第3.5話:オリュンポス療法の影

火星往還船Vanguard-Heliosの操縦席で、

 エロン・マヴロスは一人、暗い宇宙を見つめていた。


 深紅の砂嵐が火星平原を包み、

 遠くでコロニーの照明が静かに脈打っている。


 今日も、胸の奥が鈍く痛んだ。


(……まただ。)


 わずか一拍、心臓が遅れる。

 加齢によるものではない。

 むしろ、逆だ。


 ——遅すぎる“若さ”。


 エロンは指先でこめかみを押さえた。

 痛みは数秒で消える。だが、その速度が異常だった。


 操縦席横の端末が薄く光り、通知が浮かぶ。


《OLYMPUS PROTOCOL:メンテナンス推奨(7件)》

《CRISPR 微修復:更新可能》


「……まだ言うか。」


 エロンは触れず、無言でスワイプした。

 画面は問答無用で《拒否》へ切り替わる。


 数秒後、端末がかすかに震えた。


《更新を拒否すると、治療効果が低下します》


「そうだろうな。」


 彼は短く呟き、窓の外を見た。


 火星基地New Acheronの発電塔が、

 砂嵐の向こうで青い光を揺らしている。


 背後から足音が近づき、

 Vanguard の主任技師・サシャが顔を出した。


「エロン、また……?」


「ただの微調整だ。」


「“普通の人間”が三日寝ないで微調整できるわけないでしょ。」


 サシャは腕を組んだ。

 小柄だが、Vanguard 最古参の技術者であり、

 エロンの“嘘”をすぐ見破る数少ない人間だった。


「前にも言ったわよね。

 あなた、あれを途中で止めたんでしょ。」


「……何も止めていない。」


「じゃあその通知は何? 十年も続けて拒否してるくせに。」


 エロンは答えない。

 サシャはため息をつき、椅子に腰をおろした。


「どうして更新しないの?」


「——連邦に、身体を握られたくない。」


 その声は驚くほど静かで、冷たかった。


 サシャは息を飲んだ。


「……まさか。

 連邦が提示した“延命協定”、断ったの?」


「ああ。」


「でも、それって……あなたの身体……」


「代償は払う。だが——」


 エロンは画面に浮かぶ《拒否》のアイコンを見つめた。


「俺の寿命を、連邦に管理させる気はない。」


 砂嵐が船体を叩き、

 火星の薄い大気が軋むような音を立てた。


 思い返す。

 2030 年代、Vanguard が地球を席巻した頃。

 彼は一度だけ“その治療”を受けた。


 疲労は消えた。

 視界は冴え、思考は加速した。

 老化の影は、確かに薄れていった。


 ——だが同時に、

 彼は理解した。


(これは……自由と引き換えの若さだ。)


 TFD は間違いなく、

 治療データを武器として使う。


 だから彼は、

 更新を切った。


 初回だけ受け、

 二度と続けなかった。


 その結果が、いまの身体——

 若さと衰えが同居する“歪んだ再生”。


 サシャが静かに口を開いた。


「……ガブリエルさんも、断ったんでしょ?」


 エロンは目を閉じた。


 ガブリエル・ロリス。

 Parthos の創設者であり、

 Electric を生み出した“狂った天才”。


「ガブリエルは……選んだんだ。」


「選んだ?」


「研究も、寿命も、自由も。

 全部まとめて、連邦に渡さない選択を。」


 サシャはエロンの横顔を見つめた。


「あなた、後悔してるの?」


「後悔しているのは——」


 エロンは小さく笑った。


「ガブリエルが死んだことだ。」


 痛みが胸を刺す。

 それは肉体の疼きか、後悔か、判断がつかなかった。


 そのとき、操縦席の計器が点灯した。


《Helios:火星外縁軌道へ移行準備完了》


 サシャが席を立つ。


「じゃあ、続きは帰ってからね。

 逃げるの、得意でしょ。」


「逃げてない。“動いている”だけだ。」


 エロンはゆっくりと操縦桿を握り、

 火星の空へ向けて機体を傾けた。


 赤い砂海の向こう、

 星々の間に薄く光る軌道が見える。


 あの先で、

 連邦が彼を待っている。


 そして彼は、

 決して彼らの支配には戻らない。


 胸の奥の痛みが、

 再び静かに波紋を広げた。


(……更新なんかしない。)


 若さは捨ててもいい。

 自由だけは渡さない。


 そう呟いた瞬間、

 火星の空に《Helios》の機体が吸い込まれていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る