第16話:燃えろ、ウォルフ!

 ケント・ストリートに立ち並ぶビルの狭間を彼女は飛行する。自分に向けられる恐怖と好奇の目は、ノイの心に漣を立てる事は無かった。戦場は彼女に優位な場所だ。ここには沢山の遮蔽物があり、奇襲や防御に役立ちもしもの時の脱出の際にも優位に立てる。速度こそ追跡者に劣るものの、その分小回りはこちらの方が上だ。空中ならあちらに軍配が上がるかもしれないが、遮蔽物のある街中なら小回りが効くこちらに分がある。本能による戦略眼めいた勘により、彼女はそう判断していた。


 その時、ふと彼女に戦慄が走った。次いで聞こえてくる甲高いエンジン音にノイはついに追跡者が自分に追いついた事を知る。刹那、行動は飛行から迎撃に移る。

 彼女はそれまで羽を広げて飛行していたが、瞬間彼女の姿が手品の様に掻き消える。次の瞬間、彼女は羽を折り畳み二本の巨大な足でビルの側面に対し、横向きで立っていた。そのままビルを足場にして彼女はその銀の機体に向けて跳躍する。……跳躍の衝撃からビルの壁は踏み砕かれ、窓ガラスは何枚も割れ爆ぜた。

 滑空する中、ノイは剣先をコクピットの中の人間へと向ける。そう、赤いコートを羽織ったあの男に向けて……。


「イェサナド、ピーター……獲物がかかったぞ」


 〈怪鳥号〉の中でウォルフはイコライザーを通し、ピーターとイェサナドに報告する。直後操縦桿を操作し、ノイの刺突を〈怪鳥号〉を右に傾けて回避する。そのまま彼は機体を操作し目的地であるウィンヤード・パークへと向ける。ノイは自分の目前にバリアを張り、それを足場にして身を翻し再度銀色の機体の後を追った。シドニーのビル街を〈怪鳥号〉とノイが疾走する。


「こっちは持ち場には着いた……ちゃんと中央に落としてよ?」


 ウィンヤード・パークに植えられた木の陰に隠れて、そこにイェサナドはいた。イコライザーのBluetooth機能を使いイヤカムで会話しながら銃の調整をしている。公園周辺は一通り避難誘導が完了しており、周囲には地元警察と軍隊が睨む様に公園を取り囲んでいる。彼女はパイルバンカーに弾丸を装填する。黄色い三十ミリ程の弾だった。弾丸を入れ、ケースを閉め、最後にスライドを引くと装填音がした。


「こっちも準備は出来ている」


 イェサナドから離れて地上百m。ウィンヤード・パークを取り囲むビルの一つの屋上にピーターはいた。彼はゴーグルの横の目盛を調節する。それは視力倍率を上げる魔術が仕掛けてあり、彼の視界が数十m先まで見通せる様になった。今はまだ何もない。

 ――時計に刻まれた残り時間は後四分。


「来た……」


 ピーターの視力倍率の上がったその目がまず捉えた。アースキン・ストリートに乱立するビル街を通り抜けてまず〈怪鳥号〉の銀の機体が見え、次に追撃するノイの姿が見えた。ノイは進む毎に上下左右を動き回りながら〈怪鳥号〉に攻撃を仕掛けている。それを紙一重の操作で〈怪鳥号〉は避けていた。ピーターが目を凝らすと、船体にはノイの剣が掠めた後が幾つも刻まれている。そして〈怪鳥号〉が上空へと上がる。ノイは一度その場に停止し、ビル街に留まろうとするが――その思惑は一つの業に破られる事となる。

 マックス・インメルマン。その男は第一次世界大戦で活躍したドイツ軍のエースとして知られている。彼が一九一六年に墜落死するまでの間に地上に遺した業が一つある。

 ノイの経験と本能が告げる。この場に残る事は死を意味する事を。銀の機体は上空を駆け上がり、そしてそのままループする。〈怪鳥号〉はコクピットを下にしながら頂点へ達し、――その時業が紐解かれる。機体は半横転し元の位置に戻りながら急降下する。すると、位置は再度組み換えられ〈怪鳥号〉がノイの背後へ着いた。これがインメルマンがエースの称号と共に遺した業、“インメルマン・ターン”である。後ろに着かれた直後、ノイは強制的に上空へと駆りだされる事となった。


