2062年、Gaberial最後の夜:ALAYA 最終パッチ

 2062年11月16日

 シアトルの午前 0 時 12 分。


 病院の窓の外では、太平洋北岸特有の細い雨が静かに降っていた。

 雨音よりもはっきり響くのは、機械の小さな電子音だけだった。


 病室の灯りは落とされ、

 ただ一台の古いワークステーションだけが青白く輝いていた。


 Gaberial Lorris(ガブリエル・ロリス)はベッドに横たわり、

 酸素マスクが彼の声を低く、どこか機械的に変えていた。

 だが、その目だけは二十年前と同じだった。

 ──「見えてはいけないものを見てしまった人間」の、あの光のまま。


 指はもう弱っていたが、それでもマウスを握れるほどには動く。


 マウスパッドには、情けない顔をした犬のプリント。

 そこにはこう書かれている。


「NO EXPECTED RELEASE DATE」


 彼が昔、冗談半分で自作したものだ。


──停電二日前。


彼は別のウィンドウを開く。

そこには、若き頃に Parthos 地下七層で作り上げた遺物のログが並んでいた。

未だ誰にも触れられず、封印され続けている。


《ElectricOS:Root-Login 要求》

《Blind Layer-Ω:アクセス承認》

《Chaos Engine:Rewrite モード突入》


──かつて、Parthos 地下第七層。

そこでは停電を目前に控え、ガブリエルは盲層 Ω と呼ばれる不可観測領域を開き、

自作の Chaos Engine を改造していた。


〈条件付与:未観測人格モデルの保持〉

〈条件付与:欠損鍵の代替探索〉

〈条件付与:転写許可〉


あのとき彼は言った。


「いつか、この世界が“歪んだ時”に備えてな。」


「……人間のためだよ。」


──その夜の決断は、ガブリエルの人生を決定づけた。

そして今日、病室の薄明かりの中で、彼はその続きを仕上げようとしていた。


 ──


 隣のベッド脇に座る男がいた。

 ガブリエルの古い友人であり、最後のエンジニア仲間。


 ハロルド・ベックマン。

 表には一度も姿を見せたことがない男だが、

 実は Electricのコアプロトコル共同開発者であり、

 Pipeline の初期設計者でもあった。


 ハロルドは、ガブリエルの震える手を見つめて言った。


「……持たないぞ、お前の身体。」


 声は乾いた古木のようだった。


「わかってるよ。」

 ガブリエルはゆっくり息を吸い、微かに笑った。

 その笑みには、いつもの謎めいたユーモアがまだ残っていた。


「でも、まだ書いてないパッチが一つある。」


 ハロルドは椅子の背を強く握る。


「お前はもう、2015 年の Cuda 大会で踊ってた ガブリエルじゃないんだぞ。」


「それはわかってる。」

 ガブリエルは肩をすくめた。

「当時の俺は、牛みたいに健康だった。

 今の俺は……」


 彼は自分の脚を指差した。


「……限定モデルだ。」


 その冗談は、

 悲しみを鈍く削ってくれる、彼らしいナイフだった。


 ◇◇

 午前 0 時 18分。


 ガブリエルは Alt+Tab を押した。

 新しいウィンドウが開く。


 そこには、二つのファイルが並んでいた。


 parthos_dissolution_packet.sig(署名済み)

 electric_source_release.tar.gz(暗号化済み)


「……何をする気だ。」

 ハロルドは息を呑む。


 ガブリエルは穏やかに笑う。


「“今すぐ”実行はしないさ。

 だが──備えておく必要がある。」


 そして、画面右下のログを示した。


〈Trigger Condition: Parthos Grid = Power Loss Detected〉

〈Upon Trigger:


 1) Parthos Dissolution Packet 自動送信


 2) Electric――全ソースコードを世界中のミラーへ開放。

 Pipeline、ElectricOS、Electric API。

 全部だ。


 ハロルド:「……つまり、お前……」


 ガブリエル:「ああ。」


 彼は静かに頷いた。


「俺の死じゃない。

 Parthos の“消滅から48時間後”に起動するトリガーだ。」


「政府が電源を抜いたら、その瞬間に全部解き放つ。」

 ハロルド:「正気か? 会社を消す気か?」


 ガブリエル:「守るためだ。」


 視線は穏やかで、揺らぎがなかった。


「Parthos が残れば奪われる。

 Electric が会社に握られれば腐る。

 権利が残れば、誰かが“独占”してしまう。

 だから──全部、自由に戻す。」


 ハロルドは声を失った。


「……これが、お前の遺言か。」


「違うよ。」

 ガブリエルは微笑む。


「これは“反撃の遅延実行(Delayed Strike)”だ。」

 ガブリエルは震える手でコマンドを打ち込む。


 $ register-trigger --event parthos_power_loss

 --execute parthos_dissolution_packet.sig



[Trigger Registered: Parthos断電 → Dissolution自動実行]


 続けて:


