インターネットストーカー

押戸谷 瑠溥

第1話 杉本未来29歳女医 ただいま火遊び真っ最中


 花金の、夜が始まる前のウキウキする躍動感に街は沸いていた。


 渋谷駅前のスクランブル交差点はまだ空の半分くらいに初夏の落日の残像を残し、横断歩道を行く人の姿を水彩絵の具でさっとひと刷毛はけしたように赤く染めている。


 杉本未来は渋谷駅前の青電車アオガエルと呼ばれてるモニュメントに隠れるように、ハチ公横の円形ベンチに腰掛けている1人の青年をそれとなく観察していた。


 「ここで誰かと待ち合わせ?」

 と、ついさっき未来は彼の前に立ってたずねた。


 「いいや。ただの暇つぶし」


 「じゃあひとつ頼まれてくれない?」


 「デイトのお相手をしてくれっつうの?」


 まだ二十歳はたちそこそこの学生風の青年ガキが、30前の女に対してこましゃくれた口を利いた。


 「7時半にここで待ち合わせたのだけれど、急用が出来て帰らなくちゃならなくなったの。彼女に謝ってくれない?」


 「ぼくが?」


 「私よりうんと若くて可愛い子よ。気に入ったらお持ち帰りしてもいいわよ。もちろん彼女がOKすれば、の話だけれど」


 何で俺が?と困惑気味だった青年の目がそれで一気に光った。


 「だけどぼくがあなたの代役ってことが彼女に分かるの?」


 「これが目印」


 未来は100円ショップで買った赤い布袋を彼に渡した。


 それから帰る振りをして駅へ向かい、そっと青ガエルのお尻へ回り、青年の前にどんな女性が現れるのか、じっと見ていたのである。


 あれから15分経った。約束の時間の5分前だが、待ち合わせ相手のジュードと名乗った女はまだ来ない。


 自分が彼女の立場だったとしても、初対面の男と会う時はそうする。

 決して自分の方から先に行って待つような安っぽい女は演じない。


 そう。


 未来はインターネットで知り合った女に対して男と偽ってデイトの約束をして、いま実際その場に臨んで、本当に男の代役を立てたのだった。




 ・・・眼科医として実家の総合病院に勤務する未来がSNSでのチャットに填ったのは、2年前だった。


 人の命を預かっているという気の抜けない職業のせいかストレスに悩まされ、或いは味気ない毎日の反動もあったのか、パソコンでネット上をさすらっては空想上の男性遍歴を繰り返して、不満を発散していた。


 そのうちに空想が現実になり、この2年間のうち5度ほどSNSで知り合った男と実際に会い、その中の2人と会ったその日にセックスをした。


 しかし、男性に対する許容範囲がどんどん広くなってゆく危機感と同時に、事後のどうしようもない惨めさに嫌気がさし、火遊びをやめていた。


 5人目に会った男がいかにも遊び人風で、さすがにそのまま割り勘でお茶を飲んだだけで別れた後、地下鉄に乗ってからも跡をつけられているのに気づき、恐れをなしたのも理由の1つになっていた。


 それからは男と会うのをやめて、今度はネットで言うところの女が男に成りすます、いわゆるネナベとして同性の女をからかい始めた。


 そして或る出会い系サイトでジュードと名乗る女性と出会い、原田健司と名乗っていた未来は個人的にチャットを始めた。


 〈健司って、どんな人?感じはイケメンっぽいけど〉


 2ヶ月前、或る出会い系サイトへ入り込み、あちこちさすらっている時にジュードの方から声をかけてきたのが始まりだった。


 〈身長175センチ。温和。ちょっと痩せているけれど、見た目は悪くないと言われている〉


 未来は迷わずキーボードを叩いて返信した。


 自分好みの男性像でもあるし、身長こそ165センチだが、未来自身人からそう形容されていた。


 今まで男を相手に、もしかしたらデイトすることになるかもしれないという前提でチャットする期待感こそなかったが、相手を騙しているという軽い罪悪感が、無味乾燥の毎日を送る自分の心の大地への水代わりとなって、ひび割れ寸前の心の表面に幾分か湿り気を与えてくれていた。


 〈ぼくは29だけど、ヘイ・ジュードかな?男っぽい名前だけれど、君も同じくらい?〉


 男に扮している未来がたずねる。


 〈そ。ビートルズの楽曲が好きだからヘイ・ジュードよ。健司より1コだけ上。ジュリアンかジュディでも良かったけれど、ポールがヘイ・ジュードって歌ったからそのままジュード〉


 〈なるほどね。ジュリアンよりも、いいかも〉


 〈でしょ。ところで健司の仕事は何関係?〉


 〈医療関係。ジュードは?〉


 〈デザイン関係。正確には設計と言うのだけれど〉


 〈へぇ~、女子の設計家って、珍しいよね。例えばどんなものの設計をするの?〉


 〈依頼されれば何でも描くわ。茶碗のデザインもするしボールペンもやるし、ラブホの回転ベッドの図面も引いたことがあるわよ〉


 ワオッ!

