世界を治すための、三分間の死に方

nii2

第1話【路地裏デッドループ】

午後五時十七分。それが僕の世界の終わりの時刻だった。


「タマー、どこ行ったんだよー」


気の抜けた、しかし焦りの混じった声で愛猫の名を呼びながら、僕はアパートの階段を駆け下りた。いつもならこの時間、餌をねだって足元にまとわりついてくるはずのタマが、どこにもいない。部屋中を探し、ベランダにも目を凝らしたが、白いぶち模様は見当たらない。まさか、あの僅かな隙に?


胸騒ぎがした。玄関のドアが半開きになっていたのを思い出す。面倒くさがりな僕の、百万回に一度のうっかり。それが、どうやら致命的だったらしい。背筋に冷たいものが走る。


「タマ!」


声を張り上げ、アパート前の薄暮に染まる道に飛び出す。右を見た。左を見た。アスファルトの向こう側、薄暗い路地の入り口に、見慣れた白黒のぶち模様が、確かに動いた気がした。


「タマ!」


安堵と焦りがごちゃ混ぜになった感情で、僕は車道に足を踏み出した。その瞬間、視界の左端から、けたたましいエンジン音を轟かせた巨大な鉄の塊が、すべてを塗りつぶすかのように迫りくる。耳を劈くクラクションと、アスファルトを削るようなブレーキ音。僕の意識は、猛烈な衝撃と熱、そして激しい痛みに焼かれ、真っ白に吹き飛んだ。


――ああ、タマ。ごめんな。


それが、一周目の僕の最期の言葉だった。


はずだった。


「……ん?」


瞼を開けると、見慣れた天井があった。安物の木目調プリント。時刻は午後五時十四分。デジタル時計の赤い光が、薄暗い部屋でやけに目に沁みる。身体に痛みは一切ない。汗一つかいていない。さっきまでの出来事は、あまりにリアルな悪夢だったようだ。


「……心臓に悪い夢、見ちまった」


ベッドから起き上がり、大きく伸びをする。夢の中の喪失感を思い出し、急いでタマの姿を探す。だが、やはりどこにもいない。夢じゃなかったのは、タマの失踪だけらしい。


「タマ、どこだー?」


デジャヴを感じながら、僕は再び玄関を飛び出した。アパート前の道。夢の中と寸分違わぬ光景が広がる。そうだ、トラック。左から来るトラックに気をつけないと。


僕は慎重に左右を確認した。トラックの姿はない。安堵の息を吐き、道を渡ろうとした、その時。


頭上から、金属がこすれ合う、嫌に耳障りな音がした。見上げると、隣の建設中のビルの足場が、ギシギシと悲鳴を上げ、スローモーションのようにこちらへ、絶望的な角度で傾いてくる。


「嘘だろ」


声にならない悲鳴が口から漏れた。逃げる間もなく、僕の二周目の人生は、鉄パイプの豪雨によって唐突に幕を閉じた。砕け散る視界の中で、タマの白いぶち模様が幻のように見えた気がした。


そして、僕は再び自室のベッドで目を覚ました。時刻は、午後五時十四分。


三周目、僕はパニックに陥り、アパートの階段を無様に踏み外して、首の骨をへし折った。

四周目、狂ったように街を走り出した僕を、どこからか現れた野良犬の群れが、醜悪な牙で引き裂いた。

五周目、あまりの恐怖に部屋に閉じこもっていたら、階下の住人が天ぷら油に火をつけ、僕は黒焦げになった。焼け爛れた肉の匂いが、鮮烈に鼻腔に残っていた。


午後五時十四分に始まり、午後五時十七分前後で必ず死ぬ。

タマを探しに行こうとすると、死ぬ。

探しに行かなくても、死ぬ。


どうやら僕は、このクソみたいな三分間に閉じ込められてしまったらしい。絶望的なまでに。


死のループが十数回を数えた頃には、僕の精神は奇妙な安定期に入っていた。最早、パニックも絶望も通り越し、突き抜けた諦観、あるいは一種の開き直りの境地だ。どうせ死ぬなら、この不条理な現実に、何か一矢報いてから死んでやろう。


僕はまず、これまでの死のパターンを記憶から洗い出した。トラック、足場崩落、転落、犬、火事、落雷、溺死、窒息……。まるで街全体が、僕という異物を、徹底的に排除しようと牙を剥いているようだった。