「ピーター、ノイは上に上がった」

《あぁ、確認した》

「お前はあの子を落とすだけで良い。そしてイェサナド、お前はあの子の羽を破壊するだけで良い」

《……あんた、マジでやるっての?》

「あぁ。後は俺がやる」


 そして、双方の位置はウィンヤード・パーク上空に達する。そしてノイがその地点に入り込んだ瞬間、ウォルフは機銃の引鉄を引いた。ノイは咄嗟に身を守る為のバリアを張って防ぐが――

 ピーターから放たれた魔術は防ぐ事は出来なかった。瞬間、彼女は地上のウィンヤード・パークに転移する。そこは木や銅像が一切存在しない中央部だ。彼女は飛行状態から引き摺り下ろされた為思わず地面を転がり込む。落下ダメージは直前に張ったバリアで分散したものの、流石に衝撃が尾を引いているのだろう、少しばかりよろめいていた。彼女が身体を起こそうとしたその時だ。


 銀髪の女ドワーフは速やかに疾駆して接敵、その手の銃を振るった。白銀の杭は丁度ノイの羽の根元に添えられる。杭の引鉄が速やかに引かれた。風船が破裂する様な音を立てて銀の杭が射出される。杭はノイの背中の羽の連結部分――羽と少女を繋ぐ二枚の円形パーツを完全に破壊した。薬莢がパイルバンカーから排出されるのと、連結部を失った羽が地面に落ちるのは全く同時。

 そして、彼女がノイの脚部に吹き飛ばされたのはその直後であった。ノイは自分の剣を地面に突き刺すとそれを軸にし、二本の足をまるで駒の様に回転させる。左足でイェサナドの足を刈り取り、右足でイェサナドを吹き飛ばした。周囲を取り囲む警察と軍隊の数人は咄嗟に車の陰に隠れる。彼女はそのまま公園の敷地外まで飛ばされ丁度駐車してあった赤い車のドアに激突する。彼女の骨が何本か折れる音がし、銀髪の後頭部は窓ガラスを粉々に叩き割った。


 ノイはゆっくりと二本の足で立ち上がる。そして一歩ずつ踏み締めながら、イェサナドの元へと歩み寄る。右手に握った剣を水平に傾け、能面の様な顔を崩さないまま。イェサナドの顔に赤い血が垂れる。彼女は自分の顔を流れる血をぺロリと舐めた後、笑ってこう言った。


「ノイ、あんたの後ろに死神が見えるわよ?」


 イェサナドがそう言った刹那、ノイのその背後で銃声が走った。彼女が振り向くと、そこには赤いコートと黒い髪、その口元には火の着いていない葉巻が一本。金色の瞳には闘志が静かに灯っている。彼は砂煙の中で銃口を上に向けていた。ウォルフ・スランジバックがそこにいる。


 ノイが自分に向かって疾駆すると同時に銃口が敵を睨む。右手のブラスターは赤い光を放ち、光条が瞬く。勿論銃撃が届く筈は無い、目的は挑発だ。射撃に反応しノイは右に跳躍して一度回避する。躱した直後、彼女の足に仕込まれていた隠し足が発動しバネ仕掛けの様にノイの進行方向は再度ウォルフに向かって修正される。茶色の髪が一度大きく揺れた。


 剣を上に振り被り、ノイはウォルフを刃圏に収める。まともに喰らえば彼の身体は真っ二つになる事は想像に難くない。無論、ただ喰らえばの話であるが。上から下へ一閃される刃をウォルフは愛用の鞭を抜き放ち、棒状にして受けた。顔前に横向きで、地面に片膝を着いてその一閃を何とか防ぐ。

