第14話 結べなかった巫女、抱かれた女
それは、ごく些細な数字の揺らぎだった。
仮設神環拠点の霊環解析台で、綾音が眉を寄せていた。
「……継縁反応、再計測してみましたが……やはり、おかしいですわ」
レンと響が覗き込み、八雲も後ろから視線を落とす。
神環式の定義によれば、巫女と媒介者との間に儀式を経た後、霊環における縁圧、いわば神縁リンクの強度値は一定以上まで上昇するはずだった。事実、レン、綾音、響、いずれも八雲との儀式を経たのちに、その数値は明らかに神技適合閾値を超えていた。
ただひとり、玲を除いて。
「値が……上がってない?」
レンが問い、響が静かに頷く。
「むしろ、わたしより低いくらい。……まだ抱かれてないことになってるみたい」
「いえ、霊素残留の反応はちゃんと出ていますわ。……ただ、肝心の縁の結びが、霊路構造に定着していないのです」
「じゃあ、八雲さんと玲さんが……何回、してても……」
「結ばれていないという判定になりますわ」
その場に、沈黙が落ちた。
「……おっかしいな。結構、濃かったと思うんだが」
当の本人、夜鷹玲が、湯飲みを傾けながら部屋の隅で足を組む。
「お前らだって、聞いてたろ? あたしと八雲のあえぎ声。結界越しに」
「っ……そ、それは……」
レンが頬を染めて視線を逸らし、響も「……聞こえてた」と小声で呟いた。
「霊圧も、流れてたよ。間違いなく、結ばれてたって音で」
「でしょうよ。じゃあなんでさ、結ばれてないとか言われんのかね?」
あっけらかんと笑う玲。だが、その目元だけがわずかに動いていた。
八雲は、その表情を見逃さなかった。
いや、違う。玲はあれを笑い飛ばしていない。……たぶん、自分でも気づいてる。
八雲は一人、考える。元ゲームでの玲の設定について。
玲……夜鷹は、神環ノ縁の中でも性欲イコール戦闘力を最も象徴するキャラだった。誰とでも寝るが、誰にも染まらない。だけどそれが最強の証だった。
高い快楽適応性。接続率上昇率最大。リンク維持最長。あのゲームにおいて、戦闘における神縁性能は、実装より長らく玲がトップだった。
ある意味でR18ソシャゲとしての方向性を探る上での観測気球的なキャラクターが夜鷹玲だったと言える。結果として反発するユーザーは想定以上に多く、彼女以降は主人公以外と肉体関係を持つ、持ったことを明示したキャラクターは実装されていない。
だからこそ、玲の性に奔放かつ経験値の高さというのは戦闘力を裏付ける設定だったはず、しかし……
「……玲」
「気づいてたよ、ずっと前から。八雲と寝た夜、あんたが触れ方を変えたことも、あとの女たちとの夜に、感情の重さが加わってったことも」
玲の声は、どこまでも静かだった。
「……でも、あたしがどれだけ腰を振っても、どれだけ喘いでも、どれだけ自分から求めても、誰とも繋がらなかった。快楽だけが抜けてって、心は、空っぽのままだった」
指が震えていた。
それを見せないように、足元の床に目を落としたまま。
「今さら、そんなこと言ったってさ。笑われるだけだろ? ヤッた数なら一番のくせに、何言ってんだよって」
八雲は言葉を返せなかった。
返せる言葉が、なかった。
「だからさ、あたし、霊環の数値なんか、気にしねえって思ってたのに、結ばれてねえって言われると……なんでだろうな」
泣きたくなるほど、悔しいんだよ。
その言葉は、声にならなかった。
だが、すべての者が、その想いを、確かに感じ取っていた。
そして、その夜、玲は何も告げずに姿を消した。
◇ ◇ ◇
湿った空気のなかに、微かな穢れの気配があった。
都の西端に位置する古井戸跡。いまや人の立ち入らぬ霊災指定区域の外縁部で、玲はひとり、その臭いを嗅ぎ取っていた。
「……ここだな」
独り言のように呟きながら、剣を抜く。
抜刀の動きに迷いはなかった。
が、胸の奥には、かすかな沈みが残っていた。
あとはあたしの自慢できるものといったら、誰よりも前線で戦ってきた経験だけだ。その経験をさらに高めるしかねえ。
結界の縁を踏み、足を進める。
肌にまとわりつくような霊の残滓が、皮膚の内側まで染み込んでくる気がした。
情報では、小型の群体式異構種。だが、過去に複数の巫女が単独撃退していると報告にはあった。
あたしなら、余裕のはずだ。
そう、自分に言い聞かせた瞬間だった。
ザリッ。
足元で、音が割れた。
枯れ枝ではない。霊素の粒が砕ける、異常反応。
次の瞬間。
「来るか!」
飛び退き、剣を構える。
霧の中から這い出すように現れたのは、黒ずんだ瘴気にまみれた群れだった。
数が多い。いや、それだけじゃない。
視界に映る穢音虫たちは、霊圧に反応するように牙をむき出し、蠢いている。
霊環に縁がないものを、探しているかのように見える。
……あたしか。
もちろんそんなことがあるはずがない、しかし今の玲にはすべての事象が劣等感を苛んでしまう。
媒介者と、結ばれていない。
今の自分は、巫女ではない。
その一瞬の躊躇が、命取りだった。
「っ、ぐぅッ!!」
霊技の詠唱が詰まる。
剣の動きが鈍る。
穢音虫の一本が、腕をかすめた。別の個体が、脚にからみつく。
まずい……っ、避けられね。
体勢を崩し、膝をつく。
歯を食いしばって剣を立てようとした、そのとき。
風を裂くように、霊符が飛んだ。
バァンッ!
