【サスペンス短編小説】透明な檻、あるいは凍えた魂の救済(約27,000字)
藍埜佑(あいのたすく)
第一章:殺人者と読心者
十二月の夕暮れは、東京の街を灰色の冷気で包んでいた。
茨野朔耶は品川駅前の高層ビル二十三階、ガラス張りの会議室から眼下に広がる街を見下ろしていた。無数の光が点滅し、人々が蟻のように行き交う。彼の表情には何の感情も浮かんでいない。ただ、計算機のように冷徹に、次の手を考えている。
「茨野さん、素晴らしいプレゼンでした」
背後から声がかかった。
クライアント企業の重役だ。
朔耶は完璧な笑顔で振り返った。
「ありがとうございます。御社の利益最大化のために、最善のストラテジーを提案させていただきました」
その笑顔は、長年の訓練によって磨き上げられた完璧な仮面だった。
朔耶は人々が何を求めているかを正確に理解している。温かさ、共感、信頼——それらを演じることは、彼にとって呼吸をするのと同じくらい自然なことだった。
会議が終わり、朔耶はエレベーターホールへ向かった。そのとき、偶然すれ違った女性が、一瞬だけ彼を見た。
正真華音。
その瞬間、朔耶の内部で何かが反応した。まるで、長い間閉じられていた扉が、わずかに軋んだような感覚。
華音もまた、朔耶を見ていた。彼女の瞳には、深い知性と、何か測り知れない静けさがあった。
二人はそのまますれ違った。
エレベーターに乗り込んだ朔耶は、自分の心拍数がわずかに上昇していることに気づいた。興味深い。彼が感じることなど、めったにない。
---
その夜、朔耶は自宅のマンション——東京湾を一望できる高級タワーマンションの最上階——でワインを傾けていた。部屋は完璧に整理され、装飾は最小限。まるでホテルの一室のように無機質だ。
デスクの上には、一枚のファイルが開かれている。
正真華音。
二十六歳。
認知科学研究所勤務。
専門は意識研究と神経心理学。
朔耶は華音の写真を見つめた。知的で端正な顔立ち。だが、それ以上に彼の注意を引いたのは、彼女に関する別の情報だった。
異常に高いIQ。
推定160以上。
論文は国際的に常に高く評価されている。
そして、もう一つ。ある筋から得た、確認されていない情報。
特殊な能力を持つという噂。詳細不明。
朔耶は薄く笑った。面白い。非常に面白い。
彼が華音を殺害する理由は、極めて個人的なものだった。それは、五年前のある出来事に端を発している。詳細は今は重要ではない。重要なのは、朔耶が決断したということだ。そして彼が決断したとき、それは必ず実行される。
これまで、朔耶は七人を殺害してきた。
最初は十二歳のとき、両親だった。彼らは毒親と呼ばれるタイプの人間で、朔耶を精神的に追い詰めていた。ある冬の夜、朔耶は冷静に計画を立て、実行した。ガス漏れによる事故を装った完璧な犯罪。朔耶は両親を失った可哀そうなみなし子を完璧に演じた。周囲の憐憫とそれに付随する薄っぺらな同情が、滑稽で愉快だった。それ以来、彼は自分が特別であることを理解した。
その後の六人も、すべて完璧に処理された。警察は一度も朔耶を疑わなかった。
しかし、正真華音は違う。彼女は知的で、おそらく並外れた洞察力を持っている。それが、朔耶の狩猟本能を刺激した。
朔耶はファイルを閉じ、窓の外を見た。夜の東京湾に、無数の光が反射している。
「さて、どう料理しようか」
彼の声には、何の感情も込められていなかった。
---
一方、その同じ夜、港区のアパートメント——朔耶の住居とは対照的な、本に埋もれた小さな部屋——で、華音は机に向かっていた。
彼女の前には、認知科学の最新論文が広げられている。だが、彼女の意識はそこにはなかった。
今日、ビルですれ違った男のことを考えていた。
茨野朔耶。
華音は、人の心を読むことができる。それは彼女が生まれつき持っている能力だった。幼い頃、この能力は彼女を苦しめた。他人の感情や思考が、まるで騒音のように頭の中に流れ込んでくる。学校では、クラスメイトの嫉妬や教師の偽善が、彼女には透けて見えた。
しかし、成長とともに、華音はこの能力をコントロールすることを学んだ。意識的にフィルターをかけ、必要なときだけ他人の心を読む。今では、それは彼女の一部として機能している。
だが、今日すれ違った男——茨野朔耶——は違った。
彼の心が華音に流れ込んできた時、そこには何もなかった。
いや、正確には、あまりにも整然としすぎた何かがあった。まるで、完璧に管理された空間。感情の波がない。共感の響きがない。非人間的な。
そして、彼女は感じた。彼の奥底に、何か冷たく、鋭利なものが潜んでいることを。
華音は深く息を吐いた。彼女の高いIQは、パターン認識に優れている。そして、彼女が読み取ったパターンは、一つの可能性を示唆していた。
サイコパス。
彼女は、自分の研究分野として、サイコパシーについても深く学んでいた。共感の欠如、浅い感情、操作性——それらの特徴が、あの男には当てはまる。
しかし、それだけではない。彼女の直感——彼女の能力の一部——が警告を発していた。
この男は、危険だ。
華音は立ち上がり、窓の外を見た。遠くに、東京タワーの赤い光が瞬いている。
「あの男は私を標的にしている」
彼女は静かに呟いた。
根拠はない。
だが、確信はある。
あの男、茨野朔耶は、何らかの理由で、自分を殺そうとしている。
華音の心臓が、静かに、しかし力強く脈打った。
恐怖ではない。
これは、知的な挑戦に対する、彼女自身の当然の反応だった。
「面白い」
彼女は、朔耶と同じ言葉を、まったく異なる文脈で口にした。
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