 彼は力強く、速い一閃だと思った。その時、ウォルフは直感はこう感じた。これは、この戦い方は何かに似ていると。じりじりと鞭がノイの剣の切れ味に押され、焼け焦げた様な匂いが鼻を刺す。そして鞭の強度が最後の一線を越えそうになった時だ。


 ――銃声と剣による防御はほぼ同じだった。


 自分の背後にいたイェサナドが放った拳銃の弾を、ノイは咄嗟に剣によって防ぐ。ウォルフの視界に入ったのは両手を突き出す様に拳銃を構えている彼女の姿だった。その隙を見計らってウォルフも銃の引鉄を引き、三発ノイに向かって銃撃を喰らわせる。勿論銃撃は〈運命の証〉のバリアに防がれた。〈運命の証〉に通常火力が通じないのは理解している。ウォルフが銃撃を重ねたのは、飽くまで挑発だ。本命はこれから来る事に有る。


 ウォルフの銃撃を防いだ後、ノイは即座に跳躍。そしてウォルフ達との距離を十m程離した所で再度剣を構えた。両手に握った柄を顔の前に置き、刃を敵に向け、腰と足を地面に深く落として。


「ちょっと、大丈夫?」


 イェサナドは拳銃の銃口をノイに向けたまま、素早くウォルフの左隣に着いた。形としては丁度背中を合わせ合う様に。


「あぁ、問題ない。そっちは?」

「見ての通りよ」


 彼女には既に顔を浸していた血は無くなっており、身体も骨折したとは思えない程軽やかに動いていた。


「さて、こっからが本番だ。イェサナド、お前さっきあの子の動きは見えたか?」

「辛うじて。……あんたは?」

「似た様なもんだ。……あんな凄まじいのがゴロゴロいるのか、この世界って?」

「良い事教えてあげるわ、ノイは才能あるけど実力は全体的には中の中ぐらいよ」


 彼女がそう言いかけた瞬間、ノイが動いた。彼女は二人の間に入り込み、駒の様に身体を右に回し回転切りを浴びせようとする。……まずウォルフは自分の首を狙った一撃を身体を右に逸らす事で回避。イェサナドは自分の頭へ向かって来る尻尾の一薙ぎを左に転がり躱す。その後ウォルフが鞭を、イェサナドが拳銃をノイに向けるが直前に跳躍され回避された。

 再び彼我の距離が十mに引き離された後、彼等は再び背中を合わせ軽口を叩き合う。勿論銃口を向けるのは忘れずに。


「あれで中の中とかマジかよ」

「訂正。今は中の上くらいだわ」


 イェサナドは一息置いて、先程の戦いで地面に落ちていたライフルを拾う。そして拳銃から得物を取り替え構えた後。


「……乗りかかった船よ、あたしもここに残って何とかあの子の手札を切らせまくる」

「いいのか? お前はもう良いんだぞ?」

「骨の折れる仕事なら、人手は多い方がいいでしょ」

「悪いな、イェサナド」

「いいって事よ」


 そしてイェサナドはライフルの引鉄を引いた。マズルフラッシュと乾いた音が響き、鋼鉄の銃弾がノイに向けて殺到する。イェサナドが戦慄したのは次の光景を見た時だ、……ノイは浴びせられる銃撃を剣で叩き落していく。


「アンタ、腕を上げたわね」


 彼等が最初に取り決めたのは、ノイから飛行能力を奪い、その後全ての手札を切らせる事だった。既に飛行能力を奪い、シールドも二枚とも切らせた。後はあの瞬間移動を切らせるだけだ。後はウォルフが全て行うという。彼の言葉を信じてイェサナドは次の細工を行った。浴びせる銃撃の雨に少しばかり一定間隔の意図的な空白を作り始めたのだ。そう、彼女がタイミングを見切って反撃し易い様に。次に彼女はウォルフに向けて目配せをする。既に音で察してたのであろう、ウォルフの瞳には理解の光が灯っていた。