炸裂音と共に、視界が一気に開ける。
「っ!?」
玲が見たのは、結界式を展開しながら、血相を変えて駆け込んできた、ひとりの男の姿だった。
「八雲……っ!?」
まったく、無茶をしてくれる。これは、そんな緩い依頼じゃないことなんて、玲ならわかっていただろう?
「っ……八雲ッ! バカ、来んなってッ!」
叫びは空気に溶ける。だが、八雲は立ち止まらない。
その手に握られていたのは、ひと振りの打刀、巫術刀。呪式鋼と霊骨を組み合わせた、巫術との親和性の高め、その一方で攻撃力はほとんどない八雲が作らせた専用武具。
「レンたちもすぐにこちらに来る。玲、後方に抜けろ。結界、展開する」
その声は静かだった。
決して威圧しない、命令でもない。
だが、玲はなぜか、一瞬だけ、言葉を失った。
この声、知ってる。いつも後ろで支えてくれてたときの、あの声だ。
次の瞬間。
パァンッ!
霊符が展開された。
「環式・重複防陣・六連。構築、起動」
足元に六重の環が広がる。
それぞれが、防御術式の回避、受流し、気流操術、結界固定、詠唱阻害、衝撃減衰、という順で配されていた。
六層構造の固定陣……!?
玲が目を見張る間にも、八雲は前方に向けて低姿勢をとっていた。
「式転補陣、陣三・応答加符、開始」
玲と共に戦うようになってからの八雲は後方で適切な指示を出し、巫術による支援、敵の行動阻害が中心の戦い方だった。
しかし、今の八雲は。
霊環の縁を撫で、左脚を前に踏み込む。
その所作は、完全に前衛職のそれであり、多数の敵を一手に引き付ける所作。玲の普段の所作、いやそれ以上に洗練されたものだった。
◇ ◇ ◇
盾役、MMORPGで言うところのタンク。
それは、かつて八雲が決してプレイヤーキャラクターほどの能力を発揮できないことを知り、それでも主人公の親友ポジションとして巫女たちと戦えるようになるための最適解。
この神環世界において、盾は希少だった。
ソーシャルゲームである以上、強いキャラクターに求められる性能は高火力での殲滅力であり、敵の攻撃を受け止め、強敵を時間をかけて倒すという方向性は序盤のみで、サービス開始から半年も過ぎると求められなくなった。
皮肉なことにその方向性を決定づけたキャラクターこそ、夜鷹玲その人だ。死なない程度に攻撃を惹き付けつつ、高火力を発揮する、というハイブリッドキャラクター。彼女の実装を機にタンクとして設計されたであろう、旧キャラクターたちもユーザーの要望により修正を受けた。
しかし、実践においてはタンクが不要になることはない。
ゲームモチーフの世界とはいえ、実際には高火力で自動周回するような要素なんてこの世界にはない。MMORPGの具現世界であれば、話は違ったかもしれないが、ソーシャルゲームモチーフである以上、同じところを探すほうが難しい状況なのだ。
八雲はこの世界で育ち、知る中で潜在的な力が無くても充分に戦える道を模索した。
だから八雲は剣を学んだ。
剣の打ち合いではない。剣を持って立つことそのものを、霊環の術式に組み込むことで、自らの身体ごと術結界の支柱とする技術を編み上げた。
それは、戦術ではない。
生き方の選択だった。
◇ ◇ ◇
ズギャッ!
