第2話
序章 死に至る勤怠報告書
目覚ましが鳴る前に、目が覚めた。
寝た気がしない。頭が痛い。
天井の染みをぼんやりと見上げながら、俺はぼそりと呟く。
「……あと二時間くらい寝てぇな」
だが、そんな贅沢は許されない。
時刻は午前四時半。
会社の始業は九時だが、俺は六時の電車に乗らなければ間に合わない。
地方支社への出向が決まって半年。
人員削減の煽りを受けて、営業五人だった部署は今や俺一人だ。
契約書のチェック、見積り、請求書、取引先への謝罪回り、
そして上司の“無茶ぶり対応”。
ぜんぶ俺。
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シャワーの音だけが、安アパートの静寂を破る。
シャンプーも切れているが、買いに行く時間がない。
スーツの襟は擦り切れ、ネクタイには昨日のコーヒー染み。
鏡に映るのは、青白い顔の二十八歳。
俺の名前は――加賀谷 真一(かがや しんいち)。
大学を出て七年目、
中堅企業の「オルテリア商事」に勤める平凡なサラリーマン。
いや、“勤める”というより、“縛られている”と言ったほうが正しい。
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「おい加賀谷、例の案件どうなってる?」
「納期? 無理って言うな。やるんだよ」
「残業? 甘えるな、社会人だろ」
課長の声が頭の中でリピートする。
出社した瞬間から、心が削られていく。
PCを開けば、メールの未読が百件を超え、
電話は鳴り止まず、チャットには「至急」「今すぐ」「報告」ばかり。
俺がミスすれば「責任取れ」。
俺が成功しても「当然だ」。
この職場では、努力はノルマ。
成果は他人の手柄。
疲労は自己責任。
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昼飯を食う時間もなく、
コンビニで買ったパンを机の下でかじる。
背後を課長が通るたび、咀嚼を止めて書類をめくるフリをする。
「昼も休むな、動け」
――口には出さないが、課長の目がそう言っていた。
同期はすでに二人辞めた。
残ったのは、俺だけ。
夜十時を過ぎると、オフィスの照明は三割ほど落とされる。
外のビル街は真っ暗。
なのに俺のPCの画面だけが眩しい。
指先が震え、文字が二重に見える。
それでも手を止めると、罪悪感が押し寄せてくる。
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「仕事を止める=死ぬ」
いつの間にか、そんな思考になっていた。
残業を重ねるたび、生活のリズムが壊れていく。
帰宅は深夜二時、風呂に入る気力もなくベッドへ倒れこみ、
気づけばまた朝四時半。
脳の奥がずっとざわざわしている。
思考がうまくまとまらない。
心臓の鼓動が速い。
だが、病院に行く時間はない。
休んだら、終わる気がした。
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ある日、得意先のプレゼン資料を印刷していたとき、
突然、視界が真っ白になった。
耳の奥で、血が沸騰するような音がする。
膝が抜け、机に手をつく。
「……やばい」
隣の後輩が駆け寄ろうとしたが、俺は手で制した。
「大丈夫、大丈夫だ」
言葉を吐きながら、口の中が鉄の味になる。
視界が揺れた。
それでも、プレゼンに行かなきゃ――。
行かないと、怒鳴られる。
怒鳴られたら、評価が下がる。
評価が下がったら、居場所がなくなる。
……だから、立ち上がる。
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その日、得意先のビル前で倒れた。
スーツ姿のまま、アスファルトの上に崩れ落ちた俺を、
周囲の誰かが「救急車!」と叫んでいた気がする。
体が重い。
まるで鉛を詰め込まれたようだ。
救急車のサイレンが遠ざかる。
いや、俺の意識のほうが遠ざかっているのかもしれない。
――ああ、これでやっと休める。
そう思った瞬間、すべての音が消えた。
まぶしい光が目の奥を貫き、
次に目を開けたときには――。
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見知らぬ木造の天井が、そこにあった。
鼻をくすぐるのは、インクと紙の匂い。
体を起こすと、机の上に一枚の書状が置かれている。
“リュミエール支部長 バルド・ランツ”
「……は?」
それが、俺の新しい人生の肩書きだった。
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