「――」


 銃撃のタイミングを見切り、ノイはまずイェサナドの元に駆けた。足甲に仕込まれていた隠し足が展開され間合は一挙に詰められ、次いでの三度の瞬間移動により間合いを惑乱した後、丁度彼等の中央に着く。下から上への一振りが彼女を襲おうとする。直後ウォルフはノイの顔から数cmの所を撃ち、彼女の注意を自分に向けた。振り下ろされる剣はイェサナドの頭の直前で止まり、次いでノイはウォルフの元に横一線の斬撃と共に向かった。ウォルフは持ち前の反射神経で後ろに半歩下がり何とか回避する物の、ノイは間合の中で矢継ぎ早に剣戟を重ねる。


 上下左右。手だけで無く足や尻尾を使い、時にカポエラの様に逆立ちをしたり回転したりしながら彼女は極めてトリッキーな動きでウォルフを翻弄する。攻撃を表現するなら球体だ。ノイは全身を使って様々な角度と速さと距離から成る斬撃の球体を作っている。ウォルフはそれを銃撃と鞭で致命的な物だけを防ぎ続けるが、損傷は蓄積し血や衣服の切れ端が周囲一帯に飛び散っていった。


 剣をいなし続ける時、ウォルフの金の瞳は咄嗟に彼女の右手を見る。それは似合わない黒い手袋が着けられていた。もし、あそこを狙えれば、状況は一変するだろうに。……しかしその湧き上がる欲望は、直に掻き消した。それは余りに酷すぎるからだ。


「あたしもいるわよ!」


 そこにイェサナドが加わった。彼女もまた両手に持ったライフルと拳銃でノイの斬撃を凌ぐ。パイルバンカーには弾が装填されており、彼女が時折ノイの足に狙いを定めるのがウォルフには見て解った。ノイから繰り出される蹴りをイェサナドはライフルの銃身で受けた後、拳銃を数発放つ。それとほぼ同じタイミングでウォルフが棒状にした鞭でノイの腹部を狙った。しかし銃撃は剣技で、鞭は尻尾で弾かれ防がれる。

 ノイが剣を上に放り投げると、再び独楽の様に一回転する。その中で彼女の尻尾が剣を絡め取り、止まった瞬間右背後から左前方に向けて弧を描く様にしなる。それはまるで蠍が尾で獲物を狙うような一閃であった。

 イェサナドは身を引いて回避したものの、ウォルフは一拍程遅れその刃を胸に受けた。彼女の刃は六〇センチ大の切傷を作ると同時に傷口を焼く。痛みと自分の肉が焦げる匂いに少しばかり彼の顔が歪む。その間ノイは攻撃を止める事は無かった。ウォルフの胸板を切り裂いた後、彼女は右の隠し足を展開し一気に距離を詰め、自分の右肘を船の衝角の様に突き立てウォルフの鳩尾をまず抉る。次いで右足を大きく振り上げ彼の顎を蹴り上げた。そして最後にその喉目掛け一閃を狙う。青い瞳が一度収縮した。


 剣が跳ね上がる。

 しかし、その緑色の刃を防いだのは、破裂する様な音と共に射出された銀の杭だった。イェサナドがその刃を防いでる間にウォルフは何とか踏み止まり、同時に三発銃撃を重ねた。再び状況は銃と剣の攻防にリセットされる。ウォルフとイェサナドはノイに銃撃を重ねながら、半ば絶叫の様に軽口を叩き合う。


「これで中の上かよ!」

「上の中に訂正!」


 そして、その転機は唐突にやって来た。異変が起きたのはウォルフの側であった。自分の首を再度狙った一撃を銃で弾き返した直後、彼の右手から突如一切の力が無くなる。……するりとノイに向けていた銃が彼の右手からすり抜けて行く。

 まさか、こんな時に。――心中で一度ウォルフはそう毒づいた。彼はこの感覚に覚えが有った。それはオリジナルであるレオパルドから引き継いだ弱点、遺伝病による利き腕の痙攣癖が今この時になって発症したのだ。こうなれば状況は致命的だ。腕の震えは回復に最低でも五分はかかるだろう。右腕が使えない事は銃が撃てなくなったばかりか、機動力にも支障を来してる。力の入らない右腕は今や錘となってウォルフから素早さを奪った。


