めて集う。遠方から交易路を通じてはるばるやってきた彼らは、ロクナヴァールの誇る美酒に酔い、夜の城下を謳歌していくのだ。

 

 ソラヤは一軒の賑わっている酒楼メイハーネへと足を踏み入れたのだった。


 後宮から抜け出した不届者が真っ先に向かうのは裏路地のような暗い場所、と大抵は相場が決まっているものだ。


 ならば、明るい酒楼に入るのは、案外に賢い選択かもしれないとソラヤは考える次第。人目につくからこそ、かえって目立たない……そういうことにしておく。

 

 一枚板の木扉を開けると、ナツメヤシの実の黒糖にも似た甘い香り、それに、焼いた羊肉のかぐわしい匂いが、空腹を刺激する一陣の風となって、ふうっと吹きつけてきた。


 ソラヤは、風を胸いっぱいに吸い込んでみる。

 

 そして、ぐるりと店内を見回す。


 まず、磨かれたクルミ材のテーブルが天井の梁から吊るされた銅ランプの橙の光をなめらかに跳ね返している様子が目に入った。


 壁沿いの棚には、酒や蜜漬け果の玻璃瓶がずらりと。


 奥のくりやの方を覗いてみれば、干した香草サブジの束がいくつも吊るされていた。


 客たちは、卓を囲んで雑談に花を咲かせながら酒を飲む。そのあっけらかんとした光景に、ソラヤはひとしきり目を奪われていた。


 自分が見てきた世界は、石と漆喰に囲まれた重々しくつまらない後宮ばかり。誰かと会話するのもはばかられるような、重苦しい沈黙の世界だった。

 

 さて、壁際の一席に腰を下ろし、葡萄酒シャラーブを注文してみる。樽から注がれる芳醇な醸造香が鼻をくすぐる。


 生を実感するには、酒を飲むのが一番。自分が後宮妃という檻から解放された祝福を、ひとしきり噛みしめるべし。


 シャラーブの玻璃杯を口に運ぶ。深紅の液体が喉を伝って、胃に落ちていく。ぽうっと、身体の芯から、あたたまっていく。これが自由の味であるならば、甘すぎるくらいだった。

 

「こんな宵に酒楼で一人とは、珍しいね」

 

 突然、耳に心地いい低音の声が、左隣から聞こえてきた。ソラヤは、はっとして顔を上げた。


 身を固くしつつもそちらに視線を向けてみれば、軍服姿の男がいる。どこからどう見ても騎士である。


 彼の瞳には、面白がっている好奇心。それと少しの疲労か、退屈か。いずれにせよ、ソラヤを咎めに来た番犬の目ではないことだけは察せられた。


「ええと……」


 ソラヤは言い淀む。チャイを溶かした色の髪を無造作になびかせた青年。夏の湖水めいた碧い目は、鋭さとどこか倦怠の雰囲気を帯びているようだった。

 

「おれも一人で飲むには退屈でね。隣、いいか?」

 

 その大胆さには、色男というのはこうも女と距離を詰めるのが上手いのか、と、いっそ感心するほどだった。


 なぜか不思議なことだが、ソラヤは彼の振る舞いに嫌な気持ちを覚えないのだった。


「…………」

 

 それに、とソラヤはふと思う。


 もしここで誘いを断れば、向こうに怪しまれて因縁をつけられるかもしれない。ソラヤは今、厄介事を抱えている暇はない。


 ただでさえ目立ちたくないというのに、一人で酒を飲む女というだけで、充分怪しいのだ。


 しかし。話し相手がいれば、ただの仲睦まじい男と女に見える。木を隠すなら森の中に、ということわざがある。ならば、自分も人垣の中に隠れるべきだろう。

 

「どうぞ」

 

 と、ソラヤは青年が隣席に座ることを許可した。


 すると、彼はすぐさま「ありがとう」と手際よく椅子に腰を下ろす。その顔立ちは見れば見るほど端正なのだった。しかしながら、表情にはどこか影が差す。何かを抱えているらしい。

 

「名は」

 

 聞かれて、名乗りは流石にためらう。それでも、数瞬考え直してから、やはり名乗ることにした。偽名を使うべきかとも頭によぎったが、とっさにはそれらしいものを思いつかない。