「さて、二十三周目。今回はどう死のうかな」


軽口を叩きながら、僕はアパートを出た。午後五時十四分。いつものようにタマはいない。


まずは既知の死のフラグを回避する。トラックが突っ込んでくる交差点は避ける。足場が崩れるビルの下は通らない。階段は手すりに掴まってゆっくりと。アスファルトのひび割れ一つ、電柱の傾き一つにも、死の罠が潜んでいるように思えた。


これまでのループで得た知識は、僕だけの「攻略本」だ。街の景色が、死のトラップで満たされた高難易度マップに見えてくる。


その時だった。ふと電柱を見上げると、一羽のカラスがこちらをじっと見下ろしていた。ただのカラスだ。いつもなら気にも留めない。だが、ループを繰り返すうちに研ぎ澄まされた僕の感覚は、そのカラスの視線に、奇妙な、しかし紛れもない「意志」を感じ取っていた。


僕がカラスを見つめ返すと、カラスは気取ったように首を傾げ、嗄れた声でこう言った。


「おお、そこの御仁。近頃、同じ夕刻を何度も見ているような気がするでカァ。気の所為かのう」


僕はあんぐりと口を開けた。カラスが、喋った。しかも、やけに古風な言葉遣いで。


「……お前、喋れるのか?」

「カァ、無粋な問いよ。儂は見ての通り、ただのカラス。されど、この街の些事、万事お見通しよ」


ループの中で唯一、僕以外の存在が世界の異常を口にした。藁にもすがる思いで、僕はカラスに話しかけた。

「なあ、あんた、何か知ってるのか? 俺、何度もこの時間で死んで、生き返ってるんだ。それに、俺の猫がいなくなったんだ。タマっていう、白黒のぶち猫だ」


カラスは黒い瞳をしばたたかせた。

「ほう、猫とな。……もしや、その猫、ただの獣ではあるまい。この辺りの境界を律する『守り手』様ではあるまいか?」

「守り手? 境界?」


訳が分からなかったが、カラスは続けた。

「『守り手』がその座を離れれば、世界の理は綻ぶ。表と裏の境界は曖昧になり、時間の流れも歪む。今のこの状況、いかにもそれよ」


世界の理。表と裏。まるで出来の悪いファンタジー小説だ。だが、死のループという非現実を体験している今、それを馬鹿にする気にはなれなかった。

「タマがそんな大層な存在だってのか? あいつはただの食いしん坊で甘えん坊の、普通の猫だぞ」

「人の子よ、汝らが『普通』と呼ぶ日常こそが、いかに危うい均衡の上に成り立っているか。知らぬは幸せというものよ」


カラスはそう言うと、「詳しい話は、マンホールの旦那に聞くがよい」と付け加えた。

「マンホールの旦那?」

「うむ。腕は確かだが、ちとがめついでな。……おっと、時が来たようだ」


カラスが翼を広げた瞬間、僕の真横の電柱から、バチバチと激しい火花が散った。漏電だ。僕は避ける間もなく感電し、二十三周目の意識はそこで途切れた。皮膚が焼けるような痛みと焦げ臭い匂いだけが、最後の記憶として残った。


午後五時十四分。ベッドの上。

「……マンホールの旦那、ね」


二十四周目。僕は迷わずカラスが指し示したマンホールへ向かった。何の変哲もない、錆びついた鉄の蓋だ。これをどうしろと?


コンコン、とノックしてみる。反応はない。

「あの、誰かいませんかー? カラスさんに紹介されて……」


すると、マンホールの蓋がわずかにズレ、その僅かな隙間から、するりと二つの光る目が覗いた。そして、ぬっと顔を現したのは、古びた風呂敷を首に巻いた、小太りの狸だった。

「へい、何か御用でござんすかい?」

江戸っ子のような威勢の良い口調に面食らいながらも、僕は事情を説明した。タイムループのこと、タマのこと、カラスから聞いた境界の話。


タヌキは鼻をひくつかせながら話を聞いていたが、やがて腕を組み、ニヤリと笑った。

「なるほどねぇ。そいつは厄介なこった。で、あっしに何をしろと? タダ働きはごめんでござんすよ」

「金なら……」

言いかけて、僕は気づく。ループするこの世界では、僕の財布の中身も毎回リセットされる。大した額は入っていない。


タヌキは僕の表情を読んで、さらに意地の悪い笑みを深めた。

「金目のものがねぇなら、情報でもいいでござんす。この先の未来で起きる、あっしにとって得になる情報。例えば……そうさね、どこぞの誰かが落とす財布の場所とか、明日の一番儲かる株の話とかね」