「――」


 そして銃が地面に落ちた直後、目の前のそこからノイが消失した。戦闘経験は自然とウォルフの中で答えを浮かび上がせる。そう、あの瞬間移動だ。

 首元に殺気を感じたのはその直後である。彼が殺気を目で追うとそこにはノイがいた。彼女は彼の右背後に跳躍していたのだ。その冷めた目と視線が合ったと同時、ノイはウォルフの首元目掛けその刃を振るっていた。その斬撃は死神の鎌に他ならない。

 ウォルフの戦闘本能は回避を試みるが、戦闘経験はこう告げていた――これは間に合わないと。回避も迎撃も防御も不可能。頭の中では幾つかの選択肢が浮かび上がるものの、その全てが夢物語になっていく。それはあの時の様に。

 そこで彼は思い出した。そうだ、この戦い方はあの男に似ているのだ。彼女自身の色も大分入っているが、この剣戟はあの男が繰り広げる物だ。

『満身創痍のまま、俺の前に立った事』

 その一閃、そして呆れた様な物の言い方。そしてセンサーから放たれる侮蔑の視線。

『それが貴様の敗因だ』

 この剣は――間違いなく、ウィラード・クロックワークの物である。

 魂奥深くに刻み込まれた死の直前の記憶を垣間見た時、過去の記憶と現実が相混じり合う。そして記憶のウィラードと現のノイの剣が同時に彼の首に接しようとした瞬間――彼の金の瞳の端に蒼い閃光が走った。……瞬間、ウォルフは自分の直前で止められたノイの剣を見ていた。一瞬幻覚を疑うも違った。これは――


「――イケてるだろ?」


 金髪に蒼銀のローブ。声を辿るとそこにはピーターが居た。彼は右手で銃把を握り締め、空間は魔術によって凝結され剣はウォルフの直前で止められていた。


「遅かったじゃない?」

「悪い、シドニーにもイスタルジャの増援が来て、こっちの増援に引き継ぐまで時間を稼いでた」


 その時、ピーターの背後のビルで小さなどよめきが上がる。そして彼の耳にこんな声を拾った。


「待ってくれ、あの青い服のヤツ。あれもしかしてピーター・ウィリアムズじゃないか? 『アメリカン・ウィザードテール』の」


 それに対し彼は青紫の瞳でウインクを返す。その後どよめきは歓声に変わり、彼はその反応に思わず動揺した。彼は思う、未だに自分が実はドラマの主役でましてや結構人気だったとは信じられない、と。今の素振りもかつてなら失笑物だし、今でも仲間内では失笑されるだろう。だが時折外に出ると、自分の顔を知っている者がおり、こうやって自分の思わぬ人気に驚いてしまう。……ピーターがそう思いを巡らせた直後、ウォルフはノイに向けて呟く。


「ようやくだ。ようやくお前に勝つ為の条件が揃った」


 左の棒状にした鞭を向けながら、沈黙を保つノイに向け彼は不敵に笑った。こういう時は笑う物だとレオパルドは言っていたからだ。……今この時、瞬間移動を切らせた状態のこの距離を得た瞬間。ウォルフの中で勝利の条件は揃っていた。そして彼が描いた方程式は解へ向かう。

 空いた彼我の距離をノイは再度詰める。瞬間移動程ではないが、恐らく身体能力にもかなりのブーストがかかっているのだろう。彼女は再度ウォルフへと切りかかる。

 そのままウォルフは剣戟を重ねる。彼がその刃を凌ぐ中、ピーターは自分の時を再度加速させてから補助しようと手甲に手を伸ばすも――次の瞬間ノイと目が合った。


「ダメだ、さっきので警戒されたな」


 恐らく、加速した瞬間標的は自分に変わるだろう。そうすれば負けるのは間違いなく自分だと思うと、彼はそのまま手甲から指を離した。その中でウォルフは次の段階に取り掛かる。


