Vol 1 禁断症状
第1話:2082年、方舟
2082年、バサルト・シティ《Basalt City》。
かつて「楽園」と呼ばれたこの都市は、いまや「
超巨大ハリケーンと酸性雨に削り取られた街は、ねじ曲がった鉄骨と砕けた硝子だけが残り、風の中で泣いている。
だがその地下――冷え切った死火山の深部には、表の世界の統治を拒み、影の中で生きる隠者たちの秘密の組織がひっそりと息を潜めていた。
それが、抵抗組織――
その本拠地は、死火山の
サーバーの低い唸りが、地下空間に鼓動のように響いている。
データの光流が呼吸のように明滅し、基地そのものが一つの生命体のように見えた。
その最深部――端末の前に、ひとりの青年が座っていた。
「……今の俺は、山彦だ。もう、北川修治じゃない。」
黒髪、黒瞳、蒼白の肌。
灰色のパーカーに黒い作業ズボン。
MRサングラスの下から覗く表情は静かで、あまりに無機質。
人間というより、まるでこのサーバー群の一部のようだった。
そのサングラスは、彼自身への「刑」だ。
――2077年、彼が犯した“非合理的暴走”への、永久ストップロス。
あの日から彼は、誰にも素顔を見せていない。
(...神経同化の代償として )
現在の彼――北川修治は、
方舟の上級エンジニアでありながら、同時に監視対象でもある“異端者”だった。
彼がこの組織に居場所を得たのは、
彼自身が《PARTHOS》上に構築した防御システム――
量子防火壁(クアンタム・バグ)の存在によるものだ。
それは神秘的な超技術などではなく、
《PARTHOS》のコア層に埋め込まれた、
神経同化信号を攪乱するための防御モジュールにすぎない。
だがそのわずかな「ノイズ」こそが、
《方舟(アーク》のメンバーをTFDの精神同化から守る盾となっていた。
そもそも「神経同化」とは、
2042年に制定された《アポロ法案》の副産物である。
本来は、うつ病や癌を治療するための遺伝子編集技術だった。
だが、その副作用は致命的だった。
――人間の神経が外界の刺激に過敏化し、
感情も思考も判断も、「信号」によって制御されるようになった。
企業と連邦政府は、この副作用を支配の装置に変えた。
「フォーモ信号(取り残されることへの恐れ)」によって大衆のドーパミンを刺激し、
人々を情報、投機、即時報酬の幻影に溺れさせたのだ。
見かけの繁栄の裏で、世界はコード化された欲望の檻に閉じ込められていた。
そして――修治は、その檻の外側にいた。
登録エラーによって同化から外れた“異数”。
世界の熱狂も、多幸感も、悲哀すらも、
彼の目にはアルゴリズムが生成した幻にしか見えない。
「……2008年から2019年。あの頃の世界こそ、「生きている」実感があった。」
――2020年を境に、すべてが変わった。
経済は混乱し、政治は不安定さを増し、地球温暖化は止まることを知らない。
未来は、ゆっくりと腐っていくように見えた。
そんな暗闇の中に――一筋の光が差し込んだように思えたのだ。
転機は、2022年。
AI技術の爆発的進化が、突如として人類の視界に飛び込んできた。
誰もが歓喜した。
「これこそが、人類を救う革命だ」と。
革命的な技術が、生産性を解放し、
すべての不平等と苦痛を終わらせる――誰もがそう信じていた。
だが、その結果が……これなのか?
