薔薇色な妃のご迷答

古酒らずり

酒楼の邂逅

 ロクナヴァール帝国先代皇帝の崩御は、あまりにも突然の出来事だった。


 戦争直後のことであったので、民心をいたずらに混乱させぬよう、葬儀もあっさりとしすぎていたほどだ。

 

皇帝陛下シャーハンシャーは結局、一度も顔を見せに来ないまま崩御されたのだけど!?」


 したがって、皇帝は、正しくは「先帝」だ。先帝の治世は可もなく不可もなく。取り立てて善政を行ったわけでも、悪政を敷いたわけでもない。良くも悪くも、印象に残らない治世だったというほかにはないのだ。


 ソラヤは困惑に包まれている。何せ、一身上の都合で勝手に後宮ハレムに呼びつけられておいて、一夜も迎えないまま、先帝は別の寵姫との腹上死でぽっくり逝ってしまったのだから。


 これでは、ソラヤは何のために家族と涙ながらの別離をしたのか。生涯、家族たちとは会わない覚悟まで決め込んでいたというのに。


 これでは、全ての悲劇が喜劇にすり替わってしまう。まあ、それでも、寝所番がついぞ来なかった点においては、いささかの救いがあったのだろう。


 何はともあれ、ソラヤのあるじになるはずだった男は、死んだ。ソラヤは、自由の身になった。


 ソラヤ妃──寵姫ではなかったので「妃」と称号をつけることすら怪しいところではあるものの──彼女は今年でよわい二十三。


 五年前、十八歳のときに後宮に連れてこられた後宮妃である。


 ソラヤはしがない商人階級フトゥフシャーンの娘として生まれ、いたって平凡ながらも、人並みの幸せな日々を送っていたはずだった。


 そんな生活が一変したのは、隊商カラワンに出資していた商人の父が、事業に失敗したときである。


 ある日、出資していた隊商が賊に襲撃され、積荷を全て逸失してしまったのだ。商品がなくなれば、売るものもなく、出資を取り返すことはできない。


 不幸はそれだけではなかった。その上、父は病で臥せってしまったのだ。


 一家は借金取り以外は来客のない閑古鳥が鳴くように。困窮にあえぎ、爪に火を点すような生活を強いられることとなった。


 しかしながら、そんな苦しい生活も、解決方法らしいことが一つだけあった。ひどく歪んだ方法ではあったが。


 つまり、長女のソラヤが後宮に入れば、家族には多額の報酬が支払われるということである。


 報酬に提示されたのは、借金返済どころか、父の病の薬代を一生分買うことのできる金額の金貨ディナールがぎっしりと詰まった革袋だった。


──ソラヤを犠牲に、他の家族は、助かる。


 一家はこの命題に懊悩することとなった。そして悩んで悩みぬいた末ではあるものの、金貨の革袋を前にして、ソラヤは単なる商品に定義されてしまった。


 こうしてソラヤは泣く泣く後宮入りを果たすことになったのだ。


 五年だ。後宮入りしてから、五年が経った。ただ、日がな庭園の薔薇ゴレソルフの世話をしているだけでも給金はもらえた。


 拍子抜けしてしまうような皇帝の死。後宮妃たちの見るに堪えない寵愛争いとも、退屈極まりない壁に取り囲まれた生活とも、これで晴れておさらばだ。給金も、当面の生活には困ることのなさそうな、そこそこの額が貯まったことだ。


 ようやくさっぱりと後宮暮らしから逃れられると思っていたのだが、その見立てがあまりにも甘かったことを、ソラヤは知る。

 

「それで今度は、新皇帝の妻ね。つまり、皇妃マラケとでも呼ばれるのかしら」


 与えられた後宮の私室。ソラヤは不機嫌そのものと化して、木製の低いテーブルを指の関節で、とんとん、と軽く叩いていた。


 先帝の後継である新皇帝の命令だ。ちなみに、新帝の即位式は日取りがまだ決まっていない。正式にはまだ彼は皇子であるのだが、便宜上、皆は新帝として扱っているという。


 ソラヤは新帝に会ったことすらもなく。すなわち、会ったこともない人物の性格を知りようもない。


 こちらが単純に怒って断れば、新帝に給金を減らされるどころか、没収される可能性すらある。それは避けたい。


 今一つ、反感ばかりが募っていく。こちらも何か痛烈な反撃をできないものか。


「私は皇妃候補。それで、合ってるわよね?」


「ええ、そうです、ソラヤ妃」


 答えたのはソラヤ専属の侍女ナディーメであるライラーだ。楚々とした侍女の制服に身を包み、立ち姿は、ちょうど、玻璃の一輪挿しを彩る白薔薇の花のようである。


「庶子皇子出身の方だそうですよ。五年戦争で大活躍されて、これからは新皇帝として君臨なさいます」


「つまりは成り上がり者ってわけね。私も成り上がれとおっしゃるのかしら」


 ソラヤは薄桃色に染まる薔薇の花びらを一枚、むしり取った。この季節は花びらをたっぷりの砂糖で煮て、薔薇ジャムモラバエゴルにするのが密やかな楽しみである。


 ロクナヴァール産の薔薇は、香りがよく、蜜すらも甘い。蒸留して精製した薔薇水は、冬の間に氷室に貯めておいた氷を贅沢に使った氷蜜水シャルバットにも、もってこいなのだ。


「どうせまた、顔も見ないうちに崩御されるんじゃないかしら。それなら、面倒な顔合わせなんて一切を省略してほしいものだけど」


「そのような、いたわりがないこと、おっしゃらないでくださいまし。新帝陛下は、若くてお美しいと、皆に噂になっていますのよ」


「ふうん、そう。若さも、美も、そとづらだけのことでしょうに」


 ソラヤは興味をすっかりなくして、薔薇の花びらをもう一枚むしった。


 美しかろうが醜かろうが、どうせ政略結婚である。こんなもの、また新しい檻が用意されただけのこと。その上、政権と継承の争い。こればかりは明らかに醜い。


 それに、心の片隅で、まだあの人のことを待っている……いや、もうやめだ。


 五年も経ったのだ。騎士アスワール見習いだった「彼」は、とうに戦死しているかもしれないし、どこかで立派な騎士になって別の女性と幸せに暮らしているかもしれない。


 もし、生きているのなら、きっとそうに違いないし、そも、生きているだけで充分なのだ。


 とうに諦めはついている。後宮妃になったときに、捨てたはずの感情だった。


「ところでソラヤ妃、お召し物はいかがなさいますか。明日の服装は、こちらでございますが」


 ライラーが、白絹に金糸の刺繍で縁取りした派手やかな装束を持ってきた。新帝との顔合わせのための正装だ。


 それをソラヤは、「まあ、見た目だけは素敵ね。きっと新帝陛下と、お揃いになれるわ」と冷笑して、藍染めの質素なドレスレバースを身にまとった。


「これにする。今から外出するわ」


「私もついていきます!」


「いえ、いいの」


 ソラヤはライラーのお供を断って、一つ重いため息をついた。さらに、レバースの上から頭巾付きの外套を羽織る。


 まず、ソラヤには、一つの腹案があった。ちょうど後宮がその新帝陛下によって無駄な組織だと解体されたばかり。それを有効活用してやるのが、意趣返しというものだ。


「ちょっとばかり、外の空気を吸いましょう」


 ソラヤの計画は実に簡単だった。


──三十六計逃げるにかず。

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