第8話:赤い家族(前篇)
2061–2062 / 火星 V-01 コロニー
◆
火星の朝は、地球の朝とは似ていない。
太陽はふつうの 1.4 倍の時間をかけて昇り、
光は弱く、
風は音にならず、
空気は“砂の匂い”しかしない。
それでも――人は生きる。
そして、暮らす。
◆
〈6:12 AM / ドーム外殻・補修区画〉
「……エロン、おじさん、これ合ってる?」
少女ナディアの手には、透明樹脂のパック。
彼女の額には薄い汗がにじんでいた。
火星ドームの外殻は、夜間の寒波で髪の毛ほどの亀裂が走る。
それを毎朝、埋めていく。
「樹脂は“押し込む”んじゃない。
“流し込む”。水みたいに。」
エロンはナイフ状のツールを渡し、
凍った外殻の縁をなぞる。
ひびは、薄い光を反射していた。
「……地球の機材なら、自動で塞いでくれるのに。」
「地球の機材は“止められる”。
火星の機材は“壊れる”。
その違いが大事なんだよ。」
ナディアはしばらく考えて――小さくうなずく。
◆
〈7:40 AM / 氷床採掘区〉
外気温 −62℃。
赤い砂を踏みしめ、
採掘車 Rover-12 が氷床にドリルを差し込む。
地表の 4cm 下には、
薄氷と CO₂ 混じりの「霜の層」がある。
ここから、飲み水が生まれる。
「……氷っていうより、ドロ?」
サーシャ が顔をしかめる。
「火星の氷は“汚れ”てて当たり前だ。
人類がまだここを設計してない。」
「……何その言い方。」
「地球の川も汚いだろ。
ただ“許されてる”だけだ。」
機械の唸りが止まり、採掘車が氷塊を持ち上げた。
赤茶色の氷。
火星の水は、最初はいつも“赤い”。
「これ、本当に飲めるようになるの?」
「なる。」
エロンは淡々と返す。
「俺たちが作る世界は、
“許可された水”じゃなく、
“自分たちで飲んでいい水”だ。」
ナディアは目を丸くした。
◆
〈11:10 AM / 火星・航法教室〉
火星には学校はない。
だが、学びはある。
小さなドームの一室に、
十人の子どもが丸く座っている。
壁一面には、
地球ではもう消えてしまった“夜空”の投影。
「今日は、星の“ずれ”について話す。」
エロンは、ゆっくりとペンを走らせる。
火星から見た北斗七星は、
地球より 27% ほど小さく、
わずかに青味を帯びる。
同じ星でも、見え方は違う。
それは「視点」が違うからだ。
「星の位置が変わっても、星そのものは変わらない。
変わっているのは“見る場所”だ。」
子どもたちは静かに聞いていた。
「人間も同じだ。
地球にいるから間違うわけじゃない。
火星にいるから正しいわけでもない。
“見えるもの”が違うだけだ。」
その言葉に、
小さな手がゆっくりと挙がる。
「……おじさんは、なんで火星に来たの?」
エロンは答えなかった。
答えようとしなかった。
ただ――軽く微笑んだ。
「星の見え方を変えたかったんだよ。」
◆
〈15:00 PM / 植物工房〉
火星最初のトマトは、
地球のトマトより酸味が強く、
皮が少し硬い。
だが、驚くほど“うまい”。
「あ、赤くなった!」
ナディアが飛び跳ねる。
エロンは手袋を外し、
トマトの表面をそっと触れた。
「重いな。太陽光は弱いのに……根がよく頑張ってる。」
「ねえ、なんでテラフォーミングしないの?」
「連邦は、火星の空を自由にしない。
空を持つことは、国の“主権”だから。」
「じゃあ、おじさんたちは?」
「……俺たちには、空が二つあるからな。」
「二つ?」
「天井の空と、
……外の空だ。」
少女はしばらく考えて、微笑む。
「じゃあ、二倍自由だね。」
「そうだな。」
◆
〈18:10 PM / サーバー区画・低温層〉
ここは、火星基地で唯一「寒い」場所。
サーバーの冷却ファンが、
低い唸り声のように響いている。
「……また出たわ。例の波形。」
サーシャが画面を指差した。
そこには小さな揺らぎ――
“鍵の残響”が表示されている。
《Root Key Echo:不安定状態》
「対処は?」
「対処って……どうしようもないのよ。
暗号じゃない。
データでもない。
これは――“揺れた音”よ。
物理チップの“死ぬ瞬間”が、そのまま焼き付いたみたいな。」
エロンは長く息を吐いた。
(……まだ、ついてきているのか。)
胸骨の奥に手を当てる。
焼け焦げた生体チップの場所。
(お前は、誰を探している?
どこへ届こうとしている?)
◆
〈20:00 PM / 火星の夕暮れ〉
火星の夕日は、地球とは逆だった。
青く、冷たく、
どこか「終わりの色」をしている。
ナディアが横に座る。
「おじさん。火星は、いつ自由になる?」
エロンは、青い夕日を見つめながら言った。
「……自由は、なった瞬間には分からない。
“奪われたとき”に初めて分かる。」
少女は首を傾げる
「じゃあ、今は?」
「今は――
まだ、“奪われようとしている途中”だ。」
風が吹き、赤砂がざらりと音を立てる。
火星の夜は、ゆっくりと落ちてくる。
そして、人々はその下で静かに暮らし続けた。
その誰も知らないまま、
サーバーの底で揺れていた十の残響は――
“遠い誰か”を探し続けていた。
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