 $ register-trigger --event parthos_power_loss

 --execute electric_source_release.tar.gz



[Trigger Registered: Parthos断電 → Electric 全コード開源]


 ハロルドは頭を抱えた。


「……政府が電源を落とした瞬間に全部……?」


 「ああ。

 俺が押す必要はない。

 “殺される瞬間に起動する爆弾”さ。」


 ◇◇


 午前 0 時 26分。

 ──ヒューマン・コンセンサス


 ガブリエルは、再び ALAYA-5 のコード画面へ戻った。


 見慣れた関数名が光る。


 HumanConsensus()


 一行だけ、特別に長く見つめた。


 sort(nodes, nodes+n, compare_geo_diversity);


 ハロルド:「本気で……“投票権”をプレイヤーに渡すつもりか?

 それ、核のボタンを Reddit、2chan に渡すようなもんだぞ。」


 ガブリエルは咳き込みながら笑った。

「Reddit がコンセンサスなんか回せるわけないだろ。

 あいつらはメインノードに猫を選ぶよ。」


「政府よりマシだろ。

 あいつらは猫でもリーダーにするが、

 少なくとも独裁はしない。」


 彼は震える手で Enter を押した。


 ファイル名が走る。


 alaya_final_patch_03.c


「ハロルド。

 俺は“国家”も“企業”も信じない。

 だが──プレイヤーは信じられる。」


「理由は?」


「午前三時でも、誰かが BUG を直す。」


 ハロルドは苦笑し、目を潤ませた。


「……それはお前の話でもある。」



 ◇◇


 午前 0 時 48分。


 警告ログが黄色く点滅した。


 ハロルド:「またか。昨日も直した。」


 ガブリエル:「Yellow is the new green。」


 そして語り始めた。


「Electricが最初に起動したとき、

 同時接続は 37 人だけだった。」


「聞いた。」


「だが言ってなかったろ。

 俺はその夜、一度全部シャットダウンしようとした。」


「なぜだ。」


「“誰にも必要とされていない”と思ったからさ。」


 そして彼は笑った。


「翌日、75 人になった。

 その中の一人がこう言ったんだ。」


『生まれて初めて合法的にゲームをダウンロードできました』


 ハロルドは息を止めた。


ガブリエルは静かに言う。


「Electric は配信プラットフォームじゃない。


 人間が互いを見つけるための“避難所(シェルター)”だ。」


「だから──ALAYA は死なない。」


ガブリエルは窓の外の雨に目を向ける。

 呼吸は苦しそうだったが、眼差しは時間を飛び越えるように澄んでいた。


「子どもたちが Electric を守る。

 故郷や記憶や言語を守るように。」


「俺ができる最後の仕事は……鍵を彼らに返すことだ。」


 ◇◇


 午前 1時 05分。


 看護師が巡回に来て、ワークステーションの光を見て驚く。


「ロリスさん?!休んでいただかないと……!」


「休んだら、永遠に休むことになる。」


「……」


「すまん、死にかけてても口だけは元気なんだ。」


 看護師は涙目で頭を下げ、去った。


「痛みがあるうちは……まだ俺は“ログイン中”ってことだ。」



 ◇◇


 午前 1時 20分。


 最後のコード行


「本気で……世界中のプレイヤーを Electric の“器官”にするつもりか?」


「ああ。他にもっと狂った集団がいるか?」

「……いないな。」


 ガブリエルは最後の力を振り絞り、

 ALAYA のコードに指を置いた。


 // Electric Autonomous Activation


Enter。


[ALAYA Final Patch Compiled Successfully]


 ハロルド:「……お前はやり遂げた。」


 ガブリエルは微笑む。


「Half-Gate 3 の次に……難しいパッチだった。」


 呼吸は弱まり、手が落ちる。


 ◇◇


 午前 1時 42分。


 ハロルドが名を呼ぶ。


「ガブリエル ……!」


ガブリエルは口を震わせ──


「……Tell them……

 Just play……」


 心電図が一直線を描いた。


 ──そして、彼の代わりに“世界”が動いた


 Gaberialが目を閉じた瞬間。


 暗い病室のワークステーションが自動で光り、

 次々とログを吐き出した。


 ◇◇


 2065年11月18日

 シアトルの午前 1時 50分。


[Parthos Power Grid: FAILURE DETECTED]

[Trigger Condition Met]


[Executing: Parthos Dissolution Packet]

[Broadcasting to all jurisdictions… DONE]

[Broadcasting to Mars Colony-3… DONE]


[Executing: Electric Full Source Release]

[Uploading to Moon Archive / Mirror-Lib / Distributed Nodes… DONE]


 ガブリエルは既にいない。

 だが彼が残した「条件」は、確実に世界へ届いた。


 TDFが Parthos の電源を抜くその瞬間、

 Parthos は“企業”をやめ、

 Electric は誰のものでもない“自由”へ戻った。


そして停電と同時に、Chaos Engine は

世界のもっとも深い闇の中でひとり“目覚めた”。

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