 自分の名は、ロクナヴァールではありふれていて、それほど珍しくはない。後宮妃であると特定できる要素はこれきしもないはずだ、と自分を納得させる。

 

「ソラヤ」

 

 すると、青年はナツメヤシ果汁入りの麦酒アーブジョーを口にして、満足げなため息をついた。


 よく日焼けした小麦色の肌。加えて、彫像をそのまま引き連れてきたような引き締まった身体だ。その腰にいた長剣の黒鞘には、翼を広げたシャヒーンの意匠が刻印されている。

 

「なるほど、『すばるソラヤ』か。いい名だ」


 彼の美声に自分の名を転がされて、ソラヤはなぜかくすぐったい感覚になった。

 

「それで、あなたは」

 

「カイ……だ」

 

 ソラヤは、その短い名に少し首を傾げた。

 

「へえ、『土星カイヴァーン』のカイ?」


 それなら心当たりがあった。後宮に入る前に別れた元婚約者と同じ名前だったからだ。髪色と瞳の色は、カイとよく似ていた。似ているだけの、他人。


 これからも、本人と出くわすことはきっとないだろう。戦争が終結したとはいえ、元婚約者が生きてソラヤの元へやってくる確率を思えば、その確信はますます深まるばかり。


 そもそも、五年前の元婚約者は豆の苗のように細っこい少年だった。二歳も年下のひょろひょろだった彼が、眼前のぜんとした逞しすぎる偉丈夫のわけもなく。


「さて、どうだろうな」

 

 カイは意味ありげに、薄い唇を笑ませる。ソラヤは彼の妖しげな表情に、元婚約者の朴訥とした面影を見出せなかった。

 

英雄カイホスローのカイかもしれない」

 

 とぼけているのか、本当に秘密にしたいのか。しかしソラヤは追及しなかった。隠し事を抱える者には、他人の名を詮索する資格がないだろう。それに、名前の由来など、まずどうでもよかった。

 

「星同士なら、話が合いそう」

 

 ソラヤがぎこちなく微笑んでみせると、カイもにやりと唇の端を吊り上げた。その笑顔は、やはり、元婚約者とは似ても似つかない。こんな計算高い表情をするような彼ではなかったのだ。


 ソラヤは、内心でため息をついて、元婚約者の記憶を振り払い、視線の先の青年に集中することにした。


 二人で、しばらく無言のまま酒を飲んだ。なぜか、沈黙も苦痛ではなかった。むしろ心地よく、会話しなくとも互いの存在を邪魔に感じない。どれくらい黙っていただろうか、カイが先に口を開く。

 

「さて、きみは少し浮かない顔をしている。何かあったのか」

 

 そう、カイに問いかけられ、ソラヤは目を見張った。そんなに顔に出ていたのかと思うと、恥ずかしい。

 

「どうして」

 

「いや、なんとなく、そんな気がしてな」

 

 カイの声には、どこか奇妙な優しさがあった。この男になら話してしまってもいい、と思わせる魔力のような何かが。


 だが、話すわけにはいかない。自分が後宮からの逃亡者だと知れれば、たちまちに捕まってしまう。

 

「今日は、ただ飲みたくなっただけ」

 

「そうか。いい夜だものな。おれも同じさ」

 

 ソラヤも杯を傾ける。深紅の絹のような口当たりは、初夏の宵闇に溶けていくようだった。

 

「ねえ」

 

 ソラヤは勇気を振り絞って口にした。酒精アルコールがそこはかとなく背中を押してくれて、自分でも嬉しい困惑を覚えていた。

 

「上に宿部屋があるから、続きはそこで話さない? この時間から城下をうろつくのは危ないでしょう?」

 

 少しばかりの計画変更。つまりこれは、新帝に捕まったとき、求婚を断るための確実な手段となる。


 処女でない女など、高貴の極みである皇帝が妻に迎えるわけがない。そう自分に言い聞かせた。


「ね、どう?」


 カイは湖水色の目を見開いていた。

 

「それは、そういうことか」

 

「あなた、野暮ね」

 

 ソラヤはまた微笑んだ。今度は自然とこぼれた笑みだった。彼との出会いは、星と星が重力で惹かれ合うのにも、あるいは似ているかもしれなかった。

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