 未来は健司になりきって声を上げて、


 〈あれって、回転しても何てことないけれど、最初、乗っかると結構、頭、カッとするよね〉


 未来は元彼と行ったラブホテルでそれを経験していた。


 実際に使ってみても鬱陶しいだけだが、初めてその上に寝た時、回転すると聞いただけでどんな風に回転するのか、振動はあるのか、と心臓がバクついたものだ。


 〈それって、もしかしたらぼくの描いたヤツかもね。ところで健司って、どんなHをするの?〉


 と、ジュード。


 はじめは当たり障りのない遣り取りから始まった会話が、回を重ねるごとに趣味の話になり、互いの異性の好みに発展し、相手がどこの誰ともわからないという安心感から、ベッドでの痴態を互いが自慢げに告白しあうようになっていた。


 〈女がもう勘弁してって言うまで、徹底的に舐め尽くすよ。それから女にせがまれるまでは決してを入れないし、テポドンも発射しない〉


 未来は女としての願望も込めて書き綴る。


 〈ゴム派?おっぱいの上に発射派?〉


 ジュードがたずねてくる。


 〈お口に発射系〉


 〈キャッ!〉

 と、ジュードの悲鳴。〈健司って、エッチビデオの見過ぎ〉


 〈人並みにポルノサイトを覗くことはあるけれどね。でも君だって好きな筈だよ、お口に発射されたり顔に精子をぶっかけられるのは。勿論Mだよね?〉


 〈当ったりぃ!どうしてわかるの?〉


 〈あくまでも統計上だけれど男はSが多いし、女はMが多いんだよ。女には苦しいことを喜びに変える変換器がDNAの中に組み込まれているのさ〉


 未来は答えながら、自身と元彼に当てはめてみる。


 絶対にそうだ。


 女は苦しいことを好む生き物だ。特に好きな男に命じられたら、少しくらいイヤなことでもやってしまう。最初はイヤでも、やがてそれが好きになる生物でもある。


 〈そっか。女って、皆そうなのね。安心したわ。だって私、命じられたら何でもやっちゃうんだもの〉


 〈何でもやっちゃうって、例えばどんなこと?〉

 と、未来は聞く。


 〈ザーメンもゴックンしちゃうわ。最初、彼に言われた時には気持ち悪くて出来なかったのだけれど、そのうちに好きになってきたの。初めはフェラも抵抗があったわ。でもゴックンするのって、好きな彼を全部自分のものにしたという満足感があるのよね。それにペニスをムリクリ口に突っ込まれてオモチャにされたって感じもいいし、好きな男から受ける屈辱感がまた最高〉


 〈ふ~~ん。そうなんだ〉


 未来にも経験があるが、好きな男に力ずくで征服されたという感じは、悪くない。と言うよりも、好きかも。


 〈でもアレって、害はないのかしらね?〉


 ジュードの不安に、

 大丈夫、

 と、未来は医者の立場に戻って請け負う。


 〈成分はタンパク質とセリンプロテアーゼ等々。いわば分解酵素だから無害〉


 〈詳しいのね。医療関係って、健司ってもしかしてドクター?〉


 〈製薬会社勤務ってこともあるし、経理担当ということもある。そんなことより自分の出すものには説明責任があるから、女子への説得用に調べたのさ〉


 未来はキーボードを叩きながら医学生時代に付合っていた男のことを思い出していた。


 死ぬほど好きな男だったから、命じられるままに精子も飲んだ。


 そして医学書で調べた。


 肌が綺麗になると言われたが、それは俗説だとわかった。同じ医学生なのだから調べればすぐにわかるのに、なぜあの時の彼はそんな口から出任せを言ったのかと思ったが、自分が男役になりきってみると、好きな女には自分のものを飲ませたいという男性のS的嗜好がよくわかった。


