ホルン吹きの休日はAIとともに

清瀬 六朗

第1話 黎明のファンファーレ ―瑞城マーチングの詩(うた)―(1)

 梅雨の晴れ間、窓から差し込む西日が練習室をオレンジ色に染めていた。瑞城ずいじょう女子中学校マーチングバンド部のいずみは、ホルンのマウスピースをそっと唇に当て、息を吹き込んだ。澄んだ音が、静かな午後の空気に溶けていく。この瞬間が、いずみはたまらなく好きだった。父も、祖父も、母方の親戚にも音楽家がいるという環境で育った彼女にとって、ホルンの音色は、幼い頃から身近にある、何よりも心地よい響きだった。


 しかし、その幸福感も束の間、隣のトランペットパートから微かに聞こえる音程のずれに、いずみは小さくため息をついた。新任の顧問、昌子しょうじ寿子ひさこ先生の指導は、いずみにとって新鮮だった。ピアノをこころざしていたという先生は、吹奏楽の指導にはまだ慣れていない様子だが、その熱意は伝わってくる。特に「音程とリズムの正確さ」を徹底する指導は、いずみ自身の音楽観とも合致していた。


 「いいかしら皆さん。まずは音程、リズム。この二つがしっかりしていれば、どんな曲でも美しく響きます。」


 昌子先生の声が響く。先生は、自身のピアニストとしての訓練経験から、基礎練習の反復こそが全てを解決すると信じているようだった。


 「ホルンパートは、この音階練習を繰り返しなさい。トランペットは、このスケールを正確に。焦りは禁物よ。練習、練習、練習。それが全てを解決します。」


 先生の口癖のように繰り返される「練習」という言葉に、いずみは頷いた。だが、その言葉とは裏腹に、パート練習の成果はまだ十分とは言えない。そんな中、ふいに、少し大きめの声が響いた。


 「あの、先生。」


 声の主は大場おおば小梢こずえ。テナーサックスパートで席次二番、いずみが「腹黒派」と呼ぶグループの中心人物の一人だ。彼女の活発な言動は、いずみにとって、先生の指示を軽視しているようにしか思えなかった。


 「もちろん、音程とリズムは大事だと思います。でも、私たちマーチングバンドですし、そろそろ、次の演奏会でやる曲のアンサンブル練習も始めた方が良いんじゃないでしょうか? 特に、カラーガードの鳥谷とりたにさんたちも、音楽に合わせて動きを合わせる練習がしたいって言っていましたし。そういう、みんなで一つの音楽を作り上げる練習も、大切だと思うんです。」


 小梢さんの言葉に、いずみは内心、反発を覚えた。昌子先生は、こういう積極的な発言に戸惑うのではないか。パート練習がおろそかになるような提案で、先生を困らせるなんて。いずみは、小梢さんの言葉を、先生を困らせるための「わざと」だと感じていた。


 (先生には、自分の信じる指導法を貫いてほしい。でも、先生は、小梢さんのような発言に、ちゃんと向き合えるだろうか…。)


 いずみは、昌子先生が小梢さんの発言に流されず、毅然とした態度で練習の指示を続けられるか、固唾かたずを飲んで見守った。


***


 部活動の合宿も終わり、新学期が始まった。いずみは、仲の良い松本まつもと美久みく(クラリネット)、信藤しんどう稜草みくり(トランペット)、上名川かみながわ美鳥みどり(アルトサックス)といった友人たちと、教室で集まっていた。昨年度の3年生が卒業し、いずみたち3年生がいよいよ最上級生となった今、マーチングバンド部の空気は、どこか張り詰めている。


 「ねぇ、パートリーダーの発表、どうなったの?」

美久が不安げな顔で尋ねた。クラリネットパートの美久は、パートリーダーに推薦されていたはずだ。

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