第9話:赤い家族(前篇)
火星・嵐の季節〉
火星では、一年の三分の一が「嵐」だ。
砂塵は大気を飲み込み、
夜と昼の境界を壊し、
何もかもが“赤い影”に溶ける。
外に出られない日が続くと、
心理状態は地球の研究室が作るモデルを簡単に裏切った。
「……ねえ、空、どこいったの?」
ナディアがドームの壁にもたれ、
砂に噛まれるような音を聴いている。
「嵐に隠れてるだけさ。」とエロン。
「外に出られない世界って……牢屋みたい。」
「牢屋は“出られない”場所だ。
ここは“出られるけど、死ぬ場所”だ。」
少女は目を丸くする。
「……どっちがマシなの?」
「どっちも、選んだ人間次第だ。」
エロンは壁に手を置いた。
その向こうでは、赤い砂が狂ったように渦を巻いている。
(……この惑星は、子供たちには重すぎる。)
だが――彼らは、この世界を選んだわけではない。
大人たちが選び、大人たちが連れてきたのだ。
◆
〈酸素事故〉
警報が鳴ったのは深夜だった。
《O₂レギュレーター:異常値検知》
《分配ライン 4A:圧力低下》
エロンは寝台から飛び起き、
工具箱を抱えて廊下を走った。
「どこ!? どこが漏れてるの!?」
サーシャ が後ろから叫ぶ。
「4A の端末群……子供区画だ!」
二人は加速し、
隔壁を次々に手動で開けた。
子供区画の一角、
部屋の床が薄く凍りついていた。
酸素が漏れて、
内部の水分が氷結したのだ。
ナディアが泣き声で叫ぶ。
「ルカが倒れた! 息が……!」
小さな少年が目を閉じ、
薄い胸が上下していない。
エロンは迷わなかった。
「サーシャ、タンクを寄越せ!!」
彼は少年の胸に、
緊急O₂供給マスクを押し当て、
背中を軽く叩き続けた。
「ルカ、聞こえるか……戻ってこい……!」
数秒後――
少年の喉が、小さく震えた。
「っ、……かはっ……!」
ナディアが泣き崩れる。
「ルカ!! よかった……!」
エロンはふうっと息をついた。
その直後、
胸の奥に鋭い痛みが走る。
(また……だ。)
生体チップの焼け焦げた痕。
そこが、まるで“刺すように”熱い。
サーシャが駆け寄る。
「エロン、顔色悪いわ……!」
「後だ……まずは漏れを止める。」
彼は立ち上がり、
凍りついた床の上に膝をついて配管を調べ始めた。
――酸素は命だ。
地球では“数字”でも、火星では“血”だ。
◆
〈埋葬〉
火星では、死体を燃やせない。
酸素がもったいないから。
埋めるにも、土の圧が少ないため
“吹き飛ばされる危険”がある。
だから彼らは――
亡くなった仲間を、ドームの裏手にある「石窟」に安置する。
酸素事故から一週間後、
もう一人の老人が体調悪化で息を引き取った。
エロンは子供たちに言った。
「見なくていい。怖かったら戻っていい。」
しかし、ナディアは静かに首を振った。
「だって……この人、
ここに来てから、ずっと私たちを守ってくれた。」
火星の空は青い夕暮れに変わり、
石窟の中は淡い光で満たされていた。
エロンが最後の石を置き、
短く言った。
「死は地球より“近い”が、
……孤独ではない。」
子供たちは石窟を後にした。
そのあとに残ったのは、
砂の音と冷たい風だけだった。
◆
〈エンジニア会議〉
「蒼白の監視網(Pale Net) の監視、強くなってる。
生活パターンまで読まれる。」
「推定人口、酸素使用量、
温室の光量まで“算出できる”らしい。」
「どうする? 火星の文明モデル、
地球の AI に完全に掌握されるぞ。」
会議室の空気は重かった。
薄暗い光のなかで、
大量のデータが壁に投影されている。
エロンは椅子にもたれ、
額を押さえた。
胸骨の奥が、
また熱を持ち始めている。
サーシャが小声で言う。
「あなた、もう限界なんじゃないの?」
「……限界なんて、地球の官僚が決めるもんじゃない。」
「そういう意味じゃない!」
サーシャ は机を叩いた。
「あなたの身体よ!
鍵の後遺症が、もう“機能障害”になりかけてる!」
エロンは顔を上げ、
いつもの薄い笑みを浮かべた。
「いいか、サーシャ。
――俺は“鍵”じゃない。
鍵は壊れた。
でも俺は、まだ壊れてない。」
その瞬間、
壁の端末が自動的に起動した。
《Root Key Echo:振幅増加》
《残響パターン:同期要求》
《対象:不明》
エンジニアたちがざわめく。
「また“呼んでる”……誰かを……!」
「エロン、これ心当たりある?
前から気になってたけど……」
「無い。」
即答。
しかしその目は、
わずかに揺れていた。
(……本当に無い、はずだ。
だが、“残響”には意図がある。)
彼は胸の焼け跡にそっと触れた。
(俺は鍵を失った。
じゃあ、この残響は、
いったい誰を――)
その考えを遮るように、
外から轟音が響いた。
◆
〈外壁センサー:異常〉
《外殻圧力:急上昇》
《Dust Storm:最大級》
子供たちの悲鳴が遠くで聞こえる。
エンジニアの一人が叫ぶ。
「嵐の中心が……ここに向かっている!!」
サーシャ が息を呑む。
「内壁を閉じる!? 外に出る!?」
「出る。」
エロンは即答した。
「嵐は止められない。
だが――生き残るための“動き”は選べる。」
サーシャ はわななく声で叫んだ。
「あなたの身体じゃ無理よ!!」
「子供たちを守るために死ねないのは、
――地球にいる“神様だけ”だ。」
エロンは工具箱を掴み、
外殻ゲートへ走り出した。
胸の奥で、焦げた鍵の残響が、
狂ったように揺れ始める。
まるで――
誰かの“心拍”を探しているかのように。
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