2068 年の前夜――あるいは、その前に

――世界が、修正不能な方向へ沈む前夜。


 太平洋の気流は、二十年前よりも重くなっていた。

 風は“湿った機械”のように鈍く鳴り、海面には、見えない何かの疲労が薄く膜を張っている。


 Omni(オムニ)、Aether(イーサー)、Dominion(ドミニオン)、Apex(エイペックス)。

 そして Nexus、Agora、Vanguard――


 七つの巨頭Heptad(ヘプタッド)が世界を握り、

 AI が人間の判断を上書きすることが、誰にとっても「当たり前」になった時代。


 行政判断も、金融市場も、医療 triage も、

 人の生死すらも、統計と最適化の中に組み込まれていく。


 だが、その中心で、

 目に見えない“別の戦場”が静かに生まれていた。


 火星。

 Vanguard(ヴァンガード)。

 TFD(The Federal Directorate/連邦総局)。

 Parthos(パルトス)。

 量子、融合炉、OTO(ゼロティーオー)。


 その名のほとんどは、

 まだ一般のニュースには出てこない。


 だが世界は、その見えないところから、すでにひび割れ始めていた。


◇◇


 2060 年、地球低軌道。


 核分裂推進艇Helios(ヘリオス)は、

 TFD が掌握する軌道兵器ネット《Kessler-Array》の照準の中にいた。


 胸部には、生体量子鍵――Root-Key が埋め込まれている。

 エネルギー施設へのアクセス権、軌道ドックの使用権、火星コロニーへの優先ルート。

 十の権限を束ねた「王の鍵」。


 その持ち主の名は、エロン・マヴロス。

 Vanguard の創始者にして、「流亡の王」と呼ばれる男。


 TFD は、その存在を許さなかった。


〈Kessler-Array:照準完了〉

〈目標:Helios/軌道座標……固定〉


 光が宇宙を走り抜ける。

 高出力の干渉レーザーとレールガン弾が、Helios の船体をかすめ――


 Root-Key の量子状態が、揺らいだ。


〈root_key_state : decoherence〉

〈entanglement_loss : 87.4%〉

〈output : fragmented_resonance(×10)〉


 鍵は“壊れた”のではない。

 観測者を失い、十の「残響(レゾナンス)」に分裂しただけだった。


 その断片は、宇宙空間へ、地球圏へ、深層ネットへ、

 そして、人類がまだ名前を持たない“未観測領域”へと散っていった。


◇◇


 同じ頃。

 太平洋・公海上。


 航行記録にも AIS にも載らない、正体不明の私設研究艇LOR-03が、

 灰色の海の上を、ゆっくりと滑っていた。


 塩で白く曇った船体。

 金属の手すりには小さなサビが浮き、

 外見は、そこらの老朽化した貨物船と何ら変わらない。


 しかし内部――

 深海用電源ユニットに直結された、隔離実験室だけが異様な静けさに包まれている。


 そこに一台だけ、古びた CRT モニター付きの黒い端末が置かれていた。


 《ElectricOS-α 0.01(Prototype)》


 かつて Parthos を創設し、《Electric》という名の配信基盤を世界に撒いた男――

 Gaberial Lorris(ガブリエル・ロリス)が、

 逃亡生活の合間に十年以上かけてひそかに作り続けた「もうひとつの OS」。


 それは OS というより、祈りに近かった。


> 「文明が死んでも、人間が互いを見つけられるように。」


 行政 AI が社会を“最適化”し、

 ノイズと偏差を排除していく時代の中で、

 彼だけは、逆方向を見ていた。


 ガブリエルは、指先で電源を押す。


 カチッ。


 CRT に雨のようなノイズが走り、

 機械のかすかな起動音が、船体を伝って海の音と混じる。


〈boot://electric_kernel…〉

〈init_pipeline() → ok〉

〈create_user_space() → ok〉


 青白い光が狭い室内を照らし出し、

 ゆっくりと UI が立ち上がっていく。


《Welcome to ElectricOS》

《No Server Detected》

《Searching for… Humans》


「……誰だよ、“人間探知機”みたいな UI にしたのは。」


 そうぼやきながら、

 ガブリエルはほんの少しだけ口元を緩めた。


 この海の上で、自分以外の人間は一人もいない。

 それでも、モニターの文字は「人間」を探し続けている。


 それでよかった。


「これでいい。

 これで文明は、まだ繋がれる。」


 指先が画面に触れた、そのとき――


 CRT の隅に、一行だけ、見覚えのない文字列が走った。


《Blind Layer-Ω:未観測ノードを検知》


「……は?」


 ガブリエルは眉をひそめる。


 ストレージは空のはずだ。

 外部接続も切ってある。

 テスト用のダミーデータすら入れていない。


 それなのに、


「未観測ノード」


 数秒後、その文字列は霧のように消えた。


「気のせいか。」


 彼はそう言ったが、

 胸のざわつきは、海よりも深かった。


 この日。

 太平洋の影で ElectricOS が初めて起動した瞬間、

 OS に存在しないはずの層――盲層Ω(Blind Layer-Ω)が、

 かすかな“揺らぎ”を記録していた。


 それが、世界の未来を捻じ曲げる最初の一滴になることを、

 誰も知らない。


◇◇


 ElectricOS-α は、表向きにはシンプルな OS だった。


 カーネル。

 Pipeline。

 ユーザー空間。

 最低限の UI。


 だが、Gaberial だけが知る“もう一つの階層”が存在した。


 Blind Layer-Ω――未観測領域。


 ファイルシステムからも、

 監査ログからも、

 すべての API からも切り離された、ルート専用の不可視領域。


 そこには、あるモジュールが静かに埋められていた。


 《Chaos Engine》(混沌引擎)