未来の情報。それなら、僕には無限にある。

「三分後。そこの角を曲がったパチンコ屋の前で、競馬新聞を持ったおっさんが財布を落とす。茶色い長財布だ」


僕が言い切ると、タヌキは目を丸くした。

「ほう、威勢がいいねぇ。本当だったら、話を聞いてやらんでもないでござんす」


タヌキはマンホールからするりと全身を抜け出すと、あっという間に角の向こうへ消えていった。そして二分後、茶色い長財布を片手に、満面の笑みで戻ってきた。

「お客さん、あんた、本物だ! こいつはいい取引相手を見つけたでござんす!」


こうして僕は、タヌキの道具屋を協力者につけた。タヌキの話は、カラスの情報を補強し、さらに核心に迫るものだった。

タマはやはり、この街の日常と非日常を繋ぎとめる「境界の守り手」だった。彼の存在が、重石のように世界の法則を安定させていたのだ。

しかし、何者かが意図的にタマを誘拐し、「次元の狭間」と呼ばれる場所に幽閉したのだという。重石を失った世界はバランスを崩し、法則にバグが生じた。それが、この死のループだった。


「誰かが、わざとこの状況を作り出してるってことか?」

「その通りでござんす。世界の法則を己の都合のいいように書き換えようって魂胆だろうねぇ。そのためには、まず今の法則をぐちゃぐちゃにする必要がある。守り手様をどかすのが、一番手っ取り早いんでござんすよ」


僕が死ぬたびに繰り返される三分間は、壊れかけた世界の断末魔だったのだ。そして、僕が何度死んでもループするのは、おそらく僕が「守り手であるタマの飼い主」という、世界との繋がりが最も強い人間だからだろう、とタヌキは推測した。


「タマはどこにいるんだ?」

「綻びの中心でさァ。今のこの街で、一番不安定な場所。……おそらく、あの忌々しい廃ビルでござんしょう」


タヌキが前足で指したのは、数年前に建設が中断された、街の外れのコンクリートの塊、あの廃ビルだった。


「でもよ、お客さん。そこへたどり着くのは至難の業だ。今の街は、綻びをこれ以上広げないように、異物であるあんたを全力で排除しようとしている。近づけば近づくほど、その殺意は増すばかりでござんすよ」


タヌキの言葉通りだった。廃ビルを目指そうとするたびに、僕の死に方はどんどん派手になっていった。マンホールの蓋が突然爆発するように開いて落下したり、暴走したクレーン車にピンポイントで狙われたり、どこからか飛んできた鉄骨が頭を貫いたりした。もはや偶然とは思えない、明確な悪意を感じる死ばかりだった。


ループ回数は、五十回を超えた。

死の恐怖はとっくに麻痺していた。ただ、タマに会えないまま終わる無力感と、見えない黒幕への怒りだけが、僕の心を燃やし続けていた。


もう、感傷に浸っている時間はない。僕は何十回ものループで得たすべての知識を、脳内で一枚の精緻な地図に描き起こした。

午後五時十四分から十七分までの、完璧な「死のマップ」。

トラックが通過する秒単位のタイミング。足場が崩れる予兆の音。犬が飛び出す家の庭の小石の配置。マンホールの蓋が緩んでいる場所。信号が変わる周期。監視カメラの死角。どこに、どのような「死」が潜んでいるか。


これに、カラスの情報網――街中の鳥たちがリアルタイムで伝える人や車の動き――と、タヌキが「未来の情報」と引き換えに提供してくれた裏世界の道具を組み合わせる。一時的に人の目を眩ませる「目くらましの葉」や、異常な跳躍力を生む「韋駄天のわらじ」といった、ふざけた名前の代物だ。しかし、この世界で生き残るためには、それらが唯一の希望だった。


「……よし」


七十三回目の午後五時十四分。僕はベッドから跳ね起きた。

これがラストランだ。


玄関を蹴破るように飛び出し、深く息を吸い込む。

「いくぞ!」


アパートの階段を三段飛ばしで駆け下りる。角から猛スピードで現れるはずの宅配バイクを、体を捻ってコンマ数秒で回避。風圧が頬を撫でる。

そのまま大通りへ。クラクションを鳴らし、エンジンの咆哮と共に突っ込んでくるトラック。僕はその車体の下をスライディングで潜り抜ける。背後で何かが衝突する轟音が響いたが、振り返らない。一秒の躊躇も許されない。


「カラス!」

『前方百メートル、交差点! 左から乗用車が信号無視で突っ込むでカァ!』

頭上の電線からカラスの甲高い声が響く。僕はタヌキから貰った「韋駄天のわらじ」に意識を集中し、地面を強く蹴った。信じられないほどの跳躍力で、交差点の上をまるで鳥のように飛び越える。僕の下を、悲鳴のようなスキール音を立てて車が通り過ぎていった。


