ポエムチャッター

沙知乃ユリ

第1話 碧い沈黙

※本作は文体・構成の実験を兼ねた不定期連作です。

言葉と心のすれ違いを、少し笑えて少し切ないかたちで描いています。

フィクションなので臨床心理士でも公認心理師でもありません。





春。桜舞い散り、出会いと別れが交錯するこの季節。

ボクは、運命的な出会いを果たした。と十年後に振り返るかもしれない。


白銀(しろがね)病院。


都心の一等地に居を構え、某病院ランキングでは毎年一〇以内を維持。

国内外にそのハイレベルさアピールし、政財界のVIPも御用達の総合病院。

それがこの、白銀病院だ。


高層ビル群が空を覆う都心のなかで、広大な公園内にある白銀病院は異質な存在感を放っている。まるで迷いの森をさまよっていたら、いきなり太平洋のど真ん中にワープした気分になる。


眠たい陽光を身体全体で受けとめ、吹き抜ける風の匂いに酔いしれて。

東京の空はこんなにも広かったんだな。あるいは、私の心が空を歪めていたのかもしれない。

そんな感慨に耽ることも容易なのだ。そう、白銀病院ならね。


自己紹介が遅れてしまった。

私はこの春から、白銀病院に就職したクリニカルサイコロジスト(C.P.)の真田透(さなだ とおる)。

私は日本の大学院を修了して日本の心理士資格を取得したあと、アメリカの専門機関で三年間修行を積み、C.P.の資格を取得した。要するに心理士だ。

ハッキリ言って、エリートだ。いわゆる一握りの存在だ。

だけど、私はそんなことをひけらかさない。鼻にもかけない。かけるのはメガネだけ。


なぜなら。

この一ヶ月あまり、ほとんど誰とも会話していないからだ。

ボクの喉はすっかり干からびた。


おっと、うっかりしていた。

仕事モードのときは“私”で通している。

いまはまだ勤務時間中。

“ボク”の出る幕は無いのだ。


白銀病院。ここは世界でもトップレベルの内科と外科がウリの総合病院だ。

しかし、最近の精神疾患の趨勢を鑑みて、これまで対応できなかった精神的な問題にもメスを入れる、というのが白銀病院の新たな治療方針だった。素晴らしい。


だが、話はそう単純ではない。国際A級の内科、外科と肩を並べることのできるトリプルAの精神科医や心療内科医は、そうそう見つからなかった。胸が痛くなる話だ。


しかし、日本在住の世界最高水準の伸び代をもつ心理士は見つかった。言うまでも無く、私のことだ。良かったね、白銀病院。


以上から私は、精神科も心療内科もないこの白銀病院に、無所属の存在として雇われてしまった。所属が無いので、私の机も無い。

さもありなん。


病院内をさまよい、誰も使っていないこの地下二階の書庫脇にある個室を、カウンセリングルームとした。もちろん無許可だが、私にはその権利がある、と言うことにした。何か言われたら平身低頭の心、火もまた涼しの意だ。

それになんとこの個室、奥には畳スペースの小部屋がついているのだ。仮眠スペースにピッタリ。場合によってはプレイルームとしても使えるだろう。プレイする相手はいないけど。


唯一の難点は窓が無いこと。エアコンも無いこと。暗いこと。

だが安心して欲しい。私の心は常に優しい光を抱えている。

今日はリュックにおしゃれな間接照明をinしてきた。

サーキュレーターや空気清浄機は一週間前に完備した。


この程度の苦難は既にアメリカで乗り越えてきた。

私は己の成長に感動し、鼻をかんだ。

この部屋、やっぱり黴びているのか。


チーン。チーン。


おや、私は一回しか鼻をかんでいないぞ。


チーン。チーン。


もう鼻はかんでいないのに、畳の方から鼻かみ音が続いている。

いや、これは・・・・・・PHSだ。

入職して一ヶ月、一度も鳴らなかったPHSが笑っている。

私は光の速さで畳にダイブした。緑っぽい匂いと土っぽい味がした。


“もしもし”

“ああ、真田先生?外科の極東(ごくどう)です。ちょっと診てほしいPatientがいるんだ”

“はあ”

“今から看護師がそっちに連れて行くからお願いね”

“えーと、それはどういう・・・・・・”


Pu!


無機質な音に、なぜか頬を引っ叩かれた気がした。

ふふ。いいだろう。私は叩かれた方が燃えるのだ。

私がそのPatientを診ましょう。


・・・・・・あれ。

この部屋を占拠していることが認知され、しかも容認されていた?

私の肝はいきなり急速冷凍と解凍を繰り返し始めた。


私はPHSを白衣に丁寧にしまう。左胸のネームプレートを軽く触る。

トイレに行き、歯磨きをする。メガネを拭く。

椅子と机のポジショニングを確認。

リュックの中の間接照明をセット。ヒヨコ型の可愛いやつ。

わずか三分間で私は場と気持ちを整えた。さすが私だ。


ドンドン。

ガチャ。バタン。


果たして、Patientはきた。Nurseに連れられて。


タイトな姿態をスカイブルーのナース服に包み、黒髪を後ろでまとめている。キリッとした眉がハッキリとこちらを見ている。いや訝しんでいる。ネームプレートには矢田咲(やた さき)の文字。

