第1話:火星の夜、遅れて届いた声(2062/11/18)
序 —— 赤い星の下で
火星の薄い夜気は、地球のどんな寒さより静かだった。
Vanguard 火星基地〈Colony-3〉。
エアロックの警告灯が、規則正しく脈打つ。
金属と砂塵の匂いが混ざり合うこの地下ドームは、
マヴロスが「亡命」して以来、彼の避難所となっていた。
だが——
この夜だけは、空気の流れが違っていた。
◇◇
2062年11月18日。
火星・バサルト平原外縁の仮設居住区。
人工重力 0.38G の安っぽい違和感が、
相変わらず、骨の奥に合わない。
ドームの壁越しに、夜の火星が広がっていた。
薄い大気のせいで、星は地球よりずっと鋭く光る。
外では冷却ポンプの低い唸りだけが続き、
人類最初の「第三文明」は、眠ったふりをして息を潜めていた。
モジュールの片隅で、古びたコンソールが一台だけ光っている。
埃っぽい椅子。
コーヒーの染みだらけのマグカップ。
液晶の縁には、剥がれかけたステッカーが貼ってある。
《If it’s not broken, we haven’t launched it yet.》
(壊れてないなら、まだ打ち上げてない——、か。
誰だよ、こんなこと書いたのは。……昔の俺か。)
エロンは小さく笑って、背もたれに体を預けた。
火星時間で、午前 3 時 12 分。
基地のほとんどは寝ている。
起きているのは、夜勤のエンジニアと、寝つけない老人だけだ。
通信ログが静かに流れていく。
地球との往復には、その日の軌道配置で二十数分のラグがある。
今夜も、たいしたものは届かないはずだった。
酸素配給データ。
水リサイクル率。
TFD 広報部の、うんざりするような公式声明。
《電網統合計画フェーズ2、順調に進行中》
《核融合エネルギーの公平な分配が——》
(公平、ね。
お前らの言う「公平」は、いつだって中央からの一方通行だ。)
そのとき、コンソールの隅がかすかに点滅した。
[DELAYED PACKET RECEIVED — ORIGIN: EARTH / SEATTLE]
[SIZE: 3.2MB / PRIORITY: UNKNOWN]
[ROUTING: STARLINK LEGACY → LUNAR RELAY → MARS GRID]
「……シアトル?」
胸の奥が、僅かに跳ねた。
今のシアトルから来るものは、たいていろくでもない。
TFD の指名手配リスト。
金融システムの断末魔。
あるいは、もう一つ——。
パケットのメタデータが展開される。
〈GABERIAL_FINAL_03.wav〉
指先が、そこで止まった。
火星の人工重力のせいではなく、
単純に、心臓が一瞬うまく動かなかった。
(……ガブリエル。)
数ヶ月前から、噂は聞いていた。
シアトルの病院。
酸素マスク。
頑固にキーボードから手を離さない、太ったハッカーの話。
TFD の「延命協定」を蹴り飛ばして、
電網にも接続せず、
最後まで自前の古いワークステーションにしがみついている——と。
エロンは、息を吐いた。
薄い火星の空気が、肺の中でざらつく。
(お前もかよ、ガブ。
寿命を伸ばすために電網に入るぐらいなら、
自分でケーブルを引き抜くタイプ、だよな。)
再生ボタンを押す前に、一瞬だけ目を閉じる。
火星基地の静寂が、耳の奥で重くなる。
「……再生。」
◇◇
——ザザッ。
古いアナログノイズが、薄いスピーカーから溢れた。
「よぉ、生きてるか?」
それは、記憶より少しだけ掠れた声だった。
エロンは椅子の肘掛けを握りしめる。
火星の低重力のせいで、握力の感覚が地球より弱い。
なのに、骨が軋むような痛みだけは、妙にはっきりしていた。
「Electric が死んだ?