穢音虫の牙が、結界に激突する。
青白い光の環が瞬時に逆圧を放ち、群体のひとつを弾き返す。
「来る……っ!」
八雲の前に展開された結界は、ただの防壁ではなかった。
それは、導線。
「応反術・吸式、環位降転」
詠唱の終わりと同時に、霊圧が巻き込まれる。
穢音虫が吐き出した毒霊弾を、結界がそのまま吸収・再転送し、空打ちとして相手の群体へ逆流させた。
バンッ!
地面が焦げ、瘴気が反転する。
玲の息が止まる。
嘘……今の、ただの防御じゃない……霊流の方向性まで読み取って、流した!?
後ろで見ているだけなのに、身体が熱くなる。
胸の奥が、灼けるように疼く。
この男、守ることにここまで突き詰められるのか……?
綾音の最強の護衛を名乗っていた自分が恥ずかしい、玲は胸を熱くしながら思う。
ズシャアアッ!
正面の結界が崩れる。
「八雲ッ!!」
「っ構わん、次がある」
瞬間、八雲の腰帯から次の霊符が滑り出ていた。
「急式・補環陣・即時投影、展開」
再起動。結界が連鎖的に再編される。
何度崩れても、立ち続ける。
八雲に敵を殲滅する力はない。如何に優れていようとも、じりじりと削られるような消耗戦、駆け付けてくれることを確信していないと出来ない戦い方。
◇ ◇ ◇
そして、玲の中に、熱が走った。
「……やべぇよ、あたし……っ」
呟く声は、熱に滲んでいた。
「何で……こんな……泣きそうなんだよ……っ」
その瞬間、霊環が震えた。
玲の足元、結界に触れていないはずの場所で、彼女の霊気が自律的に覚醒を開始していた。
これが……
神縁。
八雲と心で結ばれたその瞬間、玲という巫女の中に眠っていた最深の神技構造が目覚めようとしていた。
その名は、
それは、音より先に熱が響いた。
霊環の縁、地面の奥底。玲の足裏から立ち上がったのは、神技でも術でもない。
彼女自身の渇望だった。
守られるだけなんて……冗談じゃねえ。
拳を握る。
震える手の平。噛み締めた唇。乱れる息。
そのどれもが。
「八雲を……守りたいって、思っちまったんだよっ!」
次の瞬間だった。
霊環の底が、爆ぜた。
「緋鳴、起動」
声にならない囁きが、世界を貫いた。
玲の身体が、発光する。
神環が、彼女の背中から昇るように放たれた。赤。緋。紅。血のような、花のような、叫びのような、女の色。
「来な、虫ども。今度は、あたしが切り結ぶ番だ」
◇ ◇ ◇
緋鳴断華陣。
神環ノ縁の中でも、仕様として封印解除が最も困難とされた巫女神技。
接続対象に対する心的揺らぎと自己再定義が同時に起こらない限り、霊式は起動しない。
だからこそ、強い。
巫女としての再誕が条件だから。
◇ ◇ ◇
玲の霊気が、風と混ざる。
結界陣が砕け、次の瞬間には、彼女の手の中に朱色の光刃が形成されていた。
刃。否、それは刃ではなかった。
叫びだった。
「てめえらごときが、結ばせてくれなかった痛み、わかるかよ……ッ!」
一歩、踏み込む。
地を裂き、空気を焼き、音が消える。
二歩目。
霊災の群れが、反応する前に、動きが、止まる。
「未練も、自傷も、まとめて、あたしが断ってやる……!」
三歩目。
「緋鳴断華陣、式零、散華輪廻ッ!!」
ズバァァッ!!!