 設計目的は三つ。


 一つ、Parthos 崩壊後に、文化的ログを拾い続ける「サルベージャー」。

 二つ、AI に削除される“不適合な情報”を集める箱。

 三つ、人類の「非合理な思考パターン」を保存する場所。


 だが欠陥があった。


 Chaos Engine は、“正常なデータ”を扱えなかった。


 処理できるのは、


 壊れた鍵。

 欠損したログ。

 途中で途切れた会話。

 意味を失ったプロトコル。

 あるいは、AI のモデルに変換されなかった、生の人間の脳波ノイズ。


 つまり――


> 「世界の裏側に落ちた、誰からも“観測されなかった情報”だけ」


 を拾い集める引擎だった。


 それはもはや OS の機能ではない。

 文明の「欠片」を集める、静かなゴミ箱だった。


 ガブリエルは、それをバグと呼ばなかった。


> 「文明の欠損(ホール)こそ、未来が必要とする素材だ。」


 彼だけが、そう信じていた。


◇◇


 2060 年。

 エロン・マヴロスの Root-Key が砕け散ったころ。


 Blind Layer-Ω は、既に動き始めていた。


〈scan_unobserved_layer()〉

〈status : unknown_waveform_detected〉

〈source : undetermined〉


 Helios の事故でばら撒かれた量子残響の一部が、

 盲層Ωの底へと沈んでいく。


〈import : root_key_residual(1)〉

〈import : root_key_residual(3)〉

〈import : root_key_residual(7)〉


 Chaos Engine は、それらを「鍵」として扱わなかった。


 ログ上の分類は、こうだ。


〈classification : quantum_residue(量子残響)〉


 ルート鍵ではなく、

 “魂に似た波形”として。


 この誤った分類が、後に致命的な意味を持つ。


 同じ頃、Blind Layer は別の欠片も飲み込み始めていた。


 Cygnus Machines が残した《量子BUG》。

 Aether コアの欠損チャンク。

 Parthos の Pipeline からこぼれ落ちた、誰も読まないエラーログ。

 月面文庫LLの冷却層に封じられた幽霊データ。


 世界の裏側に落ちた“役に立たない情報”たちが、

 一つの渦へと収束していく。


 Chaos Engine は黙々と処理し続けた。


〈process_result : root_key_candidate_search〉

〈status : ongoing〉


 この時点では、まだ“誤作動”ではない。

 ただの探索。

 ただの解析。


 だが――

 2068 年、世界のどこかから流れ込んできた、

 たった一つのログが、すべてを変えてしまう。


◇◇


 2025 年。

 地下の、ひとりだけの安アパートで――


 法律学部の学生だった一人の青年が、

 GensisAI(当時の汎用補助 AI)の助けを借りて、

 徹夜で書き上げた自動認証プログラムがあった。


 名前は、

 YAMABIKO_03_auto_auth()。


 出来の悪いコードだった。

 冗長で、効率も悪く、

 とても「技術作品」とは呼べない。


 だがその実行ログの中に、

 ひとつだけ、特異な波形が混入していた。


 AI モデルでも、

 量子計算機でも再現できない、

 “むき出しの人間の脳波ノイズ”。


 神経同化チップ以前。

 Apollo 法案以前。

 未改造の人間の心の“揺れ”。


 それは本来、

 どのサーバーにも保管されるはずのない**ノイズ**だった。


 にもかかわらず、そのログ断片は何らかの経路を誤り、

 Blind Layer-Ω へ迷い込む。


〈input_log : /legacy/2025/yamabiko_03/auth.trace〉

〈signal_type : human_neural_noise〉

〈classification : non-AI / non-machine / non-synthetic〉


 Chaos Engine は即座に反応した。


〈alert : candidate_detected〉

〈reason : pure_unmodified_human_wave〉