いやいや、Half-Gate 3 を出すより簡単な話だ。」
思わず、吹き出しそうになる。
(相変わらずだな、お前。)
録音の向こう側で、彼は咳き込み、
それでもユーモラスに、世界の終わりをいじってみせる。
「さて……どうやら政府が電源ケーブルをぶっこ抜いたらしい。
まあ、そろそろだと思ってたよ。」
コンソールの端で、別のログが同期する。
[Parthos Power Grid: FAILURE DETECTED]
[Executing: Parthos Dissolution Packet… DONE]
[Executing: Electric Full Source Release… DONE]
(間に合わなかった、か。)
本当なら——
この瞬間を、地球側で一緒に見届けるはずだった。
TFD が Parthos の電源を抜く、その刹那。
ガブリエルが仕込んだ「遅延反撃」が起動し、
企業を解散させ、Electric の全ソースを世界中にばらまく瞬間を。
だが現実には、
片方は病院のベッドで息を引き取り、
もう片方は火星の埃っぽいドームで、そのログを遅れて受信している。
「だから、このタイミングで仕込んでおいた最後の二つを渡す。」
ガブリエルの声が続く。
〈DISSOLVE_ORDER.pkg〉
〈PARTHOS_SOURCE_TREE.tar〉
「これは遺言じゃない。
最終パッチノートだ。」
エロンの口元が、微かに歪んだ。
(遺言なんて、似合わない言葉だもんな。
お前に似合うのは、バグ報告とコミットログだけだ。)
「Parthos はもう、政府に奪われるには大きくなりすぎた。
だったら、“会社”という形を捨てる方が早い。」
「Electric は会社じゃない。
サーバーでもない。
まして政府のものでもない。」
「Electric は“人間”なんだ。」
そこで、録音の中の彼は一瞬だけ言葉を切り、
遠くの雨音を聞いているような沈黙が走った。
火星のドームでは、雨は降らない。
代わりに、外壁を叩く微細な砂塵が、
ごく小さな粒子の嵐としてコツコツと響いている。
(……人間、ね。)
エロンは、ゆっくりと息を吸い込む。
薄い空気が肺を焼くように冷たい。
「会社は死んでいい。
でも“文化”は殺させるな。」
「ミラ、ハリス……
君たちはよくやった。
あとは——プレイヤーに任せろ。」
名前が出た瞬間、
地球と火星の距離が一瞬だけ縮んだ気がした。
炎のような開発室。
締め切りのないプロトタイプ地獄。
「面白ければ何でも作る」ことを許された、狂った工房。
Parthos。
Electric。
その中心で笑っていた太った男と、
彼を横目で見ながら、別の惑星行きのロケットを組み立てていた男。
(同じテーブルには座らなかった。
だけど、同じゲームをやってた——そういう間柄だ。)
録音は静かに終わった。
ノイズが薄れていき、
コンソールの上には、いくつかのログだけが残された。
[Trigger Condition Met — Parthos断電]
[Electric Source Mirrors: 1000+ NODES (AND COUNTING)]
[ALAYA Autonomous Mode: ONLINE]
火星基地の空調音が、急にうるさく感じられた。
◇◇
「……ガブ。」
エロンは、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「お前、本当に電網に入らずに死んだのか。」
TFD が提示してきた「延命協定」。
脳と電網を直結し、
寿命を二倍にする代わりに、
思考の一部を「公共インフラ」として共有する契約。
Parthos にも、Vanguard にも、同じ書類が届いていた。
エロンは笑って破り捨てた。
ガブリエルは、もっと静かにゴミ箱に放り込んだと聞いている。
(俺はロケットで逃げた。
お前はコードで逃げた。
どっちも、あまり賢い選択肢じゃない。)
それでも、とエロンは思う。
あの延命協定にサインだけは、
二人とも絶対にしなかっただろう、と。
コンソールの隅で、新しい通知が点滅した。
[ALAYA GLOBAL NODE STATUS — SNAPSHOT (DELAYED)]
[CONSENSUS: 51% → 63%]
[NODE COUNT: 300,000,000+]
世界は、老いたハッカーの死を待たなかった。
彼の代わりに、「人間の群れ」が起動している。
「Just play、ね……」
エロンは、かすかに笑う。
「——ああ。
遊べ、ってことか。
電網じゃなく、自分のルールで。」
椅子から立ち上がると、
少しふらつく。
低重力に慣れたはずの足が、まだ火星の床を測りかねている。
ドームの透明パネルへ歩み寄る。
外には、薄く青白い朝焼け前の光が滲み始めていた。
地平線の向こうにある見えない点——
青い惑星と、今まさに「企業」を捨てたばかりの人類の遊び場を、
想像だけで結びつける。
「ガブ。」
ガラス越しに、誰もいない空へ話しかける。
「お前が文化を守るなら、
俺は環境を守る。
……そういう棲み分けでいいか?」
火星は、電網には接続されていない。
核融合の中央電源もない。
あるのは、古い核分裂炉と、壊れやすい太陽電池と、
エンジニアたちの徹夜だけだ。
(こっちはこっちで、
“文明を殺しにくくする”ための実験場にしてやるよ。)
遠くで、酸素分離装置の警告音が一瞬だけ鳴り、
すぐに誰かが止める。
人類最初の火星基地は、
まだ綱渡りのようなバランスで生き延びている。
「……さて。」
エロンはコンソールに戻り、
新しいファイルを開いた。
[LOG:// MAVROS_MEMO_2062_11_18]
“Subject: Gabe’s final patch, and why we didn’t join the Grid.”
カーソルが、白い画面の左上で点滅する。
彼は一行、ゆっくりと打ち込んだ。
「世界が電網に接続された日、
俺たちはロケットとコードで逃げ出した。」
(どこから話すべきだ?)
2030 年のカリフォルニアからか。
Nicolar と SpaceC の境目が溶けて Vanguard になった日からか。
それとも——
TFD が最初の「延命協定」を持ってきた、あの会議室からか。
火星の夜はまだ終わらない。
地平線の向こうで、
Electric のアイコンが、しぶとく光り続けている気がした。
エロン・マヴロスは、指をキーボードに置き直した。
「ガブ、お前のせいでな。
俺もちゃんと、パッチノートを書かなきゃいけなくなった。」
そう呟いてから、
彼は自分の物語の最初の行を、ゆっくりとタイプし始めた。
——それが、
後に「火星流亡記」と呼ばれることになるとは、
このときの彼はまだ知らない。
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