神技が放たれる。
空間ごと切断されたかのように、穢音虫の核が同時に粉砕される。時間遅延。斬撃誘導。霊導爆発。残響効果。すべてが融合し、美しい暴力として場に放たれた。
八雲の前方、視界が開ける。
敵影、消滅。
風だけが、吹き抜けた。
◇ ◇ ◇
玲の肩が、ゆっくりと上下する。
荒れた呼吸。
だが、それは疲労ではなかった。
「……なあ、八雲」
「……なんだ」
玲は、後ろを振り向かずに言った。
「今の、あたしの技、ちゃんと見てたか?」
「……ああ。世界で、誰よりも綺麗だった」
「そっか。じゃあ、見せ甲斐、あったな」
風が、止まった。
八雲が一歩、彼女へと近づく。
そして、その背中にそっと、手を添えた。
「……お前が初めて誰かのために立った瞬間だったな」
「うるせぇ。言うな、そういうのは……」
そう言いながら、玲は、ほんの少しだけ肩を預けた。
「……でも、言ってくれて、ありがとな」
彼女の目元が、風に揺れる髪の奥で静かに濡れていた。
◇ ◇ ◇
夜風が、山の尾根を撫でていた。
戦場から帰還したばかりの庵の一室。灯火は落とされ、ただ薄明かりの霊環が室内をほんのり照らしている。静けさが、落ちていた。
畳に背を預けて座る玲の身体は、戦闘の熱を残したまま、どこか不安定だった。
「……なあ、八雲」
その声は、いつもの玲のそれではなかった。
「今日のお前……格好よかったって、言っといてやるよ」
呟くような声音。
どこか照れと、震えの混ざった女の声。
「……でさ。今夜、お前に抱いてほしいんだけど」
八雲は、微かに息を飲んだ。
玲が、俯き加減に言葉を続ける。
「でも、今日は……あたしが上になるんじゃなくて……」
言葉の途中で、彼女は立ち上がった。
そして、何も言わずに布団の上に腰を下ろし、一枚、湯衣の紐を外す。
肩が見えた。
戦いでうっすらと擦れた肌。
だがそこには傷よりも、女としての熱が滲んでいた。
「今夜は、受け入れたい。あたしから、じゃなくて……お前から」
言葉は途切れたが、その意味は確かだった。
「……本当にいいのか?」
「……うん。今だけは、女でいさせて」
八雲は、黙って頷くと、そっと彼女の肩に手を添えた。
玲の身体が、わずかに揺れた。
◇ ◇ ◇
やがて、ふたりは静かに結ばれた。
玲は、自分から攻めるのではなく、八雲に抱かれることを選んだ。
その夜、彼女は初めて、受け入れる側に回った。
触れられるたび、彼女の声が震え、身体が熱を帯びていく。
それは、快楽だけのものではなかった。
誰かに守られた安心と、誰かを守りたいという想いが、初めて心の中で重なり合った夜だった。
結ばれた後、玲はぽつりと呟いた。
「……ありがとな、八雲」
その声は、小さく、しかし確かだった。
「今日、ちゃんと……あたし、抱かれたよな」
「……ああ。お前は今、結ばれたんだ」
玲は、薄く目を細めながら微笑む。
その目は、涙で濡れていたが、どこまでも、優しかった。
こうして、最も結べなかった女が、自らの意思で抱かれた夜は、静かに終わりを迎えた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
霧の晴れた境内の中庭に、柔らかな陽が射し込んでいた。
湯を沸かす香炉の煙がふわりと漂い、仮設の縁側には、布団から上体だけ起こした玲が腰掛けていた。
「……ふあぁ……なんか、腰が重ぇ……」
ぼやきながら背筋を伸ばすと、すぐ横からレンが小声で噴き出す。
「……そりゃそうでしょ、あんなに声出すほど抱かれてたら」
「なっ……お、おまっ……っ、聞いてたのか!?」
「聞こえたんじゃなくて、音が響いていたの。響ちゃんが聞いてくれてた」
「……うん。あれは、すごかった。おかげで眠れなかった。責任取ってほしい」
響は下半身をもじもじさせながら、恨み言を言う。
玲は思わず手ぬぐいで顔を隠した。
「……マジで死にたい……」
そこへ、朝の湯を手にした綾音が優雅に歩み寄る。
「死なないでくださいな。受け入れた女の顔、とても美しかったのですから」
「お、おまえら、どんだけ見てたんだよ……!」
玲が顔を真っ赤にしながら抗議すると、レンが肩をすくめて笑う。
「でも、すっごく柔らかい声出してたよ、玲さん。あんな声、初めて聞いたから、ちょっと……うれしかった」
「……っ、やめろ、もう……」
玲は顔を伏せながら、けれど唇の端には、かすかな笑みが滲んでいた。
そこに、寝巻のまま縁側を出てきた八雲が加わる。
「おはよう。……玲、無理はしてないか?」
「……寝起きにそれ聞くってことは、やった張本人が一番よくわかってんだろ」
「それは……まあ」
玲が八雲に手ぬぐいを投げ、それを難なく受け取ると、綾音が静かに湯を差し出した。
「それにしても、こうして巫女が四人揃って笑っている朝が訪れるとは……」
「……ふふ、まさか、玲さんがいちばん奥手だったなんてね」
「うるせぇっ!」
玲の声に全員が笑った。
それは、どこまでも柔らかな笑いだった。
もはや、戦うだけの巫女ではない。
結ばれた女たちとして、ひとつの群れとして。互いの痛みと熱を共有した者同士の、ささやかで、確かな朝の縁だった。
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