「やだ。本当にこんなところに居た」

思わず本音が口から小さくこぼれ落ちていた。

その言葉をすかさず拾う。

「珍獣扱いには慣れています」

「あ、失礼しました・・・・・・流してくれたら良かったのに」

さらに声が小さくなった。

「ふふ。真実の声に触れない心理士はいません」

「やだ、キモいです」

今度は大きな声で漏れていた。

叩かれるのは好きだが気持ち悪がられるのは得意ではなかった。


「極東先生の依頼で患者さんをお連れしました」

矢田がスッと身を動かすと、彼女の後ろから俯きがちに女性が現れた。


年の功は20代前半。大学生か新社会人か、まだあどけなさの残る面持ち。

焦げ茶のハイキングシューズに青のジーンズ。無地の白Tと薄茶のジャケット。重そうなリュックを背負い、チリチリの細い金髪を無造作に腰まで降ろしている。

碧い眼は憂いを帯び、両腕でギュッと自分を抱きしめている。

状況が飲み込めず、不安なのだろう。

誰のせいでこんなことに。私か。


「こちら、セラ・ノルンさん。19歳の留学生です」

矢田は、セラの経緯について教えてくれた。


セラは一年前から東京都内の某大学に留学生として滞在し、学業に勤しんでいた。これまで病気一つしてこなかった健康体であった。

今朝方、普段なら朝食に一番乗りの彼女が起きてこないことを心配した下宿のおばちゃんが彼女の部屋を訪れた。すると、咳き込む彼女と、その周りの壁や床の至る所に、大量の血が飛び散っていた。彼女の口からはなおも、赤い液体が滴っていた。慌てた下宿のおばちゃんが救急車を呼び、極東先生を受診した。しかし・・・・・・


「あらゆる検査を行いましたが、身体的には全く異常ありませんでした。そこで」

「私の出番ということですか。なるほど、おもしろ、いや興味深いですね」

面白いと言いかけて、矢田の眉が厳しくなったことに気づいた。我ながら、華麗な切り返しだ。


「しかし、血を吐く精神症状なんて聞いたことが無い。これは、じっくり本人と向き合わねば。ところで、その下宿のおばちゃんからも詳しく話を」

「下宿のおばちゃんは夕食の準備があるとかで、既に帰りました。では、よろしくお願いします」

バタン。矢田さん、退場もワールドクラスだね。


ここまでイレギュラーなことはアメリカでも経験していない。

さすがは白銀病院。ワールドクラスだ。

だが、基本は常に基本だ。まずは患者さんの話を聞く。全てはそこから。

私はセラに向き直り、もう一度彼女を見た。

セラの白Tの端には血と思わしき痕が。しかし、血・・・・・・?


私は椅子を引いて、彼女を誘った。

「お待たせいたしました。それではセラさん、どうぞこちらへ」

セラはぎこちなく頷くと、氷の上を歩くように恐る恐る近づき、ソッと腰掛けた。


素早く私も斜め四十五度の席に着く。

渾身の笑顔で彼女を安心に誘おう。

「セラさん、お話は伺いました。突然血を吐いて、気がつけば病院の地下に連れてこられ、さぞ心配だったでしょう。だけど、落ち着いてください。まずは今のあなたの気持ちを教えてください」

状況を説明し、セラの内面の不安を少しだけ言語化する。私の言葉を呼び水にして、彼女は口を開く、はずだった。だが、聞こえてきたのは、私のプライベートサーキュレーターが空しく回転する音だけ。


もう一度、完璧な表情で語りかける。今度は身振り手振りもつけて。

「そうですよね。いきなり言われても言葉にならないでしょう。こんなときは、簡単なステップを踏むんです。セラさん、あなたの好きな食べ物はなんですか?」

オープンクエスチョンのハードルは意外と高い。そんなときはクローズクエスチョンだ。好きな物、特に好きな食べ物は鉄板だ。


「・・・・・・っ」

セラは、何かを伝えようとするが、その努力は意味のある形にならなかった。


ああ、私はなんて初歩的なミスを。

すまなかったMs.セラ。

彼女は留学生なのだ。日常会話ならともかく、込み入った内容は高度過ぎたのだ。

私は、英語で挨拶をして簡単な質問を繰り出し直した。

しかし・・・・・・


彼女は、日本語も、英語も、わからなかった。

瞳の碧色をさらに濃くした彼女はノロノロとリュックを床に降ろし、内ポケットから手帳を取り出した。机の上に置かれたそれは、パスポートだった。

私はそれを触ります、と目配せし、彼女が頷いたのを確認して手に取る。

氏名は、国籍は、なんだろうこれ。何語だ?


見たことの無い文字列が並んでいた。アルファベットではない、強いて言えばアラビア文字のような。読めない。全く読めない。


「セラさん、もしかして、日本語も、英語も、わからない?」

わからないはずなのに何故か通じた。彼女はコックリと頷いた。


頭の奥で、沈黙が長い線を引いて。花火のように弾けた。

「え、ちょ。待って。ボク、どうしよう、どうしたらいい・・・・・・?」


彼女の碧い目が、静かに花火を写していた。


――――――――――――――――――――――


◆あとがき


読んでくださってありがとうございます。

この作品『ポエムチャッター』は、言葉と心のあいだにある“ズレ”を、

少し笑えて、少し切ないかたちで描いてみた実験作です。

言葉が届かない瞬間って、案外、心が一番近づいているのかもしれません。

そんなテーマを、気まぐれに、好きなタイミングで更新していけたらと思っています。

本作は不定期連作なので、

気が向いたときにまたふらっと覗いてもらえたら嬉しいです。

コメントや感想も、AI通訳を通さずに(笑)、お待ちしています。

――沙知乃ユリ(真田透の上司ではありません)

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ポエムチャッター 沙知乃ユリ @ririsky-hiratane

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