第2話:理性の墓標

戦況室内で、方舟の指導層が定例会議を開いている。


方舟(アーク)の戦況室は薄暗く、冷たい照明が円形の会議卓を青白く照らしていた。

壁面の環状スクリーンには、地球規模の監視ネットワークが脈動のように映し出されている。

三人の影が、沈黙の中でそのデータの流れを見つめていた。


最初に口を開いたのは、銀白の髪に丸眼鏡を掛けた老人――アーサー・ソーン。

古びたスーツの袖口にはインクの染みが残り、まるで大学講義室からそのまま終末世界に投げ出された学者のようだった。

かつてオックスフォード大学で数理経済学を教えていた彼は、今や「方舟」の**チーフ・アクチュアリー(総精算師)である。


「TFDの“ジュール(JOU)システム”なんて、数学的には虚構にすぎん。」


「彼らは「燃料」を「通貨」と勘違いしている。

ジュール? ジュールは運用コストだ。消費され、拡散していく。

自動的に「蒸発」するものを、価値の基盤として扱うことはできない。」


「どんなインターン級のクオンツでも知っている。「物理スカラー」(エネルギー)を、「社会ベクトル」(価値)に無理やり当てはめることなどできない。

このモデルは、最初の一日から間違っていたんだ。」


淡々とした声が静寂を裂く。

彼がTFDを憎む理由は暴政ではない。

ただ――物理量と価値指標を混同する。

アーサーにとって、数学の誤りこそが原罪だった。


「数学だぁ? ソーン、その“優雅なモデル”を現場でどう使うんだよ!」

マーカス・ヴァンス。

かつてウォール街を支配したモメンタム・トレーダー。

今は「方舟(アーク)」の戦術統括だが、その内側には未だ市場の狂気が渦巻いていた。


「俺が知ってるのは波だ。勢いだ。

TFDがシステムを引っこ抜かなきゃ、俺が勝ってた!」


机を叩く拳に呼応して、ホログラムが揺れる。


アーサー・ソーンは視線を上げず、無言で眼鏡の縁を押し上げた。


「市場(マーケット)は、“敵”ではない。

 敵は常に――人間の中の欲望だ。」


「感情で取引する者は破滅する。

2077年で証明されただろう。」


冷たい一言に、ヴァンスの眼が険しく光る。

だが反論はなかった。


沈黙が落ちる。


そして、冷たい光の中、微かに笑った。


「――君の“リベンジ・トレード”が、次の崩壊を引き起こすだろう。」


空気が凍る。

誰も動かない。

スクリーンの片隅で、淡く光る文字列だけが静かに瞬いていた。


◇◇


「山彦(やまびこ)の奴、本当に信用できるのか?」


「熊本支部から、Apexの鍵(キー)保持者と思しき人物を確認したという連絡が入った。

こちらとしては、小型化神経同化シールドの安定性と信頼性を絶対に担保しなければならない。」


マーカスの目が光を反射する。


「“量子技術”だか何だか知らねえが、あいつは何を考えてる? 現場にも出ず、いつもあのサーバー室に籠りきりだ!」


アーサーは眼鏡を指先で押し上げ、落ち着いた口調で返した。


「焦るな、マーカス。リスクとリターンは常に表裏一体だ。

お前がミーム株を仕込んでた時も、そうだったろう?

彼には利用価値がある。それで十分だ。」


「それに――彼が神経同化防壁(ニューロ・ファイアウォール)を維持してくれる限り、我々の作戦は安全だ。」


――その瞬間、照明が冷たい青に切り替わった。

透き通るような女性の声が響く。


「二人とも、落ち着いて。」


声の主は、金髪を肩まで垂らした女性――アイリス・マーサー

氷のように澄んだ青い瞳、ぴったりとした戦術スーツ、腰には旧式の電磁ライフル。

彼女は「方舟」の情報主任であり、かつてTFDのグローバル監視局(OTO)の上級分析官だった。

彼女がTFDを裏切った理由は、怒りではなく――哲学だった。


「TFDは人間から自由意志を奪った。

私たちが取り戻すのは――間違う自由よ。」


アーサーは静かに頷き、マーカスは鼻で笑った。


そして、遠く離れた監視室で――修治は無言のまま、ARゴーグル越しにその光景を見つめていた。

指先が卓上を軽く叩き、わずかに口角が上がる。


彼は知っていた。

この「自由」と「理性」という二つの理想は、いずれ互いを喰い合うことになる。


方舟の目的――「ヨルムンガンド」のマスターキーを奪取すること。

彼らは目指す。

“新しいディーラー”となるために。


◇◇


遠く離れた監視室で――修治はMRゴーグル越しにその議論を眺めていた。

何も言わず、ただ指先で机を軽く叩く。


信仰、理性、正義、そして自由。

そのすべてが最適化され、取引され、再利用される時代。

誰もが誰かを利用し、誰もが何かのアルゴリズムに従って動く。


「理性は、やがて信仰に似る――俺は、それを知っている。」

「……お前らが俺を利用しているように、俺もお前らを利用する。」


小さく笑い、モニターを閉じる。


人間らしい温度も、機械の冷たさもない。

ただ演算だけが、彼の中で静かに続いていた。


かつて「北川修治」と呼ばれた青年は、

もうどこにも存在しなかった。

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