第16話 王都、静寂の門を破れ

 王都は、氷のように静まり返っていた。

 冬はまだ終わらない。雪が街路を覆い、城壁の上で兵士たちが凍えるように息を白くしている。

 けれど、その静寂の下で、確かに“音”が芽吹いていた。


 ――決起の音だ。


◇ ◇ ◇


 「……夜明けまで、あと三刻」

 ルークの低い声が、雪を踏みしめる音と混ざった。

 クラリッサは外套の裾を押さえ、うなずく。


 眼前には、王都の西側。かつて彼女が幼い頃に遊んだ花園の近くにある、古い水路の入口。

 今は氷と汚泥に覆われ、ただの廃道にしか見えない。

 だが、アーベル博士が命がけで残した設計図には――確かに“裏道”としての通路が記されていた。


 セリナが息を詰めながら呟く。

 「こんな所から、本当に王都に入れるの……?」

 「入れるさ」ルークが短く答えた。

 「ただし、静かにな」


 クラリッサは一歩、足を踏み入れた。

 冷たい水が靴を濡らす。けれど、その冷たさは、今の彼女には恐怖ではなかった。


 ――もう、迷わない。

 ――この命は、民のためにある。


◇ ◇ ◇


 水路の奥は闇だった。

 音が反響し、誰かの呼吸さえ巨大な影のように感じられる。

 だが、進むたびに、かすかに空気が変わる。

 湿った冷気の中に、ほんの少しの“春の香り”が混じっていた。


 セリナが振り返り、囁く。

 「……ねぇ、これって」

 クラリッサは頷いた。

 「そう。王都の氷が――少しずつ溶け始めてる」


 彼女は心の中で呟いた。

 (エルマー……あなたが、動いているのね)


◇ ◇ ◇


 夜が明ける直前、彼らはついに王都の地下街にたどり着いた。

 そこは、今や牢獄のように沈黙している。

 壁に刻まれた古い紋章、崩れた橋、そして鎖に繋がれた民。


 クラリッサの胸が痛んだ。

 あの夜、父王に追放を言い渡された時に見た、あの冷たい目。

 民を道具のように扱い、王国を“氷”で閉ざした暴君の姿。


 ――この場所を、もう一度光で満たさなければ。


 ルークが合図を送ると、待機していた仲間たちが一斉に動き出した。

 地下に潜んでいた反乱の民、かつての騎士、商人、そして学者。

 誰もが剣や松明を手にしている。


 「姫様、合図を」

 「いいえ、今の私はただの一人の民よ」

 クラリッサは微笑み、手にした小さな金の指輪を掲げた。


 ――王家の証。

 かつて失われたはずの、希望の象徴。


 それが光を放つ。

 水面が波紋を描き、静寂が裂けた。


 「今だ! “静寂の門”を破れ!」


◇ ◇ ◇


 轟音が走る。

 地下水路の奥で、氷を砕くような音が響いた。

 仕掛けられていた錠が爆ぜ、鉄の門が軋みを上げながら開く。


 冷たい風が吹き込み、長い間閉ざされていた空気が解き放たれた。

 松明が次々と灯り、民の顔に赤い光が映る。


 「進めぇぇっ!!!」

 ルークの叫びとともに、反乱軍が一斉に突撃した。


 城門を守る兵士たちが驚き、慌てて構える。

 だが彼らの剣は鈍く、心は凍っていた。

 それを砕くのは、怒りでも剣でもない――“希望”の声だ。


 「民のために戦え!」

 「自由を取り戻せ!」


 その叫びが、王都中に響き渡る。

 やがて兵士たちの中にも、兜を脱ぎ、民と共に立ち上がる者が現れた。


◇ ◇ ◇


 混乱の最中、クラリッサは城へ向かう階段を駆け上がった。

 階上からは吹雪のような冷気。

 王の魔術師たちが“氷結の術”を展開している。


 「お姫様……ここで死ぬ覚悟はあるのか?」

 敵の魔術師が笑う。


 クラリッサは息を整え、剣を抜いた。

 冷たい光が走る。

 「ええ。けれど――あなたたちが守るその王の“冷たさ”こそ、もう終わりよ」


 魔法陣が展開され、氷の矢が放たれる。

 クラリッサは身を翻し、剣で弾く。

 だが数が多い。


 その瞬間、背後からセリナが叫んだ。

 「姫様ぁっ!!」


 炎の魔法が飛び、氷壁を焼き切る。

 熱風が吹き荒れ、クラリッサの髪が舞った。

 彼女は剣を振り抜く――敵の杖が砕け、光が弾けた。


◇ ◇ ◇


 戦いの音が王都全体を包む。

 民の叫び、剣の衝突、魔力の閃光。

 しかしその喧騒の中に、確かに“温かい何か”が生まれていた。


 クラリッサは一瞬、空を仰ぐ。

 氷の空が少しだけ割れ、淡い朝の光が差していた。


(エルマー……見てて。私は、もう逃げない)


◇ ◇ ◇


 王城の最上階。

 玉座の間で、ひとりの男が立ち上がる。

 老いた顔、氷のような瞳。


 ――暴君、ヴァルター王。


 その背後には、氷の結晶に閉じ込められた巨大な剣があった。

 それは、王国の根源たる“氷の核”。


 男は冷たく笑った。

 「娘よ。やはり戻ってきたか。

  だが遅かったな――この国は、すでに“永遠の冬”に選ばれた」


 クラリッサの瞳が燃える。

 「いいえ、父上。

  冬は終わるのです。今、民が動き出した。

  あなたが閉ざした時間を、私たちが取り戻す」


 ヴァルター王が手を振ると、床に氷の棘が走る。

 だがその瞬間――

 天井の彼方で、轟音が鳴り響いた。


 「なに……?」


 吹き抜ける風。

 砕け散る氷。

 そして、北から届く“青と白の光”。


◇ ◇ ◇


 エルマーだった。


 氷原を越え、王城の上空に現れた白銀の竜に乗り、

 その手には“双光の剣”が握られていた。


 彼が剣を掲げた瞬間、空が裂ける。

 氷の雲が吹き飛び、朝日が王都を照らした。


 クラリッサが振り向き、息を呑む。

 「……エルマー」


 弟の瞳が、まっすぐに彼女を見据えていた。


「姉さん――行こう。

 この国を、取り戻すんだ!」


 光が、王都を包んだ。

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