 また子宮内での射精が無理ならせめて口内射精して飲ませ、自分の精子を女の体の中に残したいという種の保存本能も、何となく理解出来た。


 それに子宮内射精に近い口腔内こうくうない射精の方が、乳房の上にカラ撃ちするよりも気持ちがいいという肉体的快楽もあるだろうし、本来の立場に戻って女としては、自分の膣分泌液、俗に言う愛液オツユを好きな男に飲んでもらえればうれしいという気持ちもあるので、男が女に精子を飲ませたいという気持ちもそれに似た精神的快楽部分が大きいのではないか、と、想像出来た。


 H話でいつも盛り上がって深夜までチャットは続き、未来は仕事上のストレスを束の間発散する。


 〈大丈夫?こんな時間になったわよ〉


 と、ジュードが女らしく未来を気遣う。


 〈君こそまだいいの?〉


 ネナベを装う未来はジュードの優しさが画面の文字の中から窺えて、ちょっと後ろめたさを感じる。この後ろめたさもストレス解消には無くてはならない隠し味である。


 ジュードのこの思い遣り感が良くて、今では個人的に遊びでチャットをするのは彼女1人になっていた。最初はモーツァルトのことで話が弾んだ。


 〈音楽はどんなのが好き?〉


 と、ジュードがあるとき振ってきた。


 〈ぼくはロック系にはあまり興味がなくてね。静かな音楽が好きだね。たとえばビートルズで言えばイエスタディとかミシェル。それとモーツァルト〉


 それは本当のことだった。


 結構ピアノもやっていて、音大への進学が第1希望だったが、父親の説得に負けて医学部へ進んだのだ。


 ビートルズのイエスタディは主音律と背後に流れるベース音の対位法が見事だし、モーツァルトはあの、時に軽快なリズムと、時に心に染み入るようなセンチメンタルで美しいメロディが大好きだった。


 〈WWW!一致〉


 ジュードが勢い良く食いついてきて、


 〈健司とは結構好みが合うわね。私はラクリモーサが好きよ〉


 〈ラクリモーサ?マニアックね。確かに名曲だと言われているけれど〉


 〈で、健司はモーツァルトのどんな曲が好きなの?〉


 〈いろいろあるけど、アヴェ・ヴェルム・コルプスなんていいね〉


 〈その曲って・・・〉


 ジュードが記憶をたどっているのかちょっとを置いて、


 〈確か厳かな感じの合唱曲だよね。ケッヘル618だったかしら?〉


 〈ジュードってデザイン方面ではなくて、本当は音楽関係?〉


 未来はジュードが僅か46小節の短い合唱曲を、そしてそのケッヘル番号まで知っているのに驚いた。


 さらに名曲だと言われているが一般には馴染みの薄い小作品のラクリモーサが好きだなんて、余程マニアックなモーツァルトファンか、さもなければどこかの交響楽団の関係者なのかもしれない。


 相手のジュードが健司のことを本当に医療関係者と信じているかどうかはわからないが、少なくとも未来は、ジュードが言ったデザイン関係の仕事という言葉を真に受けてはいなかった。