「本当に凄い速度だ――だが、コイツはどうだ?」


 ウォルフは口元の葉巻をノイに飛ばした。それは即座に両断される。葉巻に仕込まれた小型爆弾が残滓の様に爆ぜ、袈裟切りしたお陰で彼女は本来取るべき体勢が崩れた。身を翻し、彼女は剣の柄に再度力を込める。ノイの戦闘本能は突きを最適解とし、ウォルフの腹部を狙いを定めた。……その時、彼は勝利を確信する。

 ウォルフは同じタイミングで鞭をわざと落す。それが彼の狙いであるからだ。彼女に突きを打たせる事。それがウォルフの狙いだった。剣術において突きは強い一手だ。だが、そのデメリットから死に太刀とも呼ばれている。突きの一手を打った後は、必ず引き抜かなければならないという欠点が有るからだ。それは突き手がその場からすぐに逃れられない事を意味する。

 ウォルフは回避しようとしなかった。防御もとろうとしなかった。丁度自分の左手に向かう形になったノイに彼は叫ぶ。その剣先から目を逸らさずに。


「来い! 貴様の獲物はこの俺だ!」


 彼は腹への刺突を受け入れた。突き出る刃を身体で受け止めると同時に、渾身の力を込めた左手で彼女の頭を掴む。時計の針が丁度十三分経った事を告げた時、ウォルフはその能力を使った。能力の名前はサイコ・ジャック。人間や物の思念に干渉する能力である。人や物から思念を読み取る事も出来れば、人や物の思念を強制遮断する事も出来る。彼、ウォルフ・スランジバックだけが持つ能力であった。

 異能の嵐は静かに荒れ狂い、彼女の意識を刈り取る。少女の身体が崩れ落ち、ウォルフは腕の中へ収める。禍々しい装束は粒子状となって消えて行き、写真で見たのと同じ物に戻って行った。光の刃もまた同じ様に消え、尻尾もまた力を失い下に落ちる。一瞬甘い香りがし、次いで自分の肉を焦がす匂いがウォルフの鼻を突く。


「本能だけじゃ戦闘は出来ない。駆け引きってのは、こういう時の為に有るのさ」


 腹の傷跡は焼かれ、血は零れなかったものの、彼の腹にはけして小さくない穴が空いていた。ウォルフの身体の再生機能は修復を始める。


「まぁ、スマートなやり方とも言えんがね」


 自分の雑嚢から医療品類を取り出し駆け寄ろうとするイェサナドを手で制し、ウォルフは葉巻を口に咥えた。火は付けずそのまま咥えるだけ。……紙一重で避ける事は出来た。それでも喰らったのは、避けた直後〈運命の証〉に防がれる事を危惧したからだ。しかしこの勝負に出るのを躊躇った最大の理由は、彼女の武器だ。それは彼の一度目の死。その時に振るわれた武器と、彼女の武器が全く同じだったからだ。その恐怖は彼の中で未だ拭いきれていない。

 ぞくり、と彼に悪寒がしたのはまさにこの時だった。張り詰めた緊張の糸がぷつりと途切れたのが、比喩ではなく実際に感じ取っていた。気を抜けばきっと両足から力は抜け、その場にへたり込んでしまうだろう。だがそれは許されない、未だ誰もが見ているのだから。彼は一度自らの右腕を出すと思いっきり噛んだ。それで身体の怯えを収める。


「……自分で思っていたより、女々しいもんだな。俺も」


 顎を緩めた後、ウォルフは苦々しく呟いた。そして同時に身体の衰えを感じる。身体に空いた穴を埋める速度は、最盛期より遥かに遅い。腕の中で少女の身体が静かに震えた。


「レオ、パルド……さん」


 ノイのそのまどろむ様な青い瞳には、きっとレオパルドが映っていたのかもしれない。こういう時の対処方法をウォルフは運良く心得ていた。


「少し眠ってろ」


 優しく微笑んだ後、その身体を抱き締める。そして彼は青空に向けて呟いた。もっと正確に言えば、その向こう側にいる男へ。


「な、俺の言った通りじゃないか――レオパルド」


 言葉は虚しく空に消えて行く。

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