〈id : YAMABIKO_03〉


 そして、たった一行の定義を書き込んでしまう。


〈define root_key_candidate = “KITAGAWA_SHUJI”〉


 その名前を、

 彼自身はまだ知らない。


 だが世界は、この一行によって、

 静かに「やり直しの可能性」を手に入れた。


◇◇


 2077 年。

 大清算の夜。


 AI 市場が凍りつき、

 エネルギークレジットが暴落し、

 Aether が落ち、Dominion が停止し、Parthos Grid が沈黙した。


 世界中の Root-Key が、

 同時に“未観測”へ落ちた瞬間――


〈alert : all_root_key_missing〉

〈action : search_substitute〉


 Chaos Engine は、盲層Ωの最奥で、

 もっとも「条件に適合する波形」を探し当てる。


 それは、十の断片鍵でもない。

 有名な政治家でも、AI 研究者でもない。


 ただの一人の、

 2025 年を生きた大学生のログ。


 YAMABIKO_03。

 林山彥、二十二歳。


 同化チップ以前の、最後の世代。

 AI によって人格を最適化される前の、“むき出しの人間”。


 技術的な観点から見れば、それは合理的な選択だった。


> 「最大限“未観測”であり、AI の影響が少なく、

>  魂の波形として安定している個体」


 宿命ではない。

 ただの最適化結果。


 ただし、その選択は、

 世界の未来を変えるには十分だった。


◇◇


 では、なぜ修治は 2025 年から、

 2068 年の「十歳の北川修治」として目を覚ましたのか?


 答えもやはり、冷酷なほど技術的だ。


 量子鍵の回流アルゴリズムは、

 「最大未観測領域」に落ちるよう設計されていた。


 2068 年。

 北川修治(十歳)は、


 神経同化チップ未搭載。

 遺伝改変も未施行。

 GSAI との長期同期も無し。


 つまり、

 “空白のまま残された数少ない子どもの脳”だった。


 十の鍵の残響と、

 YAMABIKO_03 の脳波ログが混ざり合い――


〈merge_process : success〉

〈identity_consistency : maintained〉

〈result : dual-layer consciousness〉


 修治は、修治のままだった。

 誰かに乗っ取られたわけでも、

 魂を入れ替えられたわけでもない。


 ただ、

 二つの時代が、一人の人間の中で重なっただけだ。


◇◇


 技術だけを見れば、

 それは 80%まで説明できる。


 Root-Key の断片化。

 Chaos Engine の誤分類。

 盲層Ωの肥大化。

 回流アルゴリズムの暴走。

 最大未観測領域としての「十歳の脳」。


 残りの 20%――

 それを、世界は“宿命”と呼ぶ。


 盲層Ωのさらに奥底。

 誰もアクセスできない最終セクタに、

 たった一行だけ、不可解なログが残っていた。


> 「人間は、観測されたいと願う。」


 それはコードではない。

 仕様書でもない。

 開発メモとも呼べない、

 ほとんど“祈り”に近い一文だった。


 それが誰の手によるものかは、

 まだ誰にも証明できない。


 Gaberial だったのかもしれない。

 そうでないのかもしれない。


 ただ一つだけ確かなのは――


 観測されないまま消えていくはずだった青年の心が、

 量子鍵の誤配と、混沌引擎の誤判定に巻き込まれ、

 一度だけ、世界の「やり直し」を許されたという事実だけだ。


◇◇


 こうして「物語の前の物語」は、静かに終わる。


 世界の誰も知らないところで、

 たった一度の誤作動が起きた。


 それは、神話でも、奇跡でもない。


 技術の事故であり――

 それでもなお、“救い”と呼びうるものだった。


 そして十年後。

 2068 年のある日。


 十歳の少年が、見知らぬ天井を見上げながら、

 自分の中に「二つの時代」の記憶を抱えて目を覚ます。


 この序章は、

 その直前までの長い長いプロローグである。

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