 こんな疑心暗鬼の中で音楽からまたセックスの話へと戻り、さらに1時間ほど、チャット時間が延びる。


 しかし話せるところまでとことん話してしまうと、あとやることといえば、実際に会う以外になくなってくる。


 そうなると話も滞りがちになる。


 ジュードはどうだか分からないが、男と女であればまだしも、女同士で会っても仕方がないという閉塞感が、未来の方に襲ってくる。


 そろそろ姿をくらますにいい頃合いだった。


 そしてまた新しい女を騙して気分を紛らわす。

 この繰り返し。

 そんなことを漠然と考えていた時、


 ねえ。


 と、ジュードが書き込んできた。〈女から言い出しにくいのだけれど、私たち、会ってみない?〉


 〈そうか、ごめんね。男から誘うべきだよね。いいけど、いつ?〉


 そうらきた。


 と未来。

 ちょうどいい。

 お別れの時だ。

 だから考えもせずにOKする。


 〈明日はどう?花金だけど、急過ぎて先約が入っている?〉


 〈全然OKだよ。いまぼくはフリーだから〉


 病院勤務の未来にとって金曜日は、翌日の土曜日が半ドンになるとは言え、花金とは言えない。それにいま付き合っている男がいないというのは、本当のことでもある。


 〈じゃあ、いい?〉


 〈いいけど、会った後の予定は入れないでよ〉


 未来は罪悪感を快感に変えながら、心にもないことを書き込む。


 〈どうして?〉


 〈だってぼくたち、気が合うから、もしかして即ベッドインするかもね。ぼくのザーメンを顔にぶっかけてあげるよ〉


 もちろん会う気はなく、デイトをすっぽかして原田健司という男はネット上から永遠に消える。


 それでジ・エンド。


 そしてまた次の、表と裏のひっくり返った架空の恋が始まる。


 〈ヤダ~!〉


 と、ジュードの満更でもない返事。〈でもアレって、顔にかかった精子の温かい感触がいいよね〉


 〈皆、そう言うよね〉


 〈れれれ。皆の顔にザーメン、かけているの?〉


 〈まあね。それにぼくのザーメン、美味しいんだぜ〉


 未来は元彼のことを考えていた。


 〈何味?〉


 〈フルーティ味〉


 〈ならいいけれど、しょっぱいのはイヤだな。それと苦いのも。お好みはサラっとしたやつ。それにアレって、思い切り濃い時もあるよね。どうしてなの?〉


 〈らららら、いつも飲んでいるってカンジ〉

 確かにね、と未来は心の中で呟く。


 元彼もそうだった。


 その日の体調にもよるのか、それとも前日に食べたものによるのか、それとも暫く射精していなかった時にそういう変化が出るのか、日によって精子の味と匂いと濃さは変わっていた。


 〈だって私の彼って、まるでローマ皇帝の暴君そのままなのよ。ペニスをいきなり口の中に突っ込まれるの〉


 〈暴君が好きなの?〉

 私も好きよ、と未来はまたパソコンに向かって呟く。


 〈うん。なよなよした、どうしたいのかさっぱり分からない男性よりは、よっぽどいい〉


〈じゃあ、ぼくも思いきり暴君になって君を痛めつけてやるよ〉


 〈楽しみだわ〉


 〈れれれ、もうぼくたち、ヤルことを前提に話しているみたいだね〉


 〈そうかも。でも不安がなくもないの。私の描いているイメージと実際の健司が大きく違っちゃったら・・・その時はゴメンね〉


 〈ま、お互い様だよ。その時は居酒屋で一杯飲んで、お別れだよ〉


 〈そうね。ところで待ち合わせ場所、どこにする?〉


 と、ジュードが聞く。


 〈どこでもいいよ〉


 〈渋谷は、わかる?〉


 〈うん。少しだけ〉


 未来は島根出身のサラリーマン原田健司という役を演じていたので、東京の地理には疎い振りをしなければならない。


 〈じゃあ渋谷駅前にハチ公があるよね〉


 〈ハチ公〉


 未来はびっくりマークの感嘆符をあわやのところで付けなかったことに、自分でも巧く立ち回ったと胸を撫で下ろしていた。


 もしも驚いたことが相手に知れたら、田舎カッペ出身という嘘がバレたかもしれない。


 ハチ公での待ち合わせなんて、未来にかぎらず都内で生まれ育った者にとっては、どこをどう引っ張ってきても選択肢の中には入らない。


 わかり易いしね、とジュードが付け加えて、


 〈第1、わたし、待ち合わせと言えばハチ公しか知らないんだもの〉


 〈いいよ〉

 そう言えばジュードは広島出身と言っていた。


 それで昨夜、ジュードとのデイトが急遽決まったのである・・・




 スクランブル交差点に面したビルに設置された超大型液晶画面のデジタル時計は、ちょうど7時半を表示していた。


 ジュードという女はまだ来ない。


 未来が代役として立てた青年は、ベンチに座って赤い布袋バッグを膝に置いたまま、辺りをキョロキョロ見回している。


 実のところ未来は、今日の昼までデイトのことは全く気にもしていなかった。


 当然すっぽかすつもりでいたので、そのこと自体、忘れていた。

 ところが午後になって、その夜予定に入っていた眼科チームでの飲み会が急遽延期になり、そう言えば、と彼女は暇に任せて渋谷まで来てみたのだった。


 たとえネットで出会った相手であろうと、会って気に入ればすぐに寝ると公言してやまないジュードという女がどんな女なのか、未来は不意に見たくなったのである。


 未来自身、そんなことに填っていた時期があった。


 ネットで男と会話をして、実際に会って気に入れば、というよりも気に入るような男との出会いはまずないことを知り、そのうちに最低レベル以下でなければその日のうちに寝たりもした。


 ジュードもそうだというから、おそらく彼女は以前の未来自身の姿でもある筈だ。


 その女の姿が醜いものなのか、さほどでもないのか、客観的に見るいい機会だと考えたのである。


 もちろん面と向かい合う気はさらさらなく、ただ遠くから彼女の姿を見ればそれでよいのだった。


 〈第2話へ続く〉

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