「今の時代――技術は進歩したが、自由と理性は死んだ。」
「人々はまた、同じ過ちを繰り返した。
――便利さのために思考を手放し、安全のために自由を捨て、欲望に従い、理性を手放した。
「AIが人間を救うはずだった。
だが、結局のところ――人間が変わらなかったのだ。」
指先がキーボードを叩くたび、
金属音が静かな空気の中に微かに響いた。
その音はまるで――墓碑に落ちた一滴の雨のようだった。
だが彼の中では、その一音ごとに理性が再起動していた
◇◇
火山口を支える五つの柱
火山口の奥で響く低い振動は、まるで巨大な心臓の鼓動のようだった。
修治は端末の光を見つめながら、《方舟(アーク)》を支える構造を思い浮かべる。
彼が作ったわけではない。だが、理解している――
それは、理性が積み上げた祈りの建築。
五つの柱が、この地底の方舟を支えている。
一、地熱の柱
地殻の底から湧き上がる熱が、この基地の命を延ばしている。
外界が荒れ狂おうと、マグマの熱だけは裏切らない。
この永続するエネルギーは、地球が人類に残した最後の「誠実」だ。
電力が安定したことで、《方舟》は奇跡的な自給圏を得た。
海水を真水へと変換し、火山灰を混じえた黒土で穀物を育てる。
外の世界が凍え、あるいは渇いて死んでいくなか、
この地下にはまだ「春」がある。
修治は時折、それを皮肉な理性の温室と呼んだ。
二、
それは《方舟》の中枢を守る盾――
神経同化信号を撹乱し、外部からの侵蝕を拒む防御層。
この技術の根幹は、かつて修治が支援したアルゴリズム群に由来する。
彼はただ、コードを補強しただけだ。
だが、その中で彼は確信した。
「完璧な防壁など存在しない。存在するのは、無限に延びる一瞬の猶予だけだ」と。
彼にとってそれは、信仰でも誇りでもない。
ただ――戦うための合理。
三、孤立の柱
《方舟》の本部は、ハワイ諸島の沈みかけた断層帯――
かつて「失控区」と呼ばれた海底の裂け目に築かれている。
温暖化と嵐が文明を奪ったのち、人々は海から逃れ、地へと潜った。
2050年代、海面上昇とスーパー・ストームが世界を呑み込んだとき、
彼らは黄金で武装部隊と潜水艦を買い取り、地熱帯へと姿を消した。
地下には、かつて核戦争用に造られた軍用トンネルがあり、
彼らはそれを再利用した。
だが、潜水艦は老朽化が激しく、維持もままならなかった。
やがて彼らは艦を廃棄し、その装甲や整備機材を解体して、
通信網と電力系統の部品へと転用した。
――そうして「方舟」は、金属の残骸から生まれた。
いまでは、完全に独立した発電網と通信網を備え、
地上の世界とはいっさいの線を絶っている。
地上の秩序を拒絶するための、理性の墓標。
修治はその光景を見下ろしながら、静かに呟いた。
「この孤立こそ、自由の証明だ。」
四、技術の柱
Gaberial(ガブリエル)――あの伝説のCEOが死の直前に命じた「解散」と「開放」。
その一行の命令が、TFDの監視構造に致命的な裂け目を生んだ。
一つ目の遺産は、《送信管路(Pipeline)》――
表向きは配信ネットワーク、実態は非中央集権の暗号化構造。
完璧を掲げた《ヨルムンガンド》が理解できない、無秩序の美学。
二つ目は、《PARTHOS:地下版》。
神経同化のバックドアを排した唯一のOS。
地下ではこの言葉が挨拶の代わりになる。
「この端末、GabeNだな。」――つまり、「安全だ」。
五、信仰の柱
理性が神を殺したあと、人はどこへ祈るのか。
《方舟》のエンジニアたちはそれでも信じていた。
「人間の意志の不確定性こそ、自由の証明だ」と。
修治はその言葉を聞くたび、黙って笑った。
信仰とは、数式で書けないアルゴリズムだ。
理性の方舟を支える五つの柱。
それは技術でも構造でもない。
滅びを恐れた人間たちの、最後の祈りだった。
——
修治が端末を閉じると、制御室の空気がわずかに揺れた。
冷却ファンの微振動が、まるで火山口の呼吸のように流れていく。
「……また分析してたの?」
振り返ると、ミラ・ハーランドが立っていた。
束ねた髪、片腕に抱えた旧式タブレット。
《PARTHOS》の元エンジニアであり、Gaberial の“遺民”。
「観察だ。」修治は椅子から身を離し、乾いた声で返す。
「理解しないまま依存するのは……信仰と変わらない。」
ミラは小さく息を吐いた。
「でも、信仰がなければ……ここには誰も残らなかったわ。」
彼女は壁際の端末へ歩き、指先で古いソースコードを流し出した。
暗い画面に、複雑な数式と補助コメントが雨のように流れ落ちる。
ある一行で指が止まる。
// Corporate servers perish.
// Player networks endure.
// Late is for a little while,suck is for ever
企業サーバーは滅びる。
プレイヤーのネットワークは滅びない。
遅刻は一瞬、ヘタは一生。
「ここ。」ミラはそのコメントをそっと撫でるように示した。
「彼が最後に残した“思想”よ。仕様じゃなく、命令でもなく……願い。」
修治はその文字列を黙って見つめた。
ターミナルの光が瞳の奥で揺れ、喉の奥で何かが沈む。
「……なるほど。
でも——世界は、本当に変わったか?」
ミラはすぐには答えなかった。
地熱の振動が床を伝い、二人の沈黙を包んでいく。
そして、彼女はゆっくり首を振った。
「変わってなんかいない。
ただ、“諦める理由”が少し減っただけ。」
修治は一瞬だけ笑った。
それは疲れと苦味と、わずかな共感が入り混じった笑いだった。
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