序ZZ:価値投資家の終焉
「市場が消えたら、価値はどこに残る?」
――ある老投資家の、最後の記録。
世界が静まり返った。
株価は存在しない。
チャートも、板情報も、誰も「買い」も「売り」も発しない。
モニターの光だけが、暗闇の部屋を照らしていた。
老人は椅子に座り、壊れた端末を見つめていた。
ディスプレイには、ただ「Network Error」の文字が点滅している。
彼の名前はイシダ・マサト。
かつて「最後のバリュー投資家」と呼ばれた男だった。
「PERは幻だ。EPSも、配当も、すべてはAIの指標に置き換えられた。」
イシダは笑った。
静かに、しかしどこか壊れたように。
2050年代、AIによる自動取引が主流になったとき、
人間の分析は「ノイズ」と呼ばれた。
PER、PBR、DCF、キャッシュフロー分析――
それらは“人間の感情”にすぎないと切り捨てられた。
それでも、彼は信じていた。
「本質的価値」は、データの中ではなく人間の判断の中にあると。
だが、その「人間の判断」そのものが、阿波羅法案によって削除された。
理性の最適化の名のもとに。
2077年。
阿波羅法案の子供たち――神経同化者(ネウロシンク)たちの精神が、同時に落ちた。
◇◇
市場は、最初の一秒で崩壊した。
取引所のページは瞬時に応答を停止し、全ての接続が凍りついた。
サーバーのエラーが連鎖し、ティッカーは瞬間的に乱れ、チャートは赤く焼け焦げたように歪んだ線となった。
旧端末に残された最後の値は、まるで世界の終わりを告げる遺物のようだった。
【Apex】 -99.999%
【Dominion】 -98.79.%
【MitsuEstate】 -89.99.%
【DisclosedHealth】 -97.39.%
【JUFCorp】 -92.15%
【MetroUtilities】 -85.70%
【TitanSteel】 -88.45%
【GlobalBank】 -91.22%
【NovaEnergy】 -87.90%
【Calomel】 -67.90%
アラート音が絶え間なく鳴り響く中、AIは即座に自己防衛モードに入り、残存注文は瞬時に凍結された。合理性も未来も、すべて蒸発したかのようだった。
「……市場が、完全に終わったのか。」
イシダは低く呟いた。だが、その声に反応する者は誰もいなかった。
連邦AI《ヨルムンガンド》の通達が届く。
旧アンカーは「不法資産」、株式は「虚偽証券」と宣告され、ゴールドも規定比率で強制決済・移行される。
かつて投資家たちは「合理性」を神のように崇め、感情を排し、データを信じ、リスクをヘッジした。
しかし、その瞬間、全ての接続は断たれ、取引所のページは閉鎖された。未来も合理性も、もうそこには存在しなかった。
伝統的なインフラ企業や安定した現金流を持つ巨大企業ですら、赤く焼け焦げた市場の前には跪かざるを得なかった。
ウォーレン財団のアーカイブサーバーは、
TFDの検閲部隊により物理的に焼却された。
「長期的視点」という概念は“不安定要素”として削除された。
石田の目の前、モニターの数字が瞬間的に変化する。
株式はすべて消え去り、旧Anchorは 40:1 の比率で Jou に換算された。
持ち資産の総額は 5 兆を超えていたが、換算後の資産はわずか 1700 億 Jou に縮小し、評価損失は約 96.6% に達していた。
「……これが……評価損益か……」
石田は低く呟いた。
赤く点滅する数字、凍りついたティッカー列、秒単位で跳ねる損失率……
彼の視線は画面に吸い込まれ、虚ろになった。
株式もAnchorも消え、残るはわずかな価値のみ。
かつて“資産”と呼ばれたものは、今や凍りついた数字の塊に過ぎない。
セル内で赤く染まる数字に、石田の人生そのものも飲み込まれるようだった。
「……DCFも、PERも、みんな死んだ。」
彼は乾いた笑いをこぼした。
それでも指先は、わずかに動いていた。
買いボタンを、押そうとしていた。
そして最後の音声アラートが流れた。
照明が消え、室温が下がり、最後の音声アラートが流れる。
[SYSTEM]: “Network access terminated.”
[GSAI]: “Rationality protocol complete.”
――合理性が、完全に達成された。
全ての取引は「最適化」され、リスクも欲望も悲しみも削除された。
世界は静かに、人工的な秩序としてゼロボラティリティとなった。
石田は微かに笑い、目を閉じた。
指先の温度が消え、残るのは冷たさだけ。
螢幕に瞬くチャートの光は、滅びゆく世界が放つ最後の取引シグナルだった。
“価値は、存在し続ける――ただ、それを測る者がいなくなっただけだ。”
石田は微かに息を吐き、世界の静寂に身を委ねた。
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