工事現場の前を通過する。頭上で、聞き慣れた金属の軋む音がする。足場崩落だ。タイミングは完璧に把握している。崩れ落ちてくる鉄パイプの雨の中を、まるで死と踊るように、最小限の動きで駆け抜ける。一つ間違えれば即死だ。


だが、街の殺意は僕の予測を上回ろうとしてくる。予測マップになかったクレーン車のアームが、僕を薙ぎ払おうと横殴りに振るわれた。まるで意志を持ったように。

「うおっ!」

咄嗟に「目くらましの葉」を宙に放つ。葉が閃光のように舞い、運転手の視界が一瞬眩んだのか、アームの動きがわずかに鈍る。その隙に、僕は地面を転がって攻撃をやり過ごした。全身にアスファルトの痛み。


満身創痍だった。肺は張り裂けそうで、足は鉛のように重い。全身の筋肉が悲鳴を上げ、汗が目に入って視界を曇らせる。それでも、僕は走り続けた。

タマを助ける。日常を取り戻す。それだけが、僕を突き動かしていた。


ついに、目的の廃ビルの姿が見えてきた。

ビルの入り口で、何かのっぺりとした影が蠢いている。あれが黒幕か。人の形を模しているようだが、その実、あらゆる生命の法則から外れた、冒涜的な何か。


『小僧、よくぞ来た。だが、ここまでだ。お前のようなバグは、ここで、完全に修正させてもらう』


影がノイズ交じりの冷たい声で囁き、その腕が歪な刃となって僕に襲いかかる。もう避けられない。絶体絶命の瞬間。


その時だった。

『今でカァ!』

カラスの甲高い号令と共に、無数の鳥たちが黒幕に襲いかかった。奴が鳥の群れに気を取られている一瞬。

「お客さん、これを使んな!」

足元のマンホールからタヌキが顔を出し、僕に何かを放り投げた。年季の入った、小さな木彫りのお守りのようなものだ。

「そいつが結界を破る! 行けぇ!」


僕は最後の力を振り絞り、ビルの中に駆け込んだ。薄暗い瓦礫の階段を二段飛ばしで駆け上がる。肺が焼け付くようだ。

屋上の中心に、黒い光の球体が浮かんでいた。その中に、タマがいた。ぐったりとしているが、まだ生きている。


黒幕の追撃が迫る。背後で、鳥を払い除ける影の咆哮が聞こえる。僕はタヌキに貰ったお守りを、光の球体に向かって全力で投げつけた。

お守りが球体に触れた瞬間、甲高い金属が砕け散るような音と共に光が弾け飛ぶ。

タマの体が、ふわりと宙に浮いた。


「タマ!」


僕はその小さな体を、力の限り抱きしめた。温かい。柔らかい毛並み。確かな命の重み。生きている。

腕の中で、タマが小さく「ニャア」と鳴いた。その声は、僕が何度も死んで、必死に探し求めた、何よりも尊い音だった。


その瞬間、世界が真っ白な光に包まれた。


気づくと、僕はいつものアパートの前に立っていた。

夕暮れの空。行き交う車。人々の話し声。全てが、当たり前の日常の音だった。

腕の中には、確かな重みがある。タマが、ゴロゴロと喉を鳴らしていた。まるで何事もなかったかのように。


デジタル時計に目をやると、時刻は午後五時二十五分を指していた。

悪夢のような三分間は、本当に、終わったのだ。


僕はタマを抱きしめ、アパートへの階段をゆっくりと上る。世界は元に戻った。何もかも、タマがいなくなる前の、あの平凡な日常に。


ただ一つ、僕を除いては。


電柱の上で、一羽のカラスが僕を見て、恭しく片目を瞑って会釈をした。その黒い瞳の奥には、どこか満足げな光が宿っていた。

道端のマンホールの蓋が、カタッと小さく音を立てて揺れた。まるで別れの挨拶のように。

僕の目にはもう、この街がただのコンクリートの塊には映らない。路地裏の影に、建物の隙間に、確かに息づくもう一つの世界の気配を、僕は確かに感じ取っていた。


腕の中のタマが、僕の顎に頭をすりつけてくる。こいつが守っている、奇妙で、騒がしくて、そしてどうしようもなく愛おしい世界。

面倒くさがりな僕の日常は、どうやらこれから、少しだけ騒がしくなりそうだ。


「おかえり、タマ」


僕は呟き、固く閉ざされていた玄関のドアを、今度はちゃんと